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白洲正子さんの京都、平野屋の鮎と茶の湯/沼尻真一


夏の茶の湯には、

 

鮎をテーマにしたものを

 

良く見かけます。

 

先日も恩師の書院の床には、

川合玉堂の鵜飼の画が
掛けられておりました。

 

 

 

 

鵜飼は天正天皇720年(養老4年)から行われて
おり、大変歴史の深いものです。

 

自分の窯のある岐阜県ですが、

西濃の長良川の鵜飼は日本一有名です。

 

しかし

 

あの鵜は

一般保護鳥に指定されていて、
捕獲を許可されているのが、

日本で唯一茨城県十王町の「鵜の岬」です!

 

そこで捕まえた海鵜を
岐阜や京都、愛媛、山口などなど鵜飼をしている
全国12箇所に送られるそうです。

 

我がふるさと茨城出身?の鵜が

全国で苦労しながら活躍しています。

 

青楓に囲まれた清流に泳ぐ鮎は、

何とも涼しそうで、
京都のムッとした暑さの中

 

一服の涼を誘います。

 

しかしこの鮎というものを
お茶をしている人でも意外に

知らないな〜と思い

記してみたいとます。

 

 

夏といったら鮎!

 


「あゆる」が「アユ」に

「あゆる」は「おつる」の古語で、

 

鮎が春になると川を上り
秋になると川を下ることから言われています。

 

 

もう一つ
中国では鮎に「年魚」という漢字が用いられています。
春に生まれ、そして冬に死ぬという所からです。

 

日本では、「日本書紀720年」「古事記712年」の
いずれにも鮎は「年魚」として登場しています。

 

鮎という漢字は?

 

魚に占う?

 

 

誰が何を占ったのか?

 

 

●日本書紀の中に!
九州に生まれた初代天皇 神武天皇が
東征をし近畿大和を平定し、王権確立をしたという。

 

紀伊熊野から、いよいよ大和の高倉山に至った際に
戦勝祈願の儀式で川魚の捕獲状況で占ったと

伝えられています。

 

 

●古事記の中でも!
神功皇后(じんぐうこうごう)が現在の佐賀県で、

鮎釣りをされ新羅進軍にあたり、
釣りの成果で占ったという。

 

因みにこの様子を表しているのが

京都祇園祭の占出山であり、

別名、鮎釣山と呼ばれています。

 

 

祇園祭限定、占出山で売られる菓子

「吉兆あゆ」

 


このように皇室と鮎は

関係の深い魚として
とりあげられ

 

「日本建国のシンボルのような魚!」

 

として存在しています。

 

また室町時代から明治まで、

京都では「御用鮎」といい

旬に獲れた鮎を朝廷に献上していたそうです。

 

つまり

 

同じ時期に鮎を食するという事が

庶民にとっての

 

「あやかり文化」

 

につながってきたのだと思います。


若鮎の菓子も

 

みな月の菓子も


鮎や氷を食べてみたいという、

 

庶民の願望が
菓子となったように、


「あやかりたいという願望から生まれた文化」は
多くの日本の文化に影響しています。
 
きっと皇室や朝廷でなくとも、

それぞれの地域のお殿様の歴史の中にも、

身近なあやかり文化は全国各地にあると思います。

 

そのようなモノや事、

 

土着性に触れられる点でも

茶の湯を嗜むというのは

面白いものです。

 

※ちなみに中国では鮎という字は

ナマズを指すらしいです。

 


 


●白洲正子と京都平野屋の鮎

 

京都に夏の訪れをつげる祇園祭。

 

この祭りを彩る京料理に欠かせないものに
鮎があります。

 

祇園祭前

値段が一番高いと言われれる鮎。

 

なかでも「世木の鮎」が

京都の鮎ブランドです。

 

しかし鮎は無傷で生きてなければ価値が無い!
と言われ、活鮎をめぐって

古来から様々な知恵と工夫が
生まれてきています。

 

 

京都の鮎といえば、


白州正子さんや多くの文人も
鮎の解禁を待ちわびたという

創業400年「京都平野屋」さんが有名です。

 

 

 

 

武者小路千家三代の画

一番左が八歳の頃の若宗匠 千宗屋さんの仏画

 

 

 

大川橋蔵さん、美空ひばりさん

 

 

もともと平野屋さんは
京都火伏の神として知られている愛宕神社の門前町、

嵯峨鳥居本にある鮎問屋として始まりました。

 

この世木の鮎は世木村、現在の日吉町で
6月1日から9月30日まで、夏のかせぎとして
漁が行われておりました。

 

投網で一網打尽が早そうですが、
傷がつきますから、ヒッカケ漁や友釣りなどが
主流のようです。

 

鮎を獲るアユトリさんから、

 

鮎を運ぶアユモチさんに

 

引き継いで、

平野屋女将 井上典子さん

 

中には炭を塗り込め暗くする工夫を

 

 

計50〜70匹を入れ計27kmを
7時間山道をアユモチ桶に鮎を入れて、
鮎が心地よい様に揺らしながら
鮎を運んだそうです。

 

平野屋鮎の生簀

 

貴重な鮎を運ぶのに

かなり熟練を要したようです。

 

途中2〜3Kmごとに新鮮な冷たい水を

鮎桶に補給しながら
慎重に慎重を期して運んだそうです。

 

そして一日置かれて、

 

鮎のストレスを取ってから

 

祇園祭で賑わう

 

祇園や先斗町の高級料理屋さんで

旬の鮎料理が振舞われたという事です。

 

平野屋鮎

 

茶店の菓子「志んこ」も有名。抹茶、白、ニッキ

 

 

