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大杉神社・麒麟門竣工祭・あんばさま・阿波様/市川久仁守宮司 − 沼尻真一 

JUGEMテーマ:アート・デザイン




ついに大杉神社の麒麟門が完成を迎え
今回、麒麟門竣工祭に参列させてもらった。



麒麟門は1747年に焼失して以来、
大杉神社にとっては実に280年ぶりの復興となった。
市川宮司さんが就任されてから20年以上という
年月のなかでついに麒麟門までもが完成した。





麒麟門の二階中央の扁額の文字は
これまで参拝者のいくつもの夢を叶えてきたことに由来し
「夢顕」とあるが、まさに神社自体が門の完成によって
薫化したということだろう。





平成22年
西では平城遷都1300年
「日本のはじまりの奈良」大極殿正殿も
同じように復原・公開される。



立春が過ぎ、平成22年がはじまるなか
基礎を示す 22 という数字の中で興っている
これらの礎となる出来事は数の専門家には
必須なのだろう。

せっかくの年なので、こちらもひとつ
jこれから先の、礎づくりの年と参りませう。


沼尻真一
















最期の職人 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

 
旅先では思いもかけずに
これまで自分の探していたものと出会う場合があります。
それはひと月越しであったものや、もうかれこれ
三年越しのものまで様々です。

特別に探しにいったわけではないのですが、
ちゃんと目の前に現れるものなのだと感じます。

一度はお店の前を通りすぎてしまっても
レンタカーをUターンさせても戻ってしまう。
思ったとおりの職人の方や、主の方と出会う。

修行先の明治の職人のようにただ厳しいだけでなく、
奥ゆかしさを出したかったのだけど、
あの厳しい時代に生きた人にしか出ないもんだと、
75歳になる現役の職人さんが
話してくれました。

職人のものの見方、ものの使い方を教えてくれる。
足指の長さは、足も手の一つだと教えてくれました。
手も足も本当に美しく。

いまの自分にできることは、
自分の体が覚えるまで使いこなすことだと感じています。


沼尻真一













幸せの黄色いハンカチ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

 
森や水、太陽の光、雄大な山、
そのような環境が植物と同じように、
人の心も育てている。

幼い頃に見た故郷の原風景は、
一生その心の中に宿り、
そんな場所にいつかまた
人は戻っていくのだろう。

故郷と同じような環境のなかで、
できれば仕事と生活が調和できるように。
そのための何かが見つけられたら、
いつまでも懐かしい
故郷も共に喜んでくれるのでは
ないかと思います。

沼尻真一

・「幸せの黄色いハンカチ」1977年松竹映画





































軽薄草々 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩
 

男女同権でいかなる場所にも同席して憚らず、
小さい物より大きい物、短い物より長い物、
質よりも量が優先し、心よりも物が人を支配する時代と
なりました。

何が高級で何が低級かも分からない。

箍(たが)の弛んだ桶の中の水がじわじわと低きに
低きに流れ出して、やがて元も子もなく
空っぽになって行くのに気付かないでいる。

             *

見てはいけない場所が男女ともにあるように、
男になりたい女も、女になりたい男もいますが。

中途半端にいいときだけは、女で男で
分が悪いときには、やっぱり男で女じゃ、
そんな都合のいい性の持ち主はやっぱり銭湯に入れる
5歳児と同じ頭だろう。
邪気のない5歳児にあまりに失礼だ。
男性、女性、中性という分類をつくれば
多くの問題が解決できるに違いない。

好奇心旺盛なんてのは、世間や人間と動物の
境が分かっていない言い訳にしか過ぎない。
獣でさえもライオンの群れに入っていく孤独な鹿はいない。

矛盾はこの世からなくなることは無かろうが、
通せる筋というのものが、
獣にはなく、人にできることではなかろうか。

男性、女性、中性の前に。


沼尻真一


























ドコモとドコデモ死す   −   沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩
 

あたりまえに過ぎ去る日々のなかで、

・意志があり、言葉があり、行動がある者と。
・言葉があり、行動がある者と。
・行動だけがある者と。
・行動もない者と。

日常にも、自分の中にもそれは入り混じっている。
皮肉にも、あたりまえのことが実は難しいはずなのに
下の段から、自分の中の何者かに
自分の周りの何者かに飼いならされて
視界不良となるのがとても残念だ。
だから初心が必要なのであろう。

目新しさにのみ、視界が開けるというのはどういうことだろう。
あまりにも稚拙な心ではなかろうか。
そのような場合にのみ「幸せ」、という言葉や
「最高」という使い古された常套句をやたらに
使いたがるものだから、
そんな言葉の軽さには辟易するから
信用ならない。

