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100年後のつくばを世界遺産に登録する!/沼尻真一



・ 100年後のつくばを世界遺産に登録する!/沼尻真一

板谷波山の陶芸 / 沼尻真一



板谷波山工房/復元


同郷茨城の先達である
陶芸家の板谷波山を思い出したのは郷里つくばを遥かに離れ、
美濃で修行をするようになってからの事である。

その頃の印象と言えば、アカデミックな絵が好きな芸術家が
ロクロ師まで雇い、精巧な中国陶を作るイメージを持っていた。

それはすべてを自分一人の手で作り出す、美濃陶工の
意識とも違い、自分の欲していた一人でプロセスから
完結するという陶磁器の美とはあまりにかけ離れていて
共感できるところが少なかった。

もっと密に言えば波山の茶碗も見たことがなかったから
何のために陶磁器を作っているのか解らなかったから
退屈でもあった。

今回、天目茶碗であるが、波山の茶碗を見て目指した方向が
理解できた部分があった。

多くの人は大物作品に群がっていたが、波山の作品は
小品がいいと自分は思う。

あるいは葆光彩磁など光を求めた陶磁器に
共感する事ができた。
板谷の進化は、定窯の進化の過程にリンクしていた。

金沢久谷にしばらく住していたことで、
その白さと多彩な色使いのある波山の
スタイルが生まれたのだと思う。

初期の陶芸では、やっぱり
アールヌーボー、ガレの影響を強く感じ感じる。

しかし結論を言えば、波山の陶芸は東洋陶磁そのものである。
もっと分かりやすく言えば
定窯白磁と李朝白磁の融合であり、
師である岡倉天真のアジアの理想でもある。

日本の陶芸家の誰もが憧れる二つを融合した事が
波山の偉業だと思う。

純粋に美しいものを
追い求めた姿勢の結果として、生まれた白い光は
技術の進化した現代でも、あれ以上の白を抜く事は難しい。

あれ以上の白ができてこそ現代だろう。


沼尻真一












小山富士夫先生の花之木窯 蛇窯/沼尻真一


小山富士夫先生の花の木窯 蛇窯




陶芸家の机の上



柳宗悦の茶 「茶と美」 / 沼尻真一

 
 柳宗悦の基本理念





    それは「茶が美の世界のことである限りは、


          美しき器物のみが


             茶器たるの資格を受ける」(「『禅茶録』を読んで」)
















          「美を修することと、『茶』を修することとは別事ではない」


                                    (『茶道を想ふ』)という思想










晩年となった 1955 年12月、
柳は日本民藝館で第一回民藝館茶会をした。
その後病に臥し、61年に歿した柳。


この茶会は柳の志向した茶の貴重な記録である。


茶祖が取り上げた茶器の美。


柳はそれを「無ぶ じ事の美」


「只しも麼の美」と呼び、賞讃しました。


その美は自身が『美の法門』で説いた「美醜なき美」と
確かな重なりを見せます。


「美」と「醜」の相対を超えた美しさは、
柳が日本民藝館に蒐めた多くの工芸品にも宿り、
「美の標準」として提示されました。


無上の法門は今も開かれているのです。

長年にわたって蒐集した館蔵品から、
既成の「茶」に囚われずに選んだ茶器と自身考案の
道具を用い、半座礼という椅子式でおこなった。


柳は茶会について「道具とか室飾りの方は、
凡て私が背負った。




(中略)私が一番気を配ったのは室の飾りつけであるが、どれだけ
気附いてくれた人があるのか」(『民藝』39 号)と書いている。



家元制度を批判し、形式化された茶道を嫌った柳が
開催した茶会は、著書の中にも紹介されている。


茶を知らない誰もがそれはたいへんとっつき難く、
茶道をわかりづらいものに感じるだろう。


まして、自由な遊びのある時代の茶に比べれば
あらゆる点で、定型化されていると思う。


その点だけをみれば、やはり桃山の茶は自由であり、
〇〇〇流など関係なく、道具も茶を点てるのも、自己流
で十分のはずである。
だから家元なんてものの必要性を感じないという
考え方もよくわかる。


しかし近年の研究から、例えば茶と禅の関係性よりも、
むしろ、法華宗や神道の影響の大きさであったり、
柳の時代とは比べものにならないほど
新たな研究結果を見れば、各家元の役割や、
流儀の個性の面白さなど型があればこそ、
研ぎ澄まされる部分が自分の中に養われるのだと思う。


外野から評論する事だけは何事においても、
バカな安易な行動であるからして、
とことんやってテメェでものが初めて言えるのだと思う。

唯一つ思うことは、思量と身体を使うことにより、
誰もが思う何者かへの信仰が、やがて神妙になれる
という事がもしその中に生まれれば、それは茶はあくまで
媒体であっていいのではないかと自分は思う。

自分とは何か?命をどこへ使うかなどもそんな
思量と身体の動きのシンクロの中にしか
生まれないのではないかと思う。


茶道とは何か?民芸とは何か?考えるとき、
柳宗悦と流派茶道の疑問にあたることになるが
唯一この二つを融合する、熊倉功夫先生の一節を紹介する。


民芸は形あるもののデザインで終わりません。
さらに進んで人間としての生き方を求めます。

柳は美醜、善悪を超えた「無有好醜」の世界を
理想としています。

それは茶の湯の求めるところと
一致するように私には思えます。






沼尻真一