茶の湯と同じように、京都に育まれた鮎文化。

 

茶席に登場する鮎を見かけたときには

ぜひこんな鮎の流れを思い出してみると

さらに楽しくなると思います。

 

 

沼尻真一









 


なぜお茶・抹茶・茶道は点てるというのか?なぜお茶は一服というのか?・茶道/沼尻真一

 

 

茶の湯には

美しい言葉や、難しい漢字が沢山あり、

何か書こうにも

 

漢字変換できない事ばかりで

いつも四苦八苦です。

 

まして携帯なんで

とんでもないものしか

出てきません〜

 

 

むかし

茶の稽古中に

 

先生から「薄茶いかがですか?」

 

と言われ

 

「あっ、

    

    もう一杯お願いします。」

 

と言ったら、

 

先生から

「一服ですよ。」

 

なんて指摘された事を思い出しました。

 

煎茶は淹れるのに、

 

抹茶は点てる?

 

抹茶はなぜ?

一服

二服と数えるのか?

 

あたり前なのに、

 

かる〜く疑問に思い


調べてみても


動作や漢字の意味ばかりがネットで溢れていて?


そこは誰でも知ってるので、


そこじゃないな〜と思い。


せっかく茶道をしていて


点てる❗


一服❗は


頻繁に使うのに、


どこにも書いてないので、


 

昔を尋ねてみたんですが…。

 

 

                 十

 

やはり漢字やお茶が生まれた、

当時の中国から見ていきます。

 

遣唐使を派遣していた

唐の時代には喫茶の風習が広がっており

『旧唐書』には、茶は食物であり、

米や塩と異ならないと記されています。

 

そんな中、

 

お茶の世界では有名な茶書、

 

陸羽りくうさんの著した

「茶経」ちゃきょうにより、

餅茶へいちゃ(宋の時代には団茶)を

粉にして煮る方法、

後に「煎茶」といわれる方法、

それらの薬効について記されました。

 

宋の時代に下がると

皇帝から一般人まで、

茶はすでに生活に不可欠なものと

なっていたようです。

 

この時代には、

 

蔡襄さいじょうさんが1051年頃に

「茶録」ちゃろくという書物を著し、

団茶を粉にして、湯をかけて

撹拌して飲むという、

新しい方法を記しました。

「点茶」という方法です。

 

ん〜バリスタのようです。

 

喫茶が広がり、茶葉の品質が

向上されてきた為と考えられています。

 

つまり、

この頃のお茶は

 

煎茶法、点茶法など

地域により飲み方も様々だったようで、

 

 

 

 

中には、現在のように

葉茶を淹れる散茶という飲み方もあり、

 

 

 

この散茶の一種として、

葉茶を粉末にして湯を注ぐ、

現在の抹茶のようなもの

も飲まれていたようです。

 

また町に出れば茶坊・茶肆ちゃしと

呼ばれる茶店が多数あったようです。

 

 

ここで大変興味深い事は

なっなんと、


店では職業・身分関係なく、

同じ席で茶を飲んでいたとの事。

 

もはやスタバです。

 

なので、


良く茶道の世界で強調されて

語られているような、

 

宋の修行僧達が主に薬として

茶を飲んでいた、というイメージを

持っていましたが

ちょっと違いましたね。


宋で飲まれていた茶は

皆さんはどのようなイメージを

お持ちだったでしょうか?



ただざっくり、茶道のお稽古で


お茶を渡来ものとして崇め、

日本の今の茶道のイメージを

固定してしまうのでなく、


やはり、日本に伝わる前の

宋の国のイメージって

とても大事だと私は思います。

  

このように

お茶の産地である

宋ではすでに、

茶の品質階級はあったにせよ

 

茶が「薬」

 

という当時の日本のような

意識ではなく

既に生活の一部だったんですね。

 

さすが産地は違います。

 

だからその頃は、

 

んー苦い「もう一杯!」

 

で良かったかもしれません。

 

 

ちなみに「点茶」という語には

口の細長い湯瓶で、一点に湯を注ぐ

という意味もあるとの事。

 

また「点」という字には、

 

中国語で

火をつけるや、

滴るなどの意味も

あったので、お茶を点てる様子に

近い感じもしました。

 

また面白いのは、

 

修行僧の点呼の為に茶礼をするから

「点茶」という面白い説もありました。

 

修行中のお坊さんの

慌てた姿が浮かびます〜

 

 

つまり、

自分のかる〜い疑問点の

 

答えとしては、

 

「一服、二服」と薬のように呼ばれる

きっかけは、

 

・茶の薬効を説かれた、陸羽さん。

 

 

お茶を「点てる」と言うのは、

 

・点茶方法を説かれた、蔡襄さん。

 

でした。

 

スッキリしました。以上です。

 

 

 

日本にはどのように?

伝わったか?

 

 

PCが壊れて2年…

しかし、


やはり

日本へ〜が気になりますので、

 

 

今から945年前、

1072年弟子七人とともに入宋した

大雲寺 阿闍梨の成尋じょうじんさんの

「参天台五台山記」には、

 

各地の官営や寺院で「点茶」の

もてなしを受けたと記録されています。

 

 

その後、成尋さんは弟子のみを返して、

1081年にそのまま宋で入滅されています。

 

 

 

そして、その一世紀後

1191年に二度目の帰朝をした、

栄西ようさいさんにより日本に

喫茶法が伝えられたとされています。


一世紀、百年も遅くなりました。

 

栄西さんが喫茶法を記した

「喫茶養生記」には、

 

一、喫茶法には、「白湯、只沸水云也。

極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。

 

「(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二・三匙。

多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)」とあります。

 

ここでも、

 

「点てる」

という語が記されています。

 

また、あわせて

 

「之を服す」という語が

 

「喫茶養生記」には数多く記されています。

 

やはり、養生記ですから

お茶を「薬」として捉えられています。

 

中国語でも「服」には

薬や毒を飲むという意味がありました。

 

つまり、宋に赴いた

この二人の高僧の記録などから

 

日本では、

茶は「点てる」、

薬と同じ「一服、二服」と

徐々に広まっていったのではないでしょうか。

 

以上です。

 

 

やっぱり、

ダメです〜

 

たった

 

なぜ

茶を「点てる」というのか?

