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手作りの味 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン
 
 
手作りだから、その粗末さが味になるなんて
思えない。
 
それを請負、寸法をだし切り出し方を
千差万別に変え真剣にものをつくる職人がいるという
ことは、侵食することなのだと思う。
読んで字のごとし、食を侵す。
世に出して、商品をつくると言うことは
趣味とはまったく違う世界で厳粛だ。
 
世の中の仕事はすべて連携や分担で
成り立っている。
グラフィックで言えば、印刷屋さん、
写真家で言えば、現像屋さん
または機械でも、道具でも、水でも火でも
やはり何らかの力を借りてものは
つくられているのだ。
 
この連携や分担にもっとも大切なものは
のりしろ だと思う。
互いに重なりあっていく部分があるからこそ
俺はここまで、俺はここまでを消すことが
できるのだと思う。
 
じゃこの のりしろは どこにあるのか?
それは机上にも、MACの前を探しても
一生見つからないことは確かだ。
 
地方にいって職人さんに、僕はデザイナー
ですなんていったら、怪訝な顔されて
嫌われるのが落ちだ。
東京からそのものを良く分からずに
デザインした図面をおくったって
結局ろくなものができていない。
見てくれはよくても、言われたとおりに
つくる職人さんはこんなの大丈夫かなと
思っているのがこれも落ちだ。
 
これじゃどれだけの自称デザイナーを
怪訝に思うかやっと僕にもわかった。
 
よく魯山人を例え、あの人は絵を描いてただけだから、
高台を削っていただけだからと話をよく聞いたが
それでよいのだと僕は思う。
ものを深くまで知れば、それがあたりまえだと分かる。
 
よいものを届けるために、最高の連携と分担を
行う、これ以上、まだ見ぬ客に真摯に向き合えることが
できるだろうか。
 
結局現場にいき、まず自分がやらなきゃ
はじまらないし、そのものを深く知る
ことで余裕のある のりしろが 生まれるのだ。
 
どんな仕事でも すべては現場にしか
ないのだろう。
どこかで聞いたセリフだ。
 
そうだ何がどこがどうなのか
体に叩き込むために、手前の
情けなさを思い知るために、

今日も現場に行ってみよう。














 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

現代的なものの見方

JUGEMテーマ:アート・デザイン


世の中には考え方も、ものも
古いものと、新しいものがある。

新しいものは合理化され
古いものはそんな合理化する知識や
技術が無かったがゆえに
頑なにつくらざるを得ない状況だったろう。

ものが現代に合わせて合理化されるように
それを真似て、ヒトも合理化していないだろうか。

太古の昔も、今もヒトの求めるものは
何ら変わっていない。
それを家にサッシが入って、冷暖房が完備され
携帯電話があり、メールができれば
それで何か解決し、ヒトが進化したのだろうか。

どんなに優れた道具も単なる道具にしか過ぎないのに
道具が目的になり、道具が主役になり
自分自身が脇役として生きる。

ものが、情報が溢れ、見知らぬヒトと手軽に出会うことも
コンビ二状態だが、残念ながら、選ぶものが一層軽薄に
なっていくのは不思議だ。

結局こちらの決め打ちが無ければ、
それは、ものや道具、情報をコントロールしているようで
実はただ流され続けて、利害と損得勘定だけだから
選択音痴になり彷徨うのだろう。

何もない時代、何をどう選ぶか、
ヒトはささやかな行為の
はずだったのではなかろうか。







 

 

 

 

 

 

 



































 


秋のにおい

JUGEMテーマ:アート・デザイン


今年は夏らしい夏となったが、もう
ささいな場所から秋の記憶と出会う。

それはこの熱気の中にもすでに秋のにおいが
含まれていて、夜になればカエルではなく
虫の音がするようになるともう秋の気分だ。

特に田んぼの稲が刈られ、野焼きをする頃には
そのかすかな煙とともに空が透き通るように
澄んで、畑から一番星が見えれば秋がやってくる。

夕暮れ時には、そのかすかな煙が
一本の細い糸のようにあちこちに立ち上がり
ひとつの空間ができあがっていた。

そんな時に決まって、あの夏にはもうちょっと
こんな事をしておけばよかったと振り返るのが
秋の約束事ではなかろうか。

どんなにしてもその夏を、そしてその
秋を満足させることはできていないし、
おそらくこれからも、そんなものなのだろう。
真夏の熱気から覚める秋は
やっぱり特別な季節なのかもしれない。