決まり文句ほど卑しい社交辞令はないだろう。
皮膚だけで生きればすべて社交辞令で生きてる
ことになるだろう。

すべてナビゲーションされたメール機能のような
話し方やしゃべり方、言葉が本人の
人格まで支配してしまうなんて
そんな恐ろしい世界がどこにあろうか。
そんなものに魅力は一生生まれない。









































価値 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



モノにも人にも価値がある。

同じ人やモノでも価値があるときもあれば
価値がない場合もある。

金額が安い高いで判断する人間は
人の場合は利害関係のある人間から大事にしてゆく。
年をとればなおさらだ。
信じられるものが、金になり名誉になるのだろう。

いくら年を重ねても結局、価値を見出す術を
自分に持てなければ
結局は、金額の大小、有名無名、流行など
世間の煽りの中に飲み込まれいく。
それもブロイラーのように
考えなくて済むという利点は確かにある。

しかし、刺激の塗り重ねと、消費の中に身を投じて
自らの価値さえ失っていくことは、
そのような年を重ねた人間を見てきて
自分にはまったく魅力を感じなかったし、
むしろ寂しい限りだと感じている。

親でも友人でも価値を教える人間はもはや誰もいない、
頭の奴隷にならずに、価値のあるものを
(形なるもの、心にあるもの)それらを見出すためには、
結局、自らの眼を心を養い、紡ぎだすことしかないのだろう。

誰しも肉体と心2つが両方必要なのだから。
つくり笑顔をせぬように。














































かくれんぼ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩


美の源泉も自然であり、
美味の源泉もまた自然にある。
              *

かくれんぼ、誰でも子供の頃に遊んだと思う。

息をひそめて気配を消して、
しんと一人になる、そんな時に
さっきまで聞こえていなかった呼吸や
竹葉の音、風の匂い、樹皮の感触など
かくれている自分の周りの気配を
感じたことがあるだろう。

子供の遊びが、実は自然と一体となったり
気配を消したり、鬼や仲間との
以心伝心の方法だったり。

静かに息をひそめ、じっと見つめるだけで
今までかくれていた自然を
今はもうすっかり大人になった鬼も
見つけることができるのだろう。

                 *

「かくれんぼ 息をひそめて 一人になった」

                                                      沼尻真一











 

137億年の宇宙 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



137億年の宇宙なのだから
137億年2月12日とすればいいのにと思う。

いや宇宙ではなく地球ができてから
44億年なのだから
44億年2月12日もありかもしれない。

いずれにしても西暦ではなく
宇宙歴や地球歴から見れば
人類の歴史はまだまだ浅いと感じる。





































日本庭園 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン






日本庭園は自然を見立てている。
滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、
石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や
蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。

家と庭から家庭という言葉が生まれているように、
家と庭には密接な関係があるように思う。

この池では僕が小さいころは、錦鯉を飼っていて
錦鯉を飼うのにはメンテナンスが大変なので、
小学校ぐらいからは金魚やメダカを孵化させながら飼っている。

昔から何人もの子供たちがこの池に落ちたか分からない。
当然僕の友達も落ちているし、自分も落ちたことがある。

不思議とその瞬間瞬間落ちたシーンが思い出される。

茨城弁では

「おめぇ 池につっぺたんだしけか?」

「んだ、おれ池につっぺっちったよ」

となれば、よろしい。


沼尻真一










































晴れ(ハレ)と褻(ケ)、禊(ミソギ) − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


晴れ(ハレ)は儀礼や祭り、行事などの晴れの舞台。
褻(ケ)は日常生活を指す。
ケには気枯れ(穢ケガレ)を含む。

晴れは折り目・節目を指し、晴れ着。
普段着をケ着という。

現代では、元来日本民族の持っていた「ハレとケ」の概念が崩れ、
日常的にハレの特別な飲食が行われてきている。





「穢れ、不浄」は「清め・祓い・贖い」の儀式の重要性を主張し
「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復すると言われているが、
その行為はきっかけであり、それを機にまたは日常の中での
気づきを機に、本人の自覚なしに穢れが無くなることはありえない。

禊は身に罪や穢れのある者、また神事に従事しようとする者が、
川や海の水でからだを洗い清めることであるが、
日常の生活の中で行える禊のやり方がいくつもあると思う。

         ハレ、ケ、ケガレ、ミソギ 

これらはセットだと思う。気分の問題ではなく。

現実の暮らしの中ではこれらが複合されている、
この道理ぐらいはちゃんと頭にあるべきだと思う。

自分の立ち位置を曖昧にしてしまう者のハレの日が
雨にしか見えないのもこのためだろう。