 

なぜ

「一服」というのか?

 

これだけの事なのに、

 

 

どうしても

省略できない部分があります。

 

 

百丈懐海さん(ひゃくじょうえかい)

749年〜814年は、唐時代の禅僧です。

禅宗の清規しんぎとは、
禅宗の僧の生活規則です。

この百丈懐海さんが
『百丈古清規』を初めて

制定したとされています。

 

この頃日本では、

804年に遣唐船団として

唐へ渡った最澄さん、空海さん、

805年には三十年以上在唐していた

永忠さんも帰国しました。

 

815年には永忠さんが

嵯峨天皇に煎茶を献じたと

「日本後記」には記録されています。

 

つまり、平安初期には団茶法としての

茶が一部の貴族や僧侶の間で飲まれ、

茶園が作られたとする記録もあります。

 

つまり、栄西さんより300年も❗早い

この時期の日本では、

 

永忠さん、最澄さん、空海さんなどは

寺院としての茶の捉え方、用い方。

 

貴族の方は、貴族としての茶の捉え方

用い方をしていたと

私には見えますので、

 

宗派は違えど、

寺院では「禅の清規」に基づき

「点茶」かもしれませんし、

 

誰もがお茶を薬として捉え、

「一服」だったかは、

私にはわかりませんでした。

 

また


また宋に戻ります。

 

宋の時代になると、


この『百丈古清規』は

すっかり衰退してしまい、

それを遺憾とした雲門宗の

宗賾そうたくさんが、

当時叢林古刹などを調べあげ、


現存する最古の清規『禅苑清規』

ぜんおんしんぎを

1103年(日本は平安時代)記されました。

 


栄西さんが

宋で学んだ頃の禅林ではすでに

この「禅苑清規」が

用いられていたと考えられており、

その中には現代の茶の湯の原型と

考えられている「茶礼」がありました。


「禅苑清規」の中では「点茶」という語が

使われています。



栄西さんの後も、

永平寺を開創した道元さん、

大徳寺を開創した宗峰妙超さんの師の

南浦紹明さんなど、

 

宋へ留学した僧が続き
「禅苑清規」が、日本の禅宗と

茶の湯の成立に大きな
影響を与えたと考えられています。

 

ちなみに栄西さんが開山された

京都建仁寺では、毎年4月20日

栄西禅師の降誕会に行われる

「四頭茶会」よつがしら茶会が

開かれています。



この四頭茶会は清規に基づいた

茶礼として広く知られており、

荘厳な雰囲気の中、

所作全てがとても参考になるものです。


お坊さんは全員左足から入室して来ますよ。

 

お茶をしていない方も、参加できますので

ぜひオススメです。

 

また日曜朝の座禅会は、

さらに素晴らしいものです。


ぜひ、史跡を巡る京都観光でなく、

この座禅会に参加してみて下さい❗


 

 

そこで、


そこで、


そこでです。


茶道の原型、つまり点前手順の

元と言われる、この「禅苑清規」と

この四頭茶会を、

な、なんと

照らし合わせて見ました。


しかし、

やはり

残念ながら

それがどの部分に近いのかは、

私には読解できませんでした。


理由は、

日本に於ける禅宗も、臨済宗・曹洞宗・

黄檗宗と三派に分かれそれぞれに、

「独自の清規」を編み出されているため、

合致はしないですね。


この辺りは茶道の各流派と似ていますね。



・「禅苑清規」−赴茶湯に

  茶湯の儀礼がありました。


  しかし、他にも数多くの

  茶礼に関する項目が制定されていますの     で、宋の時代の禅宗において如何に茶が

  重要であるかを物語っています。

 

 


なぜ抹茶は

「点てる」と言うのか?

 

なぜ抹茶は

「一服、ニ服」と数えるのか?

 

 

自分の初歩的な疑問から、

 

こんなん

 

利休さん前までの、

 

唐、宋の時代から、

そして日本までの茶の歴史を追わなくては

いけなくなるなんて、

思いもしませんでした。

 

学者の方なら、僅かな説明で

できるのかもしれませんが、

 

自分は宗教の中でのルート、

 

民衆の中に伝わり派生したルートなど、

 

それぞれのお茶の捉え方、

飲み方ルートが生まれ、

 

唐・宋そして我が日本でも

育まれて来たように見えて

こんな大量に入り乱れました。

 

いずれにしても


 

茶を「点てる」「一服」という言葉が

実はこのように千年以上の歴史を

背負ってるなんて、思いもしませんでした。

 

お茶の変遷を通じて

唐や宋の時代の繁栄した文化、

自分は美濃の焼きもの屋なんで、

あの唐や宋の素晴らしい陶磁器ができた

そんな時代背景を、

改めて知る事ができました。

 

喫茶文化が広まったからこそ、

洗練された陶磁器が生まれたと言っても、

過言ではありません。

 

