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白瓷に白い花を入れる/沼尻真一

 

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白瓷に野の白い花を入れる。

真の格に値する白瓷でも
自分で作った花入れに格も何も
へったくれもあったもんではない。

白く美しいラインが花の有機的な
ラインとどう共鳴するのか見たかった
だけである。

当然に白には色が無い、
しかし、様々な花入れに花を入れて見れば
気づくように、白にだけ陰影礼賛が生まれる。

逆にそれは白にしか生まれない色なのである。
だから引っ掻き回して、削りまわして
白瓷をいじめる必要は自分はないと思う。


蛍光灯の明かりの下や食器売り場の
明かりの下のような場所では
それは見つからないから、作り手は
どこでもそれが見えるようにいじめるのだろう。


自分が花を入れて楽しくなければ
見る人も楽しくないはずだと本来思う。
だから周辺の野山を一万歩歩いて
自ら選び野で摘んだ名も無き花ほど
面白いものはない。


「型を破りて型を忘れず」

型が見つかるまでに老人になって
死んでしまうなら
型を破っても自分が美しいと思う
見えるゾーンを探しまくるしかない。

白瓷にやはり色が見えて良かった。
まだ眼が腐っていないようだ。

沼尻真一































蛸壺の花/沼尻真一



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蛸壺に花を入れる。

蛸壺には各々の漁師の屋号が入っていて、
一目でそれが誰の蛸壺か分かるように
できている。
この壺にはトと墨書されてる。

何の作為もなく作られた蛸壺に
野で摘んだ名も無き花を入れてみれば、
互いに逸れてしまったのか、あるいは
それが本来の姿なのか、
コントロールするされるの外へ
「壷中の天」だからこそ
抜け出すことができる。

沼尻真一



















 






















京都・七夕/沼尻真一


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七夕は日本古来の豊作を祖霊に祈る祭であり
お盆行事のひとつである。
用いられる笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代。

この蜀台は古いもので、木製に黒い漆のようなものが
塗ってある。
据え付けた和蝋燭の火は縦長に
美しい星の光を放ってくれた。


供物をのせた土器は奈良から出土したもので
だいぶ黒く変色しているが、瓦笥に釉彩されていて
奈良の緑釉のようで自分ではとても好きな焼物である。
この茶室の板床に合っていた。




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床脇には、短冊に切った揉みの王朝継ぎ紙と、
神戸の有馬筆を使い、陶師の作品である
織部瓜文陶硯に添える。

美濃の素朴さと華麗さがバランスがとれたようだった。
ちょうど今年は古田織部助重然公の四百年忌の年であり、
美濃者として畏敬の念を込めることができた。

本歌織部瓜文陶硯は青山二郎氏が持っていた。



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織部瓜文陶硯(東京国立博物館








中村戒仙老師・江口章子氏 京都・大徳寺聚光院/ 沼尻真一

 
中村戒仙老師の軸と出合った。

この季節に相応しく伸びやかな書で
京都の茶室の
床の真ん中から
スッと流れる飛沫の如く
「瀧」と一文字のみ、そこに書いてあった。
揉み紙に押し風帯、まさに高僧らしい軸装。


中村戒仙老師は利休の墓のある大徳寺聚光院の
大徳寺508世元御住職である。
(明治14年(1881)06.10──昭和47年(1972)

この伸びやかな書が、何となく気になり調べてみると、
その経歴に明治33年10月に虎渓専寺道場掛錫5年間とあり、
これは恐らく多治見の禅寺、虎渓山永保寺
を指すのだと思う。
禅庭の父ともいうべき永保寺の庭は夢窓疎石がつくったものである。

この中村戒仙の妻に江口章子/あやこという女性がおり、
それは元北原白秋の妻であり詩人である。
彼女の事は、瀬戸内寂聴さんが詳しく長編小説『ここ過ぎて』に描いて
いるようだ。


その当時の記事から引用すると

昭和12年10月のこと、東濃路を走る国鉄(当時)中央線の上り列車内で、
中年の女性が脳いっ血で倒れた。
乗客たちの協力で、多治見駅から担架で多治見の校条医院に運ばれた。
この女性は多治見の虎渓山永保寺に参禅するため、
長野県蓼科からやってきた中村妙章尼であった。
これが江口章子である。

