河井寛次郎と聞けば、それは誰でも
柳宗悦、浜田庄司とともに、
民芸運動の中心人物であり、陶芸家のイメージだと思います。
京都五条坂に清水家との縁から
窯を築き、誰もが知っている作品を
焼いています。
その空間に一歩足を踏み入れれば、
京町屋とはまったく違う、
気持ちのよい空間が開けてきます。
仕事に必要なものはもちろん
整然とそろっていますが、
作家の自宅兼工房というよりは
むしろ、
謙虚な姿として求道者の
佇まいを醸し出しています。
寛次郎の家では
毎日たくさんの来客を
もてなしていたそうです。
それゆえ荘厳でありながらも、
開放的な人なつっこさに、
すべてが満ち溢れている空間です。
寛次郎が生きた時代は
ちょうど戦前、戦中、戦後で
いきなり天皇が神から人になり、
鬼畜米英がギブミーチョコレイトになり、
日本は高度経済成長へと突入した時代です。
民芸運動をやってたから、
流行には興味がなかったのでしょうね。と
よく言われるんですが、
寛次郎はまったく違って、
例えば、車や電化製品などに
とても興味をもっていたんですよ。と
寛次郎の孫の鷺さんが教えてくれました。
浜田庄司は人間国宝になり、
益子を一躍活況に導きました。
河井寛次郎は、人間国宝を
辞退しています。
同じ民芸運動の仲間なのに
一体なぜでしょうか?
街の役員をしながら
多くの若者を戦地へと見送った戦中
そして、遺骨として
戻ってくる状況に
耐えられなかったと聞きました。
そして
大量生産大量消費の
戦後を見てきた寛次郎が
言葉や木彫に込めた思い、
いま日本では戦争は起きていませんが、
人の死や戦争という極限状態に
ならなくても、
あらためて各々が
何かを大切にしなければ
ならないという事を教えてくれています。
「ものを持たず、みえないものを持った人」
孫の鷺さんの言葉です。
すべてを欲し
やりきることもできたであろう
寛次郎が己に戒めたものが、
誰かの北辰となる日がきます。
「無名の美」を称賛しながらも
作家として人間国宝になる事。
一口に民芸運動を括れない
複雑さがあります。
最後にこのような場を与えていただいた
京都・梶古美術の梶ご夫妻に
あらためて感謝申しあげます。
沼尻真一
https://ameblo.jp/chazenichimi