また日本に伝わってきた宗教や文化、

(茶道、陶芸)も含めて、

日本独自の発展や創造性は

改めてぐっと感じるものがあります。



いまの日本では

すでに多くの茶樹が豊かに育ち、

毎日皆さんが飲まれている

美味しい煎茶や抹茶が沢山できて

これだけ身近になっても

 

 

茶の湯の世界では

 

いまだに

 

「茶を点て、一服」と

 

言う所に、何か畏敬の思いを感じます。

 

茶会では良く僧侶の方と同席させて頂く

事があります。

 

法嗣はっすという、師から仏の法と印可を

継承し、またその法を後の弟子に伝える人。

という語があるように、

 

お茶を服す時にも、もしかしたら

違う感覚があるかもしれません。

 

 

海路三千里

 

六日間以上かけての航行

 

学問を求め、命がけで大海原を渡った

僧侶の方々の勇敢さに頭がさがりますね。

 

 

 

茶道口に座り、

 

「一服 差し上げます」

 

挨拶が変わりそうです!

 

 

沼尻真一

 

 

●京都茶事ー前礼・後礼の本当の意義/茶の湯・茶道 沼尻真一

 

●日本的モダニズム/沼尻真一

 

●「無」なんてどこにもない/沼尻真一

 

●茨城県陶芸美術館にて茶会/沼尻真一

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


きっちり床屋さん。/沼尻真一


いつも通るたびに気になっていた

多治見の床屋さん。


勝手に

ブエノスアイレスの店にしてる。


何もあーだ、こーだ

狙ってデザインしてないのにな〜


いい感じ。


自転車がきっちり窓枠の

ど真ん中に置いてあるから、


きっと

きっちりとした

髪型にできるんだろうな〜


ちなみにブエノスアイレス


沼尻真一









茶道七事式・七転び八起き/沼尻真一


七事式  しちじしき

-日本大百科全書より


茶の湯修練のための式作法。


本来、心技両面の錬成を目的として制定されたもので、七つの式作法からなっている。


江戸中期ともなると、茶の湯も漸次遊芸化してきた。


これを憂慮し将来を案じた表千家7世如心斎(じょしんさい)が、弟の裏千家8世又玄斎一燈(ゆうげんさいいっとう)と相談し、

大徳寺の大竜和尚(おしょう)、

無学和尚の教えを請い、また各方面の意向もいれ、協議を重ねて決定したもの。


七事式の由縁は、中国宋(そう)代の仏書(1125完成)『碧巌録(へきがんろく)』の「七事随身」による。


このうちの廻り炭は炉の季節で、他は無季。風炉(ふろ)は廻り炭のかわりに花寄せがある。


花月 

互換機鋒看子細

 

且座 

是法住法位

 

廻り炭 

端的底看漸


*実際は“漸”の字の下に“耳”がつく漢字で、“にい”と読みます。


廻り花 

色即是空凝思量即背


茶かぶき 

于古于今截断舌頭始可知真味


一二三 

修証即不無染汚不得

 

員茶 

老倒疎慵無事日 

閑眠高臥対青山


と解説されています。


元禄三年1690年が利休居士百回忌頃より、「南方録」の成立などから利休居士回帰現象が強く現れ始めたと

言われています。


確かに元禄時代には、

「茶道の繁昌〜」茶人藪内竹心が記した書「源流茶話」にも述べられています。


いっぽう


大辞林には

五〜一〇人が一組になって行う

遊戯的な茶の湯の式法。


あの七事式が「遊戯的な?」


と解説されています。


「大勢稽古に会する時、たた一筋に茶をたてる斗ばかりにては、その座しめり過て、

あるいはしまらず、世上の雑談などにまぎれはたすこともあれは〜」茶話抄


つまり茶道人口が激増していたこの時代、

利休居士回帰の精神主義が強調されつつも、


あわせて茶道における求道性の緩和、

遊興性の復活がはかられたと

云われています。


楽しくなければお茶じゃないって

感じでしょうか。



「七事式」をとっても、


江戸時代からすでに、


お茶は求道なのか?


遊興なのか?


は意見が分かれる所だったようです。


だから七事式は、

求道やねんって言われても、


実は正解でもあり〜


誤解でもあります。


しかし、現代では


あの複雑さと、各種道具の扱いを学べる点、

正座の長さは、確かに求道そのものです。


沼尻真一



























多治見の桜並木は、ぽっぽやから/沼尻真一

 

多治見でもやっと桜が咲きました。

 

さくらの由来には

数多く説がありますが、

 

穀霊(サ)の宿る坐(クラ)説が一番

好きです。

 

この歩道は元々は線路で、

鉄道が廃止されてから、こんな

綺麗な歩道になったそうです。

 

昔はこんな感じで

 

今はこんな感じに

 

 

 

京都も鴨川沿いの桜も綺麗でしたが、

多治見の元線路の桜も川沿いで、

車は無く、人も少なくいいですね。

 

歩いて5分ぐらいの場所ですが、

多治見では一番好きな場所です。

 

筑波では、谷田部航空隊があった

飛行場橋を渡った農林省の桜が

好きですね。

 

なぜか自分の好きな桜は

元線路や元飛行場、京都の植物園もGHQの

名残で北山が綺麗だし。


 

そういえば、横浜山手の

元競馬場も桜が綺麗だったな。

 

桜はとても華やかな花なので、観光目的に

これでもかって具合に植えられている

桜を見ると萎えますね。

 

周辺の間と関係してるのでしょうが。

 

 

結局自分の好きな桜の場所は、

全て何らかの遺構ばかりでした。

 

薄桜 兵どもが夢の跡

 

沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


端午の節句と菖蒲湯加減/沼尻真一

 

 