春と秋という中途半端な季節が今まであまり
好きではなかったのに、いまではむしろ
春と秋に興味をもっている。

それはその前の夏と冬が大切ということが
やっと自分にも分かってきたからなのだろう。
やはり春と秋のにおいは特別なのだと思う。




















言葉という日本語

JUGEMテーマ:アート・デザイン


誇りという言葉を、プライドと訳すのは
間違いだし同じ意味ではない。

こんな風に日本語と英語を無理やり
同意のようにそれなりに訳して
使ってしまっていることがあまりにも多いと思う。

本来 言葉が行動になり
意識が思想が言葉になった日本語と、
アルファベットの展開から言葉になった、
理数系方程式のような英語を同じように訳してしまうことは出来ないはずだ。

にも拘わらず、辞書や授業は全く同じように書かれているから、
疑う余地なく鵜呑みにしてしまうから、まるで帰国子女のように
話はずれるのだろう。
英訳できない日本語がどれくらいあるか知るべきだろうし、
訳せない、だいたいこんな感じと本音を語る
正直な辞書ももう必要な時代だろう。

日本語には本来その裏にたくさんの思いが含まれている。

それは相手の発した言葉と共鳴し、さらに深い意味となり
行動や思想となっていくようにできている。

せっかくの日本語も、英語のように音として、
メールの変換機能の記号としか
自分の中に取り込めなければ、相手の立場や
思いやその背景にあるものを見ようとすることも、
意識する事さえもできずに想像性が全く働かない。

イメージがわかないから、そこには
阿吽の呼吸がうまれない。

意気のない、奥ゆかしさのない
桜の木に登って花びらを落とすアメリカ人と脳みそは同じだ。

桜をみて、月をみて、蛍みて我々は何を感じるだろうか。
ひらひらと花が散るのを見てるそばで
I LOVE SAKURA と言われても、
やっぱりこれじゃあね。
そんな外国人をやっぱり自分は
好きにはなれない。

誇りという言葉は、たやすい言葉ではない、が
訳のわからん経を唱えるよりましだと思う。
それはプライドと同じ意味だと信じて使えないから
自分が何ものか何が自分の誇りが何だった
のかさえ忘れそして世俗にまみれる。

わずかの銭や物欲のために心と体と時間を
異文化人に売り渡す前に
汗かいて手前の中の誇りを第一とするべきだろう。

少しはましな方法は他にいくらでもあるのだから。





















互換 − 沼尻真一

 
すべての価値観は自由で束縛がない。
その価値観は、いままでの生き方の中で
身に着けてきたものだ。
 
その価値観を決めるひとつの要素に
人との出会いもあるだろう。
 
誰と出会うかは、結局は神のおぼし召しだろうが
心がけ次第では、地獄の閻魔様にも出会うだろうし
はたまた天使にも出会うのが人生の妙味なのだと思う。
 
怖いもんはまた怖いもんに出会うというのがお決まりで
結局そのコースを変えるには
皮膚感覚を切捨て、
心感覚に取り戻す必要があるのだろう。
 
難しいように聞こえる「心がけ」なんてもんだが、
実は「心」なんて臓器が頭なんだか、心臓なんだか
よくわからないもんだから
今が楽しければいいや。つまり体内ではなく、
体外の皮膚や脳みそが
満足してれば、心も満足しているのかしら?
なんて勘違いが続くのも、人の厄介なところなんだと思う。
 
こうなると結局は自分を客観的にみる必要が
生まれてくることになるのだが、その自分第三者が
甘いのか、辛いのか、酸っぱいのか?で
だいぶ進むコースもちがってくる。














日本の伝統はどこへいったのか − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


伝統はどこへいったのか。

高齢者の方がごくわずか、例えば2〜3人が
伝統的な技術を受け継ぎ、
今でもやっていますと言う。

需要がなければ当然売りあがらないから
生活するために、霞を食べて生きていけないから
当然職業として成り立たなくなる。

農家の平均年齢が70歳前後で
後10年以内に日本の農業の技術は
失われていくだろうと警告されていた記事をみたことがあるが、
それは農業に係わらず
伝統的な産業すべてにそれは当てはまるのだと今日思う。

日本の食卓の7割が外国産と言われる状況は
食に限らず、伝統産業にもまったく同じことが言える。

原料となる木や絹や麻は国内で自給され、
いままではそれらを用いて様々な伝統工芸がつくられていた。
産地を偽り、食品偽装と言われ数多くの会社が消えていったが
果たして、日本の伝統工芸はどれほどのものなのだろうか。

伝統工芸に伝統偽装はないのだろうか。
産地表示、加工表示はトレーサビリティーは必要ないのか。

伝統工芸を定義したときに、原料についての明記が
各都道府県の行政単位がしなかったから
技術だけがその定義に沿っていれば、
原料が外国産だろうがまったく構わないなんて
状況があたりまえになっている。

しかし、町おこしのために、県の威厳を守るためにも
または国から補助金をもらうためにも、そんな
細かな定義は邪魔で、おおらかな定義が必要なのだ。

いまモノを買う人の中には、食品を買うのと同じように
モノも買っている人もいる。

こんな伝統工芸のもとを見れば見るほど
その原料までを、または0地点がどこなのかを
知れば知るほど?としか言いようの無いものが
堂々とまかり通って、雑誌やテレビや芸能人に
祭り上げられている状況がある。