戒仙は長野県・蓼科に観音堂を建立、彼女が堂守を務めた。
虎渓山への参禅旅行はそのときのことである。校条医院を退院、
戒仙に連れられて来たのが、現可児郡御嵩町古屋敷の吉祥寺であった。
戒仙は京都と御嵩とを往復しながら、看病に当たった。
彼女は右手が不自由になっており、それに胸も患っていた。

現在の可児市久々利、吉祥寺に四年ほど療養されたと聞いた。

京都でも自分の故郷と縁のある
物語に出会うことができる。

夏の多治見に帰る時にはぜひ訪ねてみたい。
これもなにかの縁だろう。

沼尻真一


















老人の白馬の王子様がやってくる/沼尻真一

 

ディズニー映画のほとんどがハッピーエンドであり、
その途中には必ずといっていいほど奇跡が起こる。

大人になって見れば、馬鹿バカしいと感じても
だれもが子供のころには、サンタクロースに手紙を書いたり
するのと同じく奇跡は起こると信じているものだ。

ずっとそのまま夢をみて2030405060と歳を重ねられたら
とってもよいが、やっぱり20を超えれば大学や
学校というおとぎ話の世界から、引っ張りだされて
現実の社会が待っている。

見たくも無いものを見せられ、聞きたくもないものを聞かされる
それは自分で食べて生きていくために。

そしてだんだんと人魚が人間になる。
魔法使いも人間になる。
妖精と話ができなくなる。

あえて言うなら俗的な人間になる必要がある。
それが社会性である。

しかし奇跡とまでは言わなくても、子供の頃とは違った
生まれるものがたくさんあることも事実だ。

奇跡を願って、どいつもこいつも白馬の王子様だと信じて
自分から決断し奇跡を演出している人種が多いが、
それは単に自分を犠牲にして自己陶酔
自己催眠をかけているに過ぎないと自分は思う。

それが自己陶酔で終わっているかどうか分かるのは、
偽装をせずに何もかも素の状態の自分であった場合に、
その良いことが起こっているだろうか?

もし起こっていないとしたら、偽装した自分が演出している
自己陶酔でしかないと思う。

いつかあるいはすぐに誰の目にも
偽装としてわかってしまう、それまでの時間と
努力がもったいない。
一瞬で終わるような事ではなく、人生に普遍的に
影響するようなことが良いことである。

素の自分の目の前で何が起きているのか。

あるいは何も起きていないとしたら、どうしたらいいのか?
自分の主義や思想、言動を変えなければ、
周りは何も変わらないし、何も起きはしない。

価値観や主義思想を実際経験して固めていく作業が
必要だから、大学や新社会人時代があると思う。

耳から聞いた耳年増だけで、頑なになっている者を
年齢に関係なく、それは老成しており既に老人である。

すでに老人に何を説いても無駄ではあるが、
しかし、すでに老人でも、自らが老人の白馬の王子様となり
知らない誰かが迎えにくるのではなく、
自らを迎えに来るし、自分の信じた者もついでに
迎えにいくぐらいの勇気と気概が必要だ。
それぐらいでちょうどいい。

沼尻真一



































小林一三 「茶の湯の定義」/ 茶の湯の真の「佇まい」 沼尻真一



「お茶は茶室内に持ち込まれる種種の美術品、工芸品を通じて
真善美に関する同志的結合を歓び合うのである」
「お客を窮屈がらせるお茶は下の下のだ」

確かにやれ飲み方だ、足の運びだ、
茶碗の清め方だのと、点前だけの稽古や
大寄せ茶会での良く見る風景と、
茶事が一緒の茶の湯ではない。

※真善美とは、認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。
人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。

実生活から遊離した茶会、例えば名器羅列式
あるいは道具商のいいなりの成金茶事に
すこぶる批判的であった。

極端に言えば、家族だけでも催しうる簡素な茶の湯を現代化
することが必要だとし、懐石の簡素化など工夫した。

その小林一三の目と鼻の先に神戸の
白鶴酒造7代嘉納治兵衛がいた。

二十六歳(鶴翁 興福寺唐院お蔵預かりの家柄の
生まれ 1862−1951)で白鶴嘉納の養子となり、
後に玳玻天目茶碗だけでも30碗を持ち「天目屋治兵衛」とも
呼ばれる蒐集家となり、茶歴として小林よりも年長であった。
※現在このコレクションは白鶴美術館となっている。