鯉のぼりも最近はあまり

見かけなくなりましたが、

悠然と泳ぐ姿を見た時には

やっぱり壮観ですね。

 

最近はこれでもかって具合に、

鯉のぼりも、雛人形も飾りますが

何段飾りや、何匹は業者の思惑ですね。

 

冷泉家の雛人形も御内裏様と御雛様のみ

ですから、鯉のぼりもありますね数が。

 

自分も子供の頃に鯉のぼりを立てて

もらった記憶があります。

 

やがて

 

そんな記憶もとっくに薄れた頃に、

 

子供の頃に罰として

閉じ込められた築120年ぐらいの

蔵の二階に上がって

押し入れの戸を開けた時には、

あの鯉のぼりの大きな目玉が出てきて、

本当にびっくりしました❗

 

デカイ❗

 

畑には葉菖蒲が植わっていて、

大正生まれの ばあちゃんがわざわざ

菖蒲湯をしてくれるんですが、

鼻が溶けるぐらい強烈で

子供の頃は、見つからないように

風呂の外に出してました。

 

 

いずれにしろ、

子供の頃の記憶

幼児体験はちゃんとあるもので、

 

世の中、暦を重んじる

稀有なおばあちゃん達は

少なくなってきているので、

歳時記にまつわるこんな習慣を今は

若いご両親が担っていくのだと思います。

 

春めいた上巳の節句も終わり、

桜が咲いたら

すぐに「端午の節句」ですね。


なぜ「端午たんご」

と言われているのか?

意外に知られていません。


中国漢の時代以降の暦として
月を十二支で表記し

11月ー子(冬至を含む月を子とする)
12月ー丑
 1月ー寅
  ↓
 5月ー午

つまり午うま

 

五月は午の月であり


その午月の端の日

 

つまり端とは、なんと(はじまり)を
意味して最初の午の日を

 

端午としました。

その後、

 

やはり 3月3日、7月7日、9月9日と

同じように

 

午の重なる
5月5日が端午の節句となりました。

 

夏至前の時期、

疾病予防や邪気を祓う
ために蓬や菖蒲などの薬草を摘む
習慣が中国から日本へ渡り、

鎌倉時代以降は菖蒲が尚武と
同じ読みから、男の子の成長を
願う節句へと発展したという事です。

 

 

沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


利休忌と菜の花/沼尻真一

 

3月28日は利休忌ですね。



3月末はまだ早くて、

 

4月末に賀茂川の川原に行くと

必ず菜の花が綺麗に咲いて

川原は暖かな日差しに包まれる。


菜の花を見ていて菜種油も思い出すけど、

やっぱり茶の湯をしていれば、

利休大居士をイメージする。


秀吉が利休大居士に切腹を命じ

利休大居士が自刃した日が

1591年/天正19年2月28日


切腹する3日前の

天正19年2月25日に

利休大居士は自筆の遺偈(ゆいげ)

人生七十 力圍希 咄

     吾這宝剣 祖仏共殺

      提ル我得具足の一太刀

      今此時そ天に抛

      天正十九 仲春

      廿五日 利休宗易居士
                   (花押)

じんせいしちじゅう りきいきとつ

わがこのほうけん そぶつともにころす

ひっさぐる わがえぐそくのひとたち

いまこのときぞ てんになげうつ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人生ここに七十年。

この宝剣で祖仏もわれも、

ともに断ち切ろうぞ

私はみずから得具足の

一本の太刀を引っさげて、

いま、まさに我が身を天に抛つのだ

小松茂美(中央公論社)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

旧い暦通りに従えば、2月28日。

しかし菜の花は咲いていない。

旧暦を現代に直せば、2016年4月5日

まだ少し野にある菜の花には早い。


そこで、さらに詳しい和暦から西暦換算

すると、天正19年1591年は閏月があり

正月と閏正月という二回の正月があり

換算すると4月21日となるようです。

十分に野にある菜の花が咲き誇る時期になる。


さらに

天正18年は、12月29日のみで翌日が

天正19年正月1日となるので、マイナス2

正月30日までで、翌日が閏正月1日で、マイナス1

閏正月が29日までで、翌日が2月1日で、マイナス2

となり、現代の暦の感覚に合わせて行こうと思えば

だいたい4月末ちょうどGW前あたりというのが

利休大居士の自刃した季節と重なると思います。

となれば、やはり菜の花は今でも

賀茂川の川原に満開に咲きほこっています。


利休忌
表千家3月27日
裏千家3月28日


沼尻真一
 

賀茂川と鴨川のちがい、桂川と保津川のちがい/沼尻真一

 

端午の節句の茶事/沼尻真一


京都・夏越の祓えと和菓子水無月 /沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 






























 



 


茨城県陶芸美術館・現代の茶陶展・現代の茶会・ワークショップ総括/沼尻宗真・沼尻真一

 

 

板谷波山住工房兼住宅には床が無いので、

床をどのように作るかが、

今回の茶会の大きなポイントと考えました。

 

そして一つだけ私達が決めた事は、波山住宅

の中に、もう一つ別の箱をいれない事、

この波山先生が住んでいた雰囲気を大切に

その空間を生かして室礼する事と致しました。

 

 

床編

 

 

一月 正月茶会の床

 

 

オープニングの茶会、板谷波山先生の工房、

そして陶芸笠間の地をリスペクトし、

陶芸の象徴 「火」 を床荘りに。

 

長年使い込まれた陶芸の窯道具である

棚板とツクを、笠間の作家額賀さんから

お借りして、あくまでサラッとラフに

波山先生だったらと考えて床を作る。

 

寸切青竹の花入れは映画HAZANに倣い、

つくばの自宅の裏山から伐採し作ったもの。

 

