大徳寺で開かれた茶の研究会で、
一人の男性が
「茶はどんな恰好して飲んでもよいではないか、形にとらわれるのは無意味だ。」
その発言者こそ誰あろう
すでに名声を得ていた
岡本太郎氏だったという
昔話です。
なぜか?
歌舞伎の所作には
自由を追及せずに、
なぜ、茶の湯になると
「利休だって自由だったろ」
「だから茶碗なんて
自由に作ればいいんだよ」とか
「勝手に自由に茶をやればいいんだよ」
という声に変わるのでしょうか?
この
岡本太郎氏の発言に
明確に答えられる方こそ
一番大切な
茶の湯の本質を見極め、
さらに創造できる方だと
私は思います。
だから茶の湯を体験しただけ、
点前の稽古だけでは
茶の湯の本質が
分からないんだと思います。