profile
selected entry
categories
links
archives
others

大覚寺 広沢の池 観月の夕べ 嵯峨天皇・大納言公任/沼尻真一 


DSC_1657.JPG

 
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
            名こそ流れて なほ聞こえけれ
                        大納言公任

大覚寺はかつて嵯峨天皇の離宮でした。
公任の時代にはすでに滝は枯れており、
昔日をしのんで歌ったものです。
しかし、この歌が有名になったことでこの
枯れ滝は「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになりました。


DSC_1647.JPG

観月の夕べは平安時代に嵯峨天皇が大沢池に
伝説上の鳥獣を舳先に付け、水上の安泰を願い
龍頭鷁首舟を浮かべ中秋の名月を愛でたことから始まりました。

1000年も変わらず静かな水面に映る月を見ることができます。


沼尻真一













岡倉天心と柳宗悦/茶の本と、茶の美ー沼尻真一



郷里茨城の太平洋に浮かぶ、真っ赤な小屋。

亀甲の中に入れば、ただ海だけが残れる。

それが岡倉天心の六角堂である。



「六角堂」の画像検索結果



岡倉天心著「茶の本」より

<茶人の美学>

茶人たちは真の美術鑑賞は芸術を暮らしの中に

生かす人たちにのみ可能だと考えている。

だから、茶人たちは茶室の中で手に入れたような

高い水準まで、自分たちの日常生活をも洗練

させようと努めている。

どんな状況でも、心は静かに保たなければならず、

そして会話は、周囲との調和を乱すことが

ないように、交わされなければならない。

 

衣服の形や色、身体の姿勢、歩き方にいたるまでの

すべてが、芸術的人格の表現となりうるものなので

ある。


自分自身が美しくなるまでは、

美しいものに近づく資格はない

のだから、これらのことは、決して軽視

されてよいことではない。

だから茶人たちは、芸術家以上の何ものか、

すなわち芸術そのものになろうと努力しているのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


つまり自分が思う

「自分自身が美しくなる」ということは、


1、肉体的及び技術的な「表層的な美しさ」


2、心及び精神・知性などの「内面的な美しさ」


この二つの両輪が伴って、初めて人間が

美しくなるという事です。


しかしこの二つも、いずれも元を辿れば、

美しく健康的な「素直な慈しみある心」という

ただの一点からのみ派生できるものなのです。

 

さらに言えば、それを昇華するには必ず

「信仰」がいるのです。


信仰とは宗教ももちろんですが、自分の先祖や先達への

畏敬の念と、いま自分がこうして生を得ている

という事への「感謝の念」や「祈りを捧げる」こと

だと私は思います。

率直に言えば信仰心の強い日本国民の代替の中に

「茶道」も貢献しているのだと思います。

 

しかし現実には、それを疎外する要因として

人間には三大欲求をはじめとした

様々な欲望が生まれ、他人との比較の中から

妬みや僻み見栄が生まれ、成長する心を阻みます。

 

しかし時には、それらを「陽のベクトル」に

向かわせる事ができたならば、驚くほどの

屈強なバネになり、よりよい方向へと

拍車をかける、ものにもなるのである。

 

然るに、我々茶の湯者として必要な事は

それらをいかにして「陽のベクトル」に向かわせる

ことができうるのかという事が重要である。

 

それを解く鍵は、わび茶の祖と言われる村田珠光が

弟子の古市播磨法師に宛てた「心の文」にこう書かれて

いる。

 

たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、

人に教えを乞う姿勢が大事である。それには、

自慢・執着の心が何より妨げとなろう。

しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道

でもあるのだが。

この道の至言として、


「わが心の師となれ 心を師とするな」


と古人もいう。

 

つまり煩悩に支配される心のままに生きる

のではなく、律する己が心を支配しなければ

ならない。


我々茶の湯者にとって、この

精神を24時間自分たちの暮らしの中の

あらゆる場面において、どれくらい

守ることができたかどうかが、

つまりそれが「自分自身が美しく」なる

ということに近づく事である。

 

極論を言えば、なにも茶人が「美しい」の

ではなく、茶人でなくともこのような

心がけで生きている全ての人々は

もはや「茶」などという主観的概念に捉われる

事無く、すべからく「美しい」のである。

 

ゆえに現代の世の中には、茶人以上に美しい

人が大勢いることを踏まえれば、茶人は

さらに美しくなければならないと、さらなる

努力をし、また日々の生活を心がけねば

ならないのである。

 

