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白洲正子さんの京都、平野屋の鮎と茶の湯/沼尻真一


夏の茶の湯には、

 

鮎をテーマにしたものを

 

良く見かけます。

 

先日も恩師の書院の床には、

川合玉堂の鵜飼の画が
掛けられておりました。

 

 

 

 

鵜飼は天正天皇720年(養老4年)から行われて
おり、大変歴史の深いものです。

 

自分の窯のある岐阜県ですが、

西濃の長良川の鵜飼は日本一有名です。

 

しかし

 

あの鵜は

一般保護鳥に指定されていて、
捕獲を許可されているのが、

日本で唯一茨城県十王町の「鵜の岬」です!

 

そこで捕まえた海鵜を
岐阜や京都、愛媛、山口などなど鵜飼をしている
全国12箇所に送られるそうです。

 

我がふるさと茨城出身?の鵜が

全国で苦労しながら活躍しています。

 

青楓に囲まれた清流に泳ぐ鮎は、

何とも涼しそうで、
京都のムッとした暑さの中

 

一服の涼を誘います。

 

しかしこの鮎というものを
お茶をしている人でも意外に

知らないな〜と思い

記してみたいとます。

 

 

夏といったら鮎!

 


「あゆる」が「アユ」に

「あゆる」は「おつる」の古語で、

 

鮎が春になると川を上り
秋になると川を下ることから言われています。

 

 

もう一つ
中国では鮎に「年魚」という漢字が用いられています。
春に生まれ、そして冬に死ぬという所からです。

 

日本では、「日本書紀720年」「古事記712年」の
いずれにも鮎は「年魚」として登場しています。

 

鮎という漢字は?

 

魚に占う?

 

 

誰が何を占ったのか?

 

 

●日本書紀の中に!
九州に生まれた初代天皇 神武天皇が
東征をし近畿大和を平定し、王権確立をしたという。

 

紀伊熊野から、いよいよ大和の高倉山に至った際に
戦勝祈願の儀式で川魚の捕獲状況で占ったと

伝えられています。

 

 

●古事記の中でも!
神功皇后(じんぐうこうごう)が現在の佐賀県で、

鮎釣りをされ新羅進軍にあたり、
釣りの成果で占ったという。

 

因みにこの様子を表しているのが

京都祇園祭の占出山であり、

別名、鮎釣山と呼ばれています。

 

 

祇園祭限定、占出山で売られる菓子

「吉兆あゆ」

 


このように皇室と鮎は

関係の深い魚として
とりあげられ

 

「日本建国のシンボルのような魚!」

 

として存在しています。

 

また室町時代から明治まで、

京都では「御用鮎」といい

旬に獲れた鮎を朝廷に献上していたそうです。

 

つまり

 

同じ時期に鮎を食するという事が

庶民にとっての

 

「あやかり文化」

 

につながってきたのだと思います。


若鮎の菓子も

 

みな月の菓子も


鮎や氷を食べてみたいという、

 

庶民の願望が
菓子となったように、


「あやかりたいという願望から生まれた文化」は
多くの日本の文化に影響しています。
 
きっと皇室や朝廷でなくとも、

それぞれの地域のお殿様の歴史の中にも、

身近なあやかり文化は全国各地にあると思います。

 

そのようなモノや事、

 

土着性に触れられる点でも

茶の湯を嗜むというのは

面白いものです。

 

※ちなみに中国では鮎という字は

ナマズを指すらしいです。

 


 


●白洲正子と京都平野屋の鮎

 

京都に夏の訪れをつげる祇園祭。

 

この祭りを彩る京料理に欠かせないものに
鮎があります。

 

祇園祭前

値段が一番高いと言われれる鮎。

 

なかでも「世木の鮎」が

京都の鮎ブランドです。

 

しかし鮎は無傷で生きてなければ価値が無い!
と言われ、活鮎をめぐって

古来から様々な知恵と工夫が
生まれてきています。

 

 

京都の鮎といえば、


白州正子さんや多くの文人も
鮎の解禁を待ちわびたという

創業400年「京都平野屋」さんが有名です。

 

 

 

 

武者小路千家三代の画

一番左が八歳の頃の若宗匠 千宗屋さんの仏画

 

 

 

大川橋蔵さん、美空ひばりさん

 

 

もともと平野屋さんは
京都火伏の神として知られている愛宕神社の門前町、

嵯峨鳥居本にある鮎問屋として始まりました。

 

この世木の鮎は世木村、現在の日吉町で
6月1日から9月30日まで、夏のかせぎとして
漁が行われておりました。

 

投網で一網打尽が早そうですが、
傷がつきますから、ヒッカケ漁や友釣りなどが
主流のようです。

 

鮎を獲るアユトリさんから、

 

鮎を運ぶアユモチさんに

 

引き継いで、

平野屋女将 井上典子さん

 