小林一三の新茶道論から言えばまさしく金の力で
道具を漁る実業家茶人として
批判の対象となる相手である。

嘉納は目と鼻の先に住む小林を茶席に招いたが、
小林はついに嘉納の茶席に赴くことはなかった。

しかし、小林が嘉納の茶の湯の公共的奉仕に
一目おいていたことも事実のようだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

天目や茶入小壷の唐物、そして和物の桃山から
伝わる焼物はそのほとんどが鉄釉薬の延長戦上である。

伝来や由緒、歴史的価値を差し引いたら
この茶色の鉄釉の塊が美しいと思えることは
陶芸を生業からする者からみても無いし、
おそらく一般の人から見てもまったく無いと思う。

今の技術からすればもっと美しく発色するものは
いくらでも作ることができるし、
一般の人たちでさえ、もっと美しい焼物に
普段から出合っているのである。

色からしてもそうなのであり、
形にしても重い軽い大きい小さいが
あるだけで、茶碗も自由なのである。

鶴翁の蒐集した名器は確かに由緒、伝来からすれば
今でも名器であるが、見方を変えれば名器ではない。

だから今となれば、鶴翁も小林も
茶席に同席することはできるのだと思う。

今はそういう時代なのだと思う。
すでに価値の決まったものも、あるいはまだ
価値の決まっていない何かも
一緒に同席することができるのだ。

しかしその未知の価値は何でもいいわけではなく、
それは真のある「佇まい」があるのか無いのか
一番重要なのだと自分は思う。

沼尻真一




























But if you look for truthfulness You might just as well be blind.

 





Honesty

If you search for tenderness
it isn't hard to find.
You can have the love you need to live.
But if you look for truthfulness
You might just as well be blind.
It always seems to be so hard to give.

Honesty is such a lonely word.
Everyone is so untrue.
Honesty is hardly ever heard.
And mostly what I need from you.

I can always find someone
to say they sympathize.
If I wear my heart out on my sleeve.
But I don't want some pretty face
to tell me pretty lies.
All I want is someone to believe.

Honesty is such a lonely word.
Everyone is so untrue.
Honesty is hardly ever heard.
And mostly what I need from you.

I can find a lover.
I can find a friend.
I can have security until the bitter end.
Anyone can comfort me
with promises again.
I know, I know.

When I'm deep inside of me
don't be too concerned.
I won't as for nothin' while I'm gone.
But when I want sincerity
tell me where else can I turn.
Because you're the one I depend upon.

Honesty is such a lonely word.
Everyone is so untrue.
Honesty is hardly ever heard.
And mostly what I need from you.




















小林一三の眼 / 沼尻真一



明治から昭和にかけ、多くの事業を手掛けながら、
名物道具を使って茶の湯をする近代数奇者と
呼ばれる人々が登場する。
その筆頭に、益田鈍翁、井上世外、高橋箒庵、原三渓、
根津青山、小林一三らがいる。

ただ小林一三のコレクションだけは他の数奇者とは違い
特徴があると言われるが、それは単に金に任せて
道具を買っていないからである。

戦後、小林一三が廃校となった古材を用いて作った
茶室に「古彩庵」という茶室がある。
この茶室が生まれた背景には諸説あるが、
一般的には戦後の人々の慰労のためと
捕らえることができる。

外見は単なる古い民家のようにも見えるが、
中に入ってみれば、それはやはり茶室で
背筋が伸びるのである。
天井にも躙口にも、古材らしく釘の後が
残っていたりするのだが、釣瓶の水指の
釘染みのようにも見え景色にもなっている。
どうせ廃材だからという断りわなく、
古材を選び抜き作られている。

茶室ではあるが、茶室では味わう事のできない懐かしさや、
身近さを感じる。
非日常性が求められている
現代の茶室に、それがどういうことなのかは
実際に使ってみなければ自分にも分からないと思う。

空間から、器を考え。器から空間を考え、
庭から空間を考える事ができる。
各流派のものの通りとなる
忠実なる茶室も良いが、この「古彩庵」という茶室が
現代茶の湯に示す役割はもっと大きいと自分は思う。

沼尻真一