profile
selected entry
categories
links
archives
recent comment
others

半農半工 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

特色のある品物が一番数多く作られるのは、農村で
山村、これにつぎ漁村は割合に少ないことに気づかされます。

また古い城下町などには伝統を続ける工人たちを良く見かけます。

半分は百姓をして、暮らす人の作ったものの方に
ずっと正直な品物が多いということであります。
それは農業が与える影響によるものだと思われます。

大地で働く生活には、どこか正直な健康なものがあるからで
ありましょう。
これに比べ商人になりきると、とかく利欲のために
心が濁ってしまう。

半農半工の形は概してよい結果をもたらします。

それに正直な品物の多い地方を見ますと
概して、風習に信心深いところが見受けられます。

信心は人間を真面目にさせます。
このことが、作る品物にも映ってくるのだと思われます。

良い品物の背後にはいつも道徳や宗教が控えています。

このことは将来も変わりなき道理であると考えられます。

・引用「手仕事の日本」柳宗悦

もう30年も前から、今のようにカフェという言葉がなく
喫茶店といわれた時代から、自分流のスタイルで
奈良でカフェをされてきた人がいます。

いまは、空前のカフェブームのようで、
若い方が将来カフェを開きたい、という夢を持って
このお店の門をたたいてくるそうなのですが、

私は「農家のお嬢さんを採用したいと思っています。
さらに言えば、祖父母と一緒に住んでいたような方が。」
と言われました。

なぜですか?と僕が訊ねると

「汚いものでも平気で触れるからです。それに良く働きます。
きっと親が体を使って働いている姿を、子供の頃から
良く見ているからでしょうね。」

この話を聞いて、僕の仕事でも、また
住んでいる茨城県でも同じような事が頭に浮かびました。

茨城県の南部は今ではつくば市を中心に
研究学園都市の建設を機に
農業から現在の大学や、国の研究機関や、
サービス業など大きく産業が変化しました。

しかし、県西や県北、県央などではまだまだ
農業を生業としている家がたくさんあります。

やはりスタッフの採用などをしてみると
この方の言うとおりに感じています。

またデザインにしても東京の中にお店を一つつくるという
仕事をこなすにも、建築家をはじめ様々なデザイナーや
コピーライター、スタイリスト、写真家と関わることになりますが、
僕がやっぱりしっくり来ない部分があるときには、
その人柄はもちろんですが、生まれながらに環境の中で
培ってきた、信心深さみたいな所の相性が合わないというか、

例えば「夕陽」というワードをイメージしただけでも

大地の中で育ってきた方の夕陽と、都市の中で育ってきた方の
夕陽は、もうまったく違う色や形になっていて

しかもそのイメージから紡ぎ出される、デザインとしての表現は
通じない事になっている気がしています。

どちらが良いという事ではないのですが、
自然から表現されるものが、ほとんどだと思いますし
柳宗悦が言うように
「気候風土を離れて、品物は決して生まれてこない。」と
思います。

ちょうどいまは、中秋の名月でしたが、
地方に多い屋根瓦に、月の光があたる時に、
それはまるで
きらきらとさざ波が光る、穏かな海のようにも見える
という体験は
地方に住む者であれば、幼き頃から身に付くことでありましょうから、
それが心にどのように影響し、育まれていかれたのかは、
何気ない仕草や場所、考え方の中に表れてくるのかも知れません。
































手仕事の手は、心と直接に繋がっている。 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

 
そもそも手仕事が機械仕事と異なる点は、
手仕事の手は、それはいつも心と直接に繋がれている。

手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて
これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、
また道徳を守らせたりする。

そしてこれこそが、品物に美しい性質を与える原因である。

それ故、手仕事は一面に心の仕事だと言えます。

手より更に神秘的な機械がありますでしょうか。

自然が人間に授けてくれた両手が道具です。

・引用:「手仕事の日本」柳宗悦

僕は幼い頃から大正生まれの祖父と祖母に育てられた環境から、
子供の頃から手仕事が身近だったように感じています。
ちょうど今の70歳前後の人と同じように育っているような
感じだと思います。

手仕事といっても、工芸品を作ってしまうような
手仕事ではなく、祖父は秋から冬にかけて
長屋の軒下でわら縄や、ムシロをつくっていました。
ムシロは農産物である梅、ゴマ、小豆、大豆、納豆づくりに
庭先で利用されていました。

祖母は縁側に座って、お針箱を持ち出し
僕の体操服のひざ小僧の穴を、繕ってくれたり、
農家の家では冬の定番になっていた、貝巻き布団に
裏地を縫っていました。

ミシンを持っているような若いお母さんがいる友達のひざ小僧に
比べて、自分のひざ小僧があまりにもステッチ過ぎるというか、
刺し子や雑巾のようになっていて、恥ずかしいと感じた事は
今でもよく覚えています。

また小学校全体で、凧揚げ大会が冬休み明けに開催される事になって、
祖父が家に生えている竹から、竹ひごを作り、
そこから「奴凧」を作ってくれました。

ただ、奴凧に仏壇の下にしまわれている障子紙を
貼る役は、自分にやらせてくれました。
僕はそこに黒色で「一番」という文字を確かクレヨンで書きました。

小学校3年生にもなり、もう僕らの時代には奴凧なんて
見たことがないから、逆にこんな凧が上がるのかな?と
正直不安に思うのと同時に、ちょっとダサいなと思っていました。

休みも明けて、いざ登校してみると予想通り
みんなの凧は当時流行していた、ゲイラカイトという三角形をした
恐らくアメリカ発の買ってきたような凧がほとんどでした。

そんな中、竹と糸と障子紙で作った奴凧は
また、なんだかとっても恥ずかしい感じがしました。

そんな中、いよいよ全校生徒で凧揚げをしてみると
この奴凧がかなり上がって、結局は全校生徒で3位に
入る快挙を成し遂げることができました。

帰りには、僕にとってこの奴凧は、ちょっと恥ずかしい存在から
宝物に変化をしていました。

そんな大正時代の祖父母に比べたら、いま自分が手作りできる
物なんて、わずかな野菜作りぐらいのものです。

このように家庭ひとつをとってみても、
手仕事はますます
失われてしまっているように感じます。