中には炭を塗り込め暗くする工夫を

 

 

計50〜70匹を入れ計27kmを
7時間山道をアユモチ桶に鮎を入れて、
鮎が心地よい様に揺らしながら
鮎を運んだそうです。

 

平野屋鮎の生簀

 

貴重な鮎を運ぶのに

かなり熟練を要したようです。

 

途中2〜3Kmごとに新鮮な冷たい水を

鮎桶に補給しながら
慎重に慎重を期して運んだそうです。

 

そして一日置かれて、

 

鮎のストレスを取ってから

 

祇園祭で賑わう

 

祇園や先斗町の高級料理屋さんで

旬の鮎料理が振舞われたという事です。

 

平野屋鮎

 

茶店の菓子「志んこ」も有名。抹茶、白、ニッキ

 

 

茶の湯と同じように、京都に育まれた鮎文化。

 

茶席に登場する鮎を見かけたときには

ぜひこんな鮎の流れを思い出してみると

さらに楽しくなると思います。

 

 

沼尻真一


 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi









 


なぜお茶・抹茶・茶道は点てるというのか?なぜお茶は一服というのか?・茶道/沼尻真一

 

 

茶の湯には

美しい言葉や、難しい漢字が沢山あり、

何か書こうにも

 

漢字変換できない事ばかりで

いつも四苦八苦です。

 

まして携帯なんで

とんでもないものしか

出てきません〜

 

 

むかし

茶の稽古中に

 

先生から「薄茶いかがですか?」

 

と言われ

 

「あっ、

    

    もう一杯お願いします。」

 

と言ったら、

 

先生から

「一服ですよ。」

 

なんて指摘された事を思い出しました。

 

煎茶は淹れるのに、

 

抹茶は点てる?

 

抹茶はなぜ?

一服

二服と数えるのか?

 

あたり前なのに、

 

かる〜く疑問に思い


調べてみても


動作や漢字の意味ばかりがネットで溢れていて?


そこは誰でも知ってるので、


そこじゃないな〜と思い。


せっかく茶道をしていてもね〜


点てる❗


一服❗は


頻繁に使うのに、


どこにも書いてないので、


 

昔を尋ねてみたんですが…。




皆さんも、


お茶以前のこんな初歩的な事だからこそ


ぜひ先生に訊ねてみてください❗

 

 



                 十

 

やはり漢字やお茶が生まれた、

当時の中国から見ていきます。

 

遣唐使を派遣していた

唐の時代には喫茶の風習が広がっており

『旧唐書』には、茶は食物であり、

米や塩と異ならないと記されています。

 

そんな中、

 

お茶の世界では有名な茶書、

 

陸羽りくうさんの著した

「茶経」ちゃきょうにより、

餅茶へいちゃ(宋の時代には団茶)を

粉にして煮る方法、

後に「煎茶」といわれる方法、

それらの薬効について記されました。

 

宋の時代に下がると

皇帝から一般人まで、

茶はすでに生活に不可欠なものと

なっていたようです。

 

この時代には、

 

蔡襄さいじょうさんが1051年頃に

「茶録」ちゃろくという書物を著し、

団茶を粉にして、湯をかけて

撹拌して飲むという、

新しい方法を記しました。

「点茶」という方法です。

 

ん〜バリスタのようです。

 

喫茶が広がり、茶葉の品質が

向上されてきた為と考えられています。

 

つまり、

この頃のお茶は

 

煎茶法、点茶法など

地域により飲み方も様々だったようで、

 

 

 

 

中には、現在のように

葉茶を淹れる散茶という飲み方もあり、

 

 

 

この散茶の一種として、

葉茶を粉末にして湯を注ぐ、

現在の抹茶のようなもの

も飲まれていたようです。

 

また町に出れば茶坊・茶肆ちゃしと

呼ばれる茶店が多数あったようです。

 

 

ここで大変興味深い事は

なっなんと、


店では職業・身分関係なく、

同じ席で茶を飲んでいたとの事。

 

もはやスタバです。

 

なので、


良く茶道の世界で強調されて

語られているような、

 

宋の修行僧達が主に薬として

茶を飲んでいた、というイメージを

持っていましたが

ちょっと違いましたね。


宋で飲まれていた茶は

皆さんはどのようなイメージを

お持ちだったでしょうか?