あくまで松は真っ直ぐに。節をその場で

アドリブで抜き、そして松竹梅を入れる。

 

 

二月 節分茶会の床

 

 

長さ4mのムシロ琳派作品、海老澤さん筆。

表は金に染め、お多福さん。

裏は銀に染め、鬼。

 

お多福のおちょぼ口に、自宅の 椿一輪。

鬼には、自宅の池の 枯蓮。

 

吊りはもちろん、工事現場の虎ロープ。

 

本来冬季使い捨てのムシロを金銀に染め、

芸術に昇華させる。昭和までムシロ旗で

闘ってきた茨城の百姓/沼尻家の気概と

記憶。または琳派へのアンチテーゼ。

 

 

三月 上巳茶会の床

 

 

西王母と青い鳥三羽。海老澤さん筆。

大盃に桃。

桃花酒に本席の桃源郷が映る。

オーガンジー布に絵具が吸い込まれ

苦闘した海老澤さん筆が、

「光背」になる奇跡。

 

布は全長約15mそのウネリとヒラリで

西王母の存在を醸す。

 

 

 

本席編

 

 

正月茶会の本席

 

 

企画の段階から映画Hazanを何回か見て、

下館の波山記念館にも行った。

岡倉天心に寵愛を受け、久谷焼の産地である

石川県工業高校教諭という安定した職から、

陶芸家へ。

陶芸へ転身した後、食う米もままならない

極貧生活に陥った。

妻は大事にしていた着物を質に入れ、

米を得るシーンがある。

 

そんな子だくさんの波山家の正月。

質入前なら正月には皆で振り袖を通すだろう、

そんなエレジーが自分の中に動いた。

 

男の子用も用意した、やっぱり虎だ。

 

 

節分茶会の本席

 

 

大正生まれの祖母が、

「爺さん刈り取った稲の小田掛けやんなくちゃなぁ」なんて良く言ってた。

祖父は良く冬支度の為に、大きくて

分厚い手を上手に操りながら納屋で

ムシロ編んでいた。自分は横目で見て、

ジョイフル本田にあるよそんなの、何て

ぜんぜん手伝わなくて、だけど

霜が降りたらやたらと恩恵を受けていた。

 

二月になると節分・立春で、氏神様や

神棚に豆まきして、じいちゃんが

歳の数だけ豆食ったら、大変だろうな〜

ってコタツで見てた。

それから村の鎮守様が稲荷様だから、

初午に旗揚げと、そんな具合に二月は

農家も祭で忙しいという、自分の

実体験から生まれた室礼です。

 

日本で初めて亭主が躙口から

入って来るという、逆躙口を作りました。

火鉢を囲んで皆でホッコリしたいという

海老澤さんのアイデアです。

 

 

上巳茶会の本席

 

 

西王母の住む崑崙山には、三千歳に一度

不老不死の桃「蟠桃」が実るという。

 

鈴なりの桃が本席だけに圧迫感があるぐらい欲しい。

しかしヘリウムガスは規定の時間しか持たない、

前日は、下地をテグスで仕上げる。

 

近くのホテルに宿泊し、朝から一か八か

一気呵成にとにかく桃を実らせる事にのみ集中した。

 

茶の湯史上初、毛氈ではなく人工芝を用いた。

 

 

露地

 

 

モルタルのグレーに白い風船をフワッと

浮かべた景色を見て、

どこか懐かしい風景を見た気がした。

芝生がグリーンならなおのことだろう。

 

風に揺らぐ姿、その影を露地石に

見立て影踏みしながらつたうのも

面白そうだ。

 

露地は何のためにあるのか?庭園学の

尼崎博正先生に問われた事を思い出した。

尼崎先生と無鄰菴に一緒に行った事は、

忘れません。

庭作りは、排水が第一である。

 

 

 

「現代の茶会」と「侘びWABI」

 

 

「自給自足の茶」もっと簡単に言えば、

自分たちの手で実際にモノを作る

茶が、現代の茶ではないかと思います。

 

茶をするとなれば、道具が必要になるから

季節や趣向、点前や格に合わせた道具の

取り合わせが必要になる。

 

この道具の取り合わせだけでも生涯の

研鑽と知識を要する事は、

お茶を嗜む者は、理解していると思う。

故に何十年も稽古や茶の実践に励んでいる

数多くの先達がいるのだろう。

 

この点については従来の古典や

流儀を尊重した茶の形として

すでに成立し、広く普及している。

 

あえて「現代の茶」と括れば、

結局、古の茶人が茶室、釜、道具

などを特注で作ってきたように、

現代に生きる自分達が、様々な情報を

生かし、自らの手で作れるものは作る

という所に、完結できると自分は思う。

 

笠間益子→手仕事→健康的な美

 

という民芸思想を言うつもりではないが、

実は手仕事が奏でる琴線が茶の湯の

根底には確実に流れていると思っている。

 

逆を言えば、柳宗悦氏の唱えた民芸思想の

一端は確実に茶の湯文化に依るものです。

 

 

では「作る」となると芸術表現となるが、

しかし、茶が単なる芸術表現活動と

あきらかに違う所は、季節感、

点前や道具の格、道具の系譜による

取り合わせ、形態による取り合わせ、

趣向による妙、係る万物への畏敬の思い

などが強く存在する点だろう。

 

故に、茶の湯関係の美術館では、

道具の取り合わせ展示が非常に

興味をひくのである。

 

つまり取り合わせできなければ、

あるいは知らなければ、茶にならない、

という事も事実である。

 

 

そして何よりも優先されていることは、

あくまで「客をもてなす」という精神が

第一義であるという事だろう。

 