国や県という行政の言う、大らかな定義での伝統工芸で
評価される者もいれば、より厳格な定義を求道する
人間もいるのが現実だろう。

つくるほうも、買うほうも、
0地点がどこなのかを知るべきだし、
伝統は常に進化させるべきだと思うが、過去から未来へと
まっすぐに貫いている核心の棒までを
変えたらそれはまったく意味のない産物だと言えよう。

戦後65年、
安保闘争から50年、
東京オリンピックから45年、
バブルがはじけて20年、
インターネット革命から17年、
リーマンショックから2年

全部を経験した人でさえ65歳または75歳だったら
10歳で終戦を迎え記憶があるはずだ。
そう考えるとこの日本という国は
意外にまだまだ若い国なんだと思う。
だから実は伝統なんてもんも
中国4000年の歴史と言っているような程度のもんかも
知れない。
だから伝統という言葉が危うさをもっているし、
伝統という言葉に甘えるのは危険だ。

常に時代の変化が需要と供給のバランスを変化させ
その影響は、一見間逆の位置にあるような
日本の伝統工芸といわれるものにも
多大な影響を与えてきたのだと思う。

それは農地解放で財閥が解体され
工芸のパトロンがいなくなったときと同じように
常に理解者、支援者、パトロン、ファン、
蒐集者、投資家は、常に工芸の世界と表裏だからだと思う。

時代に翻弄される思想は常にここから変化し
何らかの影響を作り手に与えているはずだ。

だから、ものをつくる人間であれば、
自分の思想が時代にどう翻弄され
再構成しているのか、そして
そのものの0地点がどこなのかを
考えて作るべきなのだろう。


沼尻真一
































 

世界 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン




華やかな世界ではない場所で
何が起こっているのか、
いま想像がつくだろうか。

実はそこが愛おしかったり、
心ある世界なのではないだろうか。

そこは現実から逃避するための場所ではなく
真実の世界なのだと思う。

怖くて見えない、見ようとしないで生き
続けていくことは自分の心を麻痺させて
自分を騙しつづけていくことなのだと思う。

そこは影で、暗い世界だと言われるが
そうは見えない。
そこにこそ光があり花があるのだと思う。

誰もがようやくその場所にも
帰ることができるだろう。






























巽醤油・梶田商店のサイトができました − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


もちろん
生きてくために金を稼がなければいけない人間と
何かの使命のために
生きなければいけない人間がこの世にいると思う。

梶田君は後者だと思う。

以前 愛媛県の梶田君の家に遊びに行って
いろんな話を聞かせてもらって単純にそう思った。

どうやら海や川など水があるところには
縁があるらしくて、巽醤油のある大洲市は
まさに清流の街だった。


愚直に醤油を追求し作っている姿勢が
これからは意識をはみ出して、あるいは
意識を慣習をぶっ壊してほしい。

家の人が味噌や醤油を大切に使っていた。
あの場面がこんな時代でもホッとするように
ただそれだけを願っている。

沼尻真一

※8・4 梶田商店のサイトが完成しました。





























濱田庄司の思い出 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


すがすがしい風が南斜面から降りてくれば
それは誰だって、懐かしい気持ちになるだろう。

土間のウィンザーチェアに
腰掛け外の緑を眺めてみれば、
 陰影礼賛という言葉が
生まれた意味も分かる気がする。


エギリスから帰ったばかりのじいちゃんは
こんな田舎でいきなり
蝶ネクタイを締めてやってきて、
村人たちは変人あつかいだ。

夜な夜な使わないロクロを借りて
農家の8畳を間借りしてばあちゃんと二人の
暮らしが始まった。

じいちゃんは新し物好きで、
久しぶりに東京から帰ってきた私の身に着けているもの
ひとつひとつをすべて批評した。

海外にいけば、現地で買い付けた荷物が
先に届いて家一軒が倉庫になった。

そんな荷物もいまじゃ全部が貴重な資料となっている。










































間とリズム感 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



間とリズム感は全てに係わっている。

しかし音楽やダンス、スポーツ程度に
意識されていないのが現実だろう。

それではとてももったいなくて
実は、間とリズム感は人と人のコミュニケーションに
係わり、「阿吽の呼吸」そのものだと思う。

タイミングや文脈、起承転結、間合い、ながれ、合気道
気孔、世界が違えば、言い方は違えど
すべてが、
眼に見えない波動や気動であろう。

感じて動くのか、
それとも不感症のままで自己を中心に動いていくのか?

竹が風で自然にしなり、そよぐ姿は
風を活かし、
己を活かしているようにも見えなくはないだろうか。