ただざっくり、茶道のお稽古で


お茶を渡来ものとして崇め、

日本の今の茶道のイメージを

固定してしまうのでなく、


やはり、日本に伝わる前の

宋の国のイメージって

とても大事だと私は思います。


⚫茶道の源流を訪ねて【宋の時代を知る】

http://numajiri.jugem.jp/?eid=1002  



このように

お茶の産地である

宋ではすでに、

茶の品質階級はあったにせよ

 

茶が「薬」

 

という当時の日本のような

意識ではなく

既に生活の一部だったんですね。

 

さすが産地は違います。

 

だからその頃は、

 

んー苦い「もう一杯!」

 

で良かったかもしれません。

 

 

ちなみに「点茶」という語には

口の細長い湯瓶で、一点に湯を注ぐ

という意味もあるとの事。

 

また「点」という字には、

 

中国語で

火をつけるや、

滴るなどの意味も

あったので、お茶を点てる様子に

近い感じもしました。

 

また面白いのは、

 

修行僧の点呼の為に茶礼をするから

「点茶」という面白い説もありました。

 

修行中のお坊さんの

慌てた姿が浮かびます〜

 

 

つまり、

自分のかる〜い疑問点の

 

答えとしては、

 

「一服、二服」と薬のように呼ばれる

きっかけは、

 

・茶の薬効を説かれた、陸羽さん。

 

 

お茶を「点てる」と言うのは、

 

・点茶方法を説かれた、蔡襄さん。

 

でした。

 

スッキリしました。以上です。

 

 

 

日本にはどのように?

伝わったか?

 

 

PCが壊れて2年…

しかし、


やはり

日本へ〜が気になりますので、

 

 

今から945年前、

1072年弟子七人とともに入宋した

大雲寺 阿闍梨の成尋じょうじんさんの

「参天台五台山記」には、

 

各地の官営や寺院で「点茶」の

もてなしを受けたと記録されています。

 

 

その後、成尋さんは弟子のみを返して、

1081年にそのまま宋で入滅されています。

 

 

 

そして、その一世紀後

1191年に二度目の帰朝をした、

栄西ようさいさんにより日本に

喫茶法が伝えられたとされています。


一世紀、百年も遅くなりました。

 

栄西さんが喫茶法を記した

「喫茶養生記」には、

 

一、喫茶法には、「白湯、只沸水云也。

極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。

 

「(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二・三匙。

多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)」とあります。

 

ここでも、

 

「点てる」

という語が記されています。

 

また、あわせて

 

「之を服す」という語が

 

「喫茶養生記」には数多く記されています。

 

やはり、養生記ですから

お茶を「薬」として捉えられています。

 

中国語でも「服」には

薬や毒を飲むという意味がありました。

 

つまり、宋に赴いた

この二人の高僧の記録などから

 

日本では、

茶は「点てる」、

薬と同じ「一服、二服」と

徐々に広まっていったのではないでしょうか。

 

以上です。

 

 

やっぱり、

ダメです〜

 

たった

 

なぜ

茶を「点てる」というのか?

 

なぜ

「一服」というのか?

 

これだけの事なのに、

 

 

どうしても

省略できない部分があります。

 

 

百丈懐海さん(ひゃくじょうえかい)

749年〜814年は、唐時代の禅僧です。

禅宗の清規しんぎとは、
禅宗の僧の生活規則です。

この百丈懐海さんが
『百丈古清規』を初めて

制定したとされています。

 

この頃日本では、

804年に遣唐船団として

唐へ渡った最澄さん、空海さん、

805年には三十年以上在唐していた

永忠さんも帰国しました。

 

815年には永忠さんが

嵯峨天皇に煎茶を献じたと

「日本後記」には記録されています。

 

つまり、平安初期には団茶法としての

茶が一部の貴族や僧侶の間で飲まれ、

茶園が作られたとする記録もあります。

 

つまり、栄西さんより300年も❗早い

この時期の日本では、

 

永忠さん、最澄さん、空海さんなどは

寺院としての茶の捉え方、用い方。

 

貴族の方は、貴族としての茶の捉え方

用い方をしていたと

私には見えますので、

 

宗派は違えど、

寺院では「禅の清規」に基づき

「点茶」かもしれませんし、

 

誰もがお茶を薬として捉え、

「一服」だったかは、

私にはわかりませんでした。

 

また


また宋に戻ります。

 

宋の時代になると、


この『百丈古清規』は

すっかり衰退してしまい、

それを遺憾とした雲門宗の

宗賾そうたくさんが、

当時叢林古刹などを調べあげ、


現存する最古の清規『禅苑清規』

ぜんおんしんぎを

1103年(日本は平安時代)記されました。

 


栄西さんが

宋で学んだ頃の禅林ではすでに

この「禅苑清規」が

用いられていたと考えられており、

その中には現代の茶の湯の原型と

考えられている「茶礼」がありました。


「禅苑清規」の中では「点茶」という語が

使われています。



栄西さんの後も、

永平寺を開創した道元さん、

大徳寺を開創した宗峰妙超さんの師の

南浦紹明さんなど、

 

宋へ留学した僧が続き
「禅苑清規」が、日本の禅宗と

茶の湯の成立に大きな
影響を与えたと考えられています。

 