故に思うまま、何でもかんでもモノを、

作り手の主観や妄想心理で、

奇抜で面白ければ良いという、

自由な芸術表現とは

あきらかに解離するという事だろう。

 

つまり難解あるいは個人的な事情に

すればするほど、作品が面白くなる

芸術世界とはまったく別という事になる。

 

誤解無きように、

現代美術は現代美術として成立し

自分は好きですし、使える使えないを

云うつもりはありません。

 

しかし、茶の湯あるいは茶道具としての

生まれるプロセスは、まったく違うという

事です。

 

 

故に茶のいずれの規範を知る意味でも、

自分は古典が必要なのだと思う。

 

つまり桃山の茶はもともと自由であった、

だから茶は自由で良いなんて理論は、

まったくあてにならない。

 

生まれた時から、

茶の湯に自由は与えられていない。

 

故にここに

 

「茶がある、茶が無い」

 

という話になってくる。

 

それを自分なりに解釈すれば、つまり

それは「侘びWABI」があるかないか?

ではないかと思う。

 

「侘びWABI」を明確に表現する事は、

難しく、しかし実は簡単な部分もある。

 

 

それは、少なくとも日本人であれば

誰に教わる事なく、この「侘びWABI」の

感性が実は、誰にでも備わっているからだ。

 

あの茶の稽古は?茶事は?

実は何のためにしているのか考えた事はありますか?

あるいは先生に聞いた事はありますか?

 

自分は少なくとも茶の稽古、あるいは、

茶事を何のためにするのか?

と問われれば、

 

その一つに必ず

茶の湯の核心である「侘びWABI」を

体感するためだと思っている。

 

ここで「侘びWABI」とは言いましたが、

「寂さび」とは一言も自分は言って

無いのでお間違えなく。

 

お茶なんて「侘び寂び」だろ。

 

なんてステレオタイプの事を

高らかに主張して茶の活動している人が

いますが、自分はまったく違うと思います。

 

「侘び」「寂び」はまた別の意味なので、

自分は「侘びWABI」しか言いません。

 

 

あたりまえだが誰もがこの

「侘びWABI」日頃から意識して

感じていないし、あるいはあえて

この「侘びWABI」表現する機会が

ないだけだと思っている。

 

 

だから今回、世界初「侘びWABI」を

体感するためのワークショップを

まったくお茶が初めての方にあえて

開催させて頂いた。

 

皆が入れた花には明らかに、

自分自身の内部や記憶と向き合った

「侘びWABI」が表現されている。

 

レンゲに蓮

 

「侘びWABI」は日本人誰の中にもあり、

世界に誇れる感性だと思います。

 

それを五感で表現・体感できるものが

茶の湯なのです。

 

国際化社会を迎えた日本で、こんな素晴らしい感性を生涯眠らせて置くのはもったいない事です。

 

英会話を学ぶか、お茶を学ぶかだったら

やっぱりまずは日本人として、日本を学びたいから

お茶を習います。

 

日本人が「日本人としての誇りが無い」の

ではなく、自分も含め日本人教育を

受けた事が無いだけです。

 

畳の拭き方、掛け軸の名称や掛け方、日本画の素晴らしさ、陶磁器や漆の扱い方、日本家屋の建築技術の高さ、日本で自生する花々、着物や裂地などなど、日本で暮らす私達が当たり前に知っておくべきもの、義務教育で本来教えるべきものばかりです。

 

それを、お茶では知る事ができます。

もちろん学べるなら、お茶以外でも構いません。

 

しかし、残念ながら日本の学校では日本人になるための教育は皆無「0」です。

 

大学生になれば海外留学や旅行に行って、

肌で海外や言葉を実体験で知るのに、

子供のうちから西洋教育ばかりです。

 

そして生涯西洋教育上の価値観で

日本人なのに評価されます。

おかしくないですか?

 

戦後復興に尽力し、阪急電鉄、宝塚歌劇団を作り、

政治家であり茶人であった

小林一三氏は、各学校教育に「茶道」を

必須科目にするべきだと唱えました。

 

現在の学校クラブ活動のお茶で無くて、

教育としての授業だったら、

点前の順番・右左だけでない、

日本人教育もできたのでしょう。

 

やらされるお茶でなく、

自分の生活や、家族を豊かにする為のお茶、

自分に役立てるためのお茶の学び方が必ずあります。

 

今回の私達の活動が、皆さんの新しい選択肢や

新しい価値観につながれば幸いです。

 

 

沼尻真一

 

正月茶会・節分茶会・上巳茶会・ワークショップ

 

 

特攻を語れば右翼か。まぁしかし

祖母父が伝えてくれてたらいいでしょう。

特攻の地生まれですし。

 

 

 

茶の湯 風炉 二文字押切灰形 − 沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


茨城県陶芸美術館・上巳桃の茶会/現代の茶会・茶道/沼尻宗真・沼尻真一

 

2017年 新年1月の幕開けから始まった

 

3ヵ月にわたる茨城県陶芸美術館

 

「現代の茶陶展」合同企画 

 

茶会&ワークショップ。

 

茶の湯公演も無事に千秋楽

 

結びの一番を迎えました❗

 

 

 

 

最後は、弥生三月「上巳・桃の茶会」で

締め括りました。

 

もともと上巳の節句は、

 

水辺で禊を行い健康長寿を願う節句です。

 

古代中国から伝わり

 

「曲水の宴」から「ひな流し」

 

そして〜「ひな祭り」へと

 

変化し親しまれています。

 

 

 

待合は赤い糸で作った

 

「男女川」みなのがわの畔から〜

 

  つくばねの 

   嶺より落つる みなのがわ 

    恋ぞつもりて 淵となりぬる

                 陽成院

 

 

板谷波山先生の名前の由来となった、

 

地元筑波山に因んでいます。

 

もちろん美術館に露地なんて

ありませんが、

 

今回は、美術館になんと露地を作りました!