しかし、天心が「礼儀正しい茶人になるつもりは

ない。」と言っているように、

我々は茶人であろうがなかろうが

聖人君子になるべきではなく、陰と陽、清と濁、

理知と欲望、理不尽な正義、生と死を乗り越える

気概と調和を持ち進まなければ、

次なる地を得ることはできない事を知り、生きるべきである。


沼尻真一



また天心と同時代を生きた柳宗悦の言葉も

ここに引用し、今日の茶の湯を考える分銅にしてほしい。 


柳宗悦

本来「茶道が美の宗教足りえるのは、美への

直観が其の基礎をなしている」

しかし、世襲の家元や道具屋によって茶が不純なものになり、

道から遠くなっているだけでなく、「茶人の多くは、

茶を茶室の中に限っているが、「日々の暮らしの茶」に

しなければならない」と主張しました。

一目で分かる美しさは表層的である場合が多い。そうではなく隠密な美を見出すには、

見るもの自身の美への眼力がどうしても要る。


●柳宗悦「茶と美」


●桂離宮

















 

 


京都 茶事 土本宗丘先生からの教え/沼尻真一

沼尻真一と土本宗丘先生
尊敬する土本宗丘先生に茶事の指導を頂く。
客としての心構え楽しみ方
言葉にすべきではないその気を、
一生大切にしていきたいと思います。
※土本宗丘先生は裏千家の高名な業躰先生です。
                        沼尻真一

しら露と穏逸花/文屋朝康と千利休居士 − 沼尻真一




 しら露に 風の吹きしく 秋の野は

    つらぬきとめぬ 玉ぞ 散りける

                    
                  文屋朝康/三七


三種の神器の一つになっている玉。

玉は、白玉であり、真珠の古名でもある。

日本人が玉を重くみている。

つまり玉とは王のこと。
玉という字は、固くて質の充実した宝石のこと。
玉という字の成り立ちは、三つの宝石をつないだ姿。



 秋の野に おく白露は玉なれや

   つらぬきかくる 蜘蛛の糸すぢ  

                文屋朝康/古今225


 
9月になると一気に京都は秋の気配になった。

関西は梅雨の6月よりも9月の秋雨の方が

降水量が多いと聞いて、連日の雨模様に納得できる。

あんなに夏の日差しが強かったのに、

日差しが弱まり水を吸い込んだ瞬間に、

草木や夜の月まで冴えてくる。

重陽の節句、中秋の名月、萩の美しい季節になる。


『風露新香穏逸花』
ふうろあらたにかおるいんいつのはな

菊は、しとやかで高貴な風情から
「穏逸花」(いんいつのはな)とも云われます。

千宗易が、「利休」という居士号を勅賜されたとき、

参禅の師である古渓和尚から贈られた偈頌(げじゅ)、

『龐老(ほうろう)は神通の老作家、飢え来たれば飯を喫し、
 茶に遇えば茶、心空及第して等閑に看れば
 風露新たに香る穏逸の花』の結句。

※龐老(ほうろう)は唐代の高僧

古渓和尚は利休の徳を
孤高穏逸なる「菊」に比定し、
気高いその徳を讃えた句。

隠逸とは、世俗の生活から身をひいて隠れ住むこと,またはその人。
中国では,自己の理想や生き方を固く守って公職につかない人を逸民と呼んだ。
『論語』微子編で,孔子が論評を加えている伯夷,叔斉ら7名がその例である。
竹林の七賢に見、隠逸の世界を陶淵明の世界に見出す。

沼尻真一

















寂連と光悦の村雨 ー 沼尻真一


  村雨の露もまだ干ぬ  
                          槇の葉に
        
     霧たちのぼる   秋の夕暮

                           寂蓮法師・八七


 あるいは三夕の和歌として知られている、


    寂しさは  その色としも 
                               なかりけり

        槇たつ山の   秋の夕暮



寂蓮のこの二つの和歌には
どちらも共通して「槇」が詠まれているが、その意味も
分からずに三夕の和歌を知っていた。

この寂蓮の和歌は、歌が詠まれる背景にあるものを
知る事が、実に必要だと自分に教えてくれた。


「光悦 村雨」の画像検索結果


自分は、「村雨」と聞いてまず本阿弥光悦の茶碗を思い出したが、
村雨という銘が、どこから付けられたのかは定かではない。

寂連1139-1202と、光悦1558-1637の
間には実に400年の隔たりがある。

しかし、寂連も光悦も共通して書家としての顔や
和歌に通じている事からも、光悦が
寂連を知っていることは当たり前だっただろうから、
寂連の和歌から影響されたのかもしれない。


雨の降っているようにも、

あるいは色無き槙山がそそり立って

いるようにも見える光悦の茶碗の景色。

寂連と光悦を比べ、そこに浮かび上がる何かを
想像してみるのも、また面白い。

沼尻真一