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北野天満宮・天神さん菅原道真公と利休大居士/沼尻真一


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平安時代、幼少の頃より文才の優れた菅原道真は
醍醐天皇の899年に右大臣になったが、
901年に無実の罪で、大宰府に西遷されその2年後に逝去する。


   
 
 東風(こち)吹かば

       にほひおこせよ 梅の花

            主なしとて 春を忘るな

                        道真


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道真没後930年朝議中の清涼殿が落雷を受け、
朝廷要人に多くの死傷者が出(清涼殿落雷事件)、
直後に醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に
947年に北野天満宮を建立し道真の祟りを鎮めようと
北野天満宮がつくられた。

その後天神様として信仰する天神信仰は全国に広まった。
 
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、
道真が生前優れた学者・詩人であったことから、
後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
また学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、
徳川幕府や加賀前田家などの大名からも信仰される。

菅原道真は勅命を受けてお茶に関する故実を調査、研究し
正史に著し宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広め、
茶聖菅公と称せられるようになったことが由来で、
天正15年(1587年)10月1日に、境内において
豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
なので、現在でも茶の湯との関わりが深い。


北野天満宮では2月25日に「菜種御供」の祭りがある
現在は紅白の梅の花をお供えする慣わしだが、
昔は“なだめる”“なだめ”に通じるとして菜の花を供えていた。

千利休が切腹を命ぜられ、
最後に生けた花は菜の花だったと伝えられている。


千利休辞世の狂歌


  利休めは とかく果報のものぞかし
            
              管丞相になるとおもへば


北野大茶湯で銘銘された長五郎餅も
自分たちも決まって、毎月25日には、
金曜日の海軍カレーのように
抹茶とともに頂く事ができるから、
そんな所が京都だな思う。

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中でも、長谷川等伯の描いた重要文化財の
昌俊弁慶相騎図絵馬は、等伯の松林図が一番好きな
自分にとっては、生きている馬以上の躍動感や
息遣いに怖さを感じた。
午年の今年にこんな凄い馬を見れて有難かった。

 
 
同時に毎月25日には天神さんの市が立ち多くの
出店が出る。
以前に京都の二大市として知られる、
東寺の弘法さんの市に行ったが、
天神さんの方が良かった。


年配の方々より、初天神ということもあってか、
若い人たちの着物姿をよく見かけることが
できるし、売られていた着物も数多くあるので、
境内や街の雰囲気ともよく似合っていて好感が持てる。

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ちょうど上七軒の石畳の町並みが綺麗で
観光客の多い祇園とはまた違った
落ち着いた風情がある。
 
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上七軒から西陣を抜けて帰ってくると、至る所で
土曜日でも機織の音が聞こえてくる。
外からは、普通の町屋に見えて実は機を織っている。
 
そんな風景が、窯元が軒を連ねる
多治見に似ていてホッとした。
















 


永遠の0 − 沼尻真一

 


特攻についてはこれまでも多くの映画が描かれている。
この中で現代の学生で戦争を身近に感じている人と
そうでない人を対比する場面が興味深かった。
 
祖母の死という一つの転機から、若い主人公が
自分のルーツの中に、特攻に赴いた祖父の像を
求めていく姿には、
誰もが持っている、身近な人の死という
きっかけがなければ、
あまりに生きるという事が真剣になれない
脆弱さが潜んでいるように見えた。
 
何もしなくても食っていける時代。
義理人情なく、煩悩を個性と信じて
誤解し自己主張できる時代だが、
 
結局は、誰もが今この瞬間から未来に生きているの
であるが、その方向を示す羅針盤の軸が
見当たらなければ
千代に八千代にはならない。

 

・旅立った明治の男


・ 祖父と線香花火


・legend of 311






















娑婆の空気 − 沼尻真一


年末から年頭には、日本を縦断しながら
陶や茶の師と再会する。
 
暦に翻弄されず、人や物の変わらない形。
 
お世辞抜きに美味かった。
 
陶のふるさと多治見の恵那寿やさんの