 

 

 

やっぱり露地ってないとね!

露地って何のためにあるんでしょうか?

 

水屋もいらない、露地もいらない

 

一流建築家が作る変わった茶室

 

露地や水屋も見てみたいですね。

 

 

今回は孫悟空の觔斗雲(きんとうん)

ではありませんが、

 

雲をイメージして、お客様には一気に

天空へと駆け上がって頂き、

 

私達の寿命を司る仙女

「西王母せいおうぼ」の住む

 

「崑崙山こんろんさん」へおいで

いただきました!

 

 

今回も席主 海老澤さんが趣向

西王母をイメージし描きました!

 

前回節分茶会の大作は美術館所蔵に

なりました。

 

描く、作る、点前する、

ワークショップする、教える❗

 

こんな茶人はいませんよね、

 

茨城県の貴重な人財ですよ❗

 

 

きたる4月から、海老澤さんは

茨城・友部駅前にて

新しい茶道教室を開きます❗

 

こんな楽しい茶道を一緒にしましょう❗

 

なぜなら、お点前だけ習って

手順を暗記するのがお茶じゃないですよね。

 

点前は

型・所作が美しいのはもちろん大切です。

 

しかし、お茶のためのお茶をしていても

暮らしに生かせないし、楽しくありません。

 

こんな楽しい茶会ができる、そんなスキルが

身に付くお茶の教室は無いからです。

 

楽しいお茶って、高価な道具を並べる

のではなく、こんな自ら作る

「自給のお茶」ですよ❗

 

 

ここ「崑崙山こんろんさん」では

 

三千歳みちとせに一度実る

 

桃「蟠桃ばんとう」を祝した蟠桃宴

 

桃源郷の中、桃花酒でおもてなし。

 

 

そして春の野を踏み邪気を祓う

「踏青」とうせいに因み

 

茶道史上初❗❗❗

 

毛氈もうせんではなく

 

なっナント「人工芝」を敷きました❗

 

 

人工芝が好評で

 

「ゴルフ以外にも使えるね!」

 

「野点」の雰囲気が出る!

 

「座り心地が良い!」

 

などなど

 

講評をお客様に頂くことができました。

 

 

今回も京都・裏千家学園で一緒に学んだ

田園調布で茶道教室を主宰する

長谷川宗佳さん、社中の鈴木さんに

お手伝い頂きました❗

 

 

 

 

茶杓は見立て

 

盛塩笏で銘を「歌垣うたがき」としました。

 

 

奈良飛鳥時代より、故郷「筑波山」は

 

男女が恋の歌を詠み合う、

 

「嬥かがい」最古の聖地として、

 

万葉集にも紹介されています。

 

いつしかそんな筑波山の歌垣から

 

時代が下り、平安貴族の和歌へ

 

心が流れていったと考えるなら、

 

茨城県民の心は豊かになりますか?

 

 

 

そんな創造も面白いですね❗

 

見立てと言えば日本一の

大きなお内裏様とお雛様は

 

「筑波山」ですよ。

 

 

ゆったり時間を取っているので、

お見送りではお客様に感想を

いただく事ができました❗

 

また新たな出会いがあったり、

本当に嬉しい瞬間です❗

 

今回もお忙しい中、

参加して頂いたお客様、

 

また私達の故郷茨城県へこのように

「茶」や「陶」の恩返し企画を

実現していただいた、

 

茨城県陶芸美術館 館長の金子賢治先生はじめ

美術館スタッフの皆様

本当にありがとうございました❗

 

鈴木副館長さんと美術館スタッフの皆様

 

 

茶会前日のブログで書いたとおり、

 

 

茨城県のお隣アメリカ・

 

カリフォルニア州から

 

そして地元つくば市から、

 

そして土浦市から

 

ちゃんとお客様がいらした事には、

 

たいへん驚きました❗

 

言霊なのかな?

 

この実験的な茶会&ワークショップの

記事を今まで読んで頂いた皆様も

ありがとうございました❗

 

総括はまた後日、記します。

 

There are The house of Mito Tokugawa,

The house of Tsuchiura Tsuchiya, Mr. Okakura Tenshin, Mr. Itaya Hazan, and Mr. Takahashi Souan that are deeply related to Chano-yu

in the place where I was born.

 

SHINICHI NUMAJIRI 沼尻宗真・沼尻真一

 

Also, there are many traditional crafts.

For example, Kasama-Yaki, The paper of Nishinouchi and The Yuuki Tsumugi

which are used at the tea room.

 

What’s more, my home prefecture

is the second largest agricultural producing area in Japan.

 

Chinese cabbages of Ibaraki were

sold in Kyoto so, I used to make a pot meal using that when I lived in Kyoto.

 

I think I’d like to spread such

attractions of the place where

I was born as “the tea of Ibaraki style”,

which is rooted deeply in the

region using the Japanese culture, Chano-yu.

 

I am really looking forward to seeing you again.

 

 

●全ての茶会、ワークショップの模様

 

 

●「ハレとケ」遠野物語:日本民族学の祖 柳田國男/ 沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最近会った人/沼尻真一



ここ二日間で出会った人は

大谷翔平選手、小島よしおさん、

重森三玲さんのひ孫、みんな

背負ってるものが違うのが

心地いい。


口先ばかりの後継ぎとは違うのが良い。


沼尻真一