ちなみに栄西さんが開山された

京都建仁寺では、毎年4月20日

栄西禅師の降誕会に行われる

「四頭茶会」よつがしら茶会が

開かれています。



この四頭茶会は清規に基づいた

茶礼として広く知られており、

荘厳な雰囲気の中、

所作全てがとても参考になるものです。


お坊さんは全員左足から入室して来ますよ。

 

お茶をしていない方も、参加できますので

ぜひオススメです。

 

また日曜朝の座禅会は、

さらに素晴らしいものです。


ぜひ、史跡を巡る京都観光でなく、

この座禅会に参加してみて下さい❗


 

 

そこで、


そこで、


そこでです。


茶道の原型、つまり点前手順の

元と言われる、この「禅苑清規」と

この四頭茶会を、

な、なんと

照らし合わせて見ました。


しかし、

やはり

残念ながら

それがどの部分に近いのかは、

私には読解できませんでした。


理由は、

日本に於ける禅宗も、臨済宗・曹洞宗・

黄檗宗と三派に分かれそれぞれに、

「独自の清規」を編み出されているため、

合致はしないですね。


この辺りは茶道の各流派と似ていますね。



・「禅苑清規」−赴茶湯に

  茶湯の儀礼がありました。


  しかし、他にも数多くの

  茶礼に関する項目が制定されていますの     で、宋の時代の禅宗において如何に茶が

  重要であるかを物語っています。

 

 


なぜ抹茶は

「点てる」と言うのか?

 

なぜ抹茶は

「一服、ニ服」と数えるのか?

 

 

自分の初歩的な疑問から、

 

こんなん

 

利休さん前までの、

 

唐、宋の時代から、

そして日本までの茶の歴史を追わなくては

いけなくなるなんて、

思いもしませんでした。

 

学者の方なら、僅かな説明で

できるのかもしれませんが、

 

自分は宗教の中でのルート、

 

民衆の中に伝わり派生したルートなど、

 

それぞれのお茶の捉え方、

飲み方ルートが生まれ、

 

唐・宋そして我が日本でも

育まれて来たように見えて

こんな大量に入り乱れました。


簡単な歴史や検定なら


栄西禅師が日本に喫茶法を広め、


だから 

渡来の貴重な茶を崇めるぐらいの

シンプルで、本当に美しい一通した

茶道の歴史ばかりが蔓延しています。


しかし、実際は決してシンプルではなく

二重にも三重にも人々や

文化が深く重なりあって

茶の湯が日本に浸透したんだと

私は実感しています。



いずれにしても


茶を「点てる」「一服」という言葉が

実はこのように、千年以上の歴史を

背負ってるなんて、思いもしませんでした。

 

お茶の変遷を通じて

唐や宋の時代の繁栄した文化。


自分は美濃の焼きもの屋なんで、

あの唐や宋の素晴らしい陶磁器ができた

そんな時代背景を、

改めて知る事ができました。

 

喫茶文化が広まったからこそ、

洗練された陶磁器が生まれたと言っても、

過言ではありません。

 

また日本に伝わってきた宗教や文化、

(茶道、陶芸)も含めて、

日本独自の発展や創造性は

改めてぐっと感じるものがあります。



いまの日本では

すでに多くの茶樹が豊かに育ち、

毎日皆さんが飲まれている

美味しい煎茶や抹茶が沢山できて

これだけ身近になっても

 

 

茶の湯の世界では

 

いまだに

 

「茶を点て、一服」と

 

言う所に、何か畏敬の思いを感じます。

 

茶会では良く僧侶の方と

同席させて頂く事があります。

 

法嗣はっすという、師から仏の法と印可を

継承し、またその法を後の弟子に伝える人。

という語があるように、

 

お茶を服す時にも、もしかしたら

違う感覚があるかもしれません。

 

 

海路三千里

 

六日間以上かけての航行

 

学問を求め、命がけで大海原を渡った

僧侶の方々の勇敢さに頭がさがりますね。

 

 

 

茶道口に座り、

 

「一服 差し上げます」

 

挨拶が変わりそうです!

 

 

沼尻真一



 

 ・沼尻真一の茶道に関する記事はこちら

 https://ameblo.jp/chazenichimi


⚫茶道の源流を訪ねて【宋の時代を知る】

http://numajiri.jugem.jp/?eid=1002  



●京都茶事ー前礼・後礼の本当の意義/茶の湯・茶道 沼尻真一

 

●日本的モダニズム/沼尻真一

 

●「無」なんてどこにもない/沼尻真一

 

●茨城県陶芸美術館にて茶会/沼尻真一


・花びら餅って、

   何の花びらか分かりますか?

http://numajiri.jugem.jp/?eid=880


・京都「夏越の祓」と和菓子「水無月」

 http://numajiri.jugem.jp/?eid=797

 

・marimekko茶会開催

http://numajiri.jugem.jp/?eid=901