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碧巌録 第四十則 南泉一株花 /沼尻真一

 碧巌録 第四十則 南泉一株花


本則

挙す、陸亘大夫、南泉と語話する次で。

陸云く、肇法師道はく、天地と我と同根、万物と我と一体と。

也甚だ奇怪なり南泉庭前の花を指さて大夫を召して云く、

時の人此の一株の花を見ると、夢の如くに相似たり

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陸亘大夫とは昔の役人で、南泉和尚の弟子であり、景山(けいざん)居士という号を持つ。
肇法師(じょうほっし)はインド仏教を中国へパーリー語、サンスクリット語を
中国語に訳した北京生まれの人。
手で写す作業をともなう。12歳で得度し老子、荘子などの道教に通じた。



■死に臨んだ僧肇の遺偈


宇宙と自分が一つである。自分も天地も何も無い
無学の境合。
肉体は自分のものではない。

世の中のものはすべて元素からできており、すべては元素に戻る。

論本来 空なり

空即是色 (実体がないことがそのまま形あるものとなっている。)

じゅそうぎょうしき
受想行識 (残りの、心の四つの働きの場合も、)
春風が大根を切るようなものである。

 

すると南泉和尚は

景山居士に対して、世間の人は春過ぎの花(中国では、梅・桃・牡丹)
牡丹の花が咲いて、人々はああ綺麗だとほめるが

客観的に見れば
万物同根一体となれば、その花が実は自分であるとなるが、
その牡丹が自分の心であるとまでは思わないであろう。

全て一つと言っても理屈であり、頭で理解しても
結局は、身となり血となっていない理論である。

つまり、はたらきがなく、分別悟りがないものは駄目である。
それは夢と同じで、まったく実践できていないことである。




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聞見覚知一一に非ず。

山河は鏡中に在って観ず。

霜天月落ちて夜将に半らならんとす。


頌げじゅ

普通は見聞覚知であるが、

漢詩であるために逆になる。

六根
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
無眼耳鼻舌身意であるが、

感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身もありませんし、

意(意識・思うこと)もありません 


六根から「苦」が入り込んでいる。
だから、この『目・耳・舌・身体・意識』から争い事やもめごとが、
起こりうると言えます。

でも、「そんな六根さえもありません」
『物』にこだわるのは私たちの心であって、

その『物』ではないのです。


贅沢な食事も貧しい食事も、命の糧となる大切な食材であり、
気に入る・いらないも、わたしたちの思い込みが

そうさせているだけなのです。
そして、その意識さえも「空」でありますから、
感覚自体もまた「空」であると言えるでしょう。


六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、

人間に具わった六根を清らかにすること。

六根は一つ一つバラバラではありません。

自分の心で見るためには、見る見ないではなく、

もう一つ一体であるから、
座禅で感じれるようなものである。


西に月が落ち、もう真っ暗闇な真夜中であるが、
その中に自分の身体を置く。
寺には池があり、山の形が映り見慣れると物が見えてくる。

こうなると自分と天地が溶け合い己と天地が一つとなる。

この経験が大切である。

外の屋根のない誰もいない場所で夜座をする。
座るときも、「天地我同根万物一体」を意識して

「道元禅」は、「普勧座禅儀(ふかんざぜんぎ)」あまねく人々に、

「只菅打座(しかんたざ)」只、座る ために座る。
 
「悟りを得るため」とか、「健康になるため」または
「集中力を強化したい」などと言うことさえ追い求めることを止め、
ただひたすら「座る」ために「座る」と言う「座禅」です。 


「無」なんて、ありません。 
 はっきり言って、生きている限り、

「無」などと言うものは存在しません。 
 「無」の「境地」などと言うのは、単なる絵空事です。



では、何故? 

その、「何故?」と言う問いかけさえ

捨て去るところから始まるのです。 

壁に向かって、結跏趺坐(または、半跏趺坐)で、尾てい骨から
頭頂の盆の座まで背筋をすーっと伸ばし、両手 は、
法界定印(ほっかいじょういん)と呼ばれる印を組んで座ります。

 
様々の想いが、次から次へと浮かんできます。 
それは、生きている証拠で当たり前のことなのです。 
重要なのは、その想いを消してやろうなどとは

決して思わないことなのです。 

その次から次へと湧いてくる様々な想いを追わず、
引きずられないと言うことが大事なのです。 
 

ところが、これが意外に難しい。 
この時、私たちが日常において、どれほど
想いに引きずり回されているかと言うことに、
嫌でも思い知らされる ことになるでしょう。 

で、どうするかと言うと、湧いてくる様々な想いを、

まるで景色でも見るようにただ黙って見ているというのが 

ベストです。 
 まるで、電車の窓から移り変わっていく景色を見ているように。 

 そして、時々、「座禅」の姿勢をチェックしてみるのです。 
 「背骨が曲がってないか?」 
 「肩に力が入ってないか?」 
 「法界定印が、崩れていないか?」 

「鼻で呼吸し、一から十まで数えまた一に戻る」


 これを、座禅用語で「骨肉で探る」と言います。 

何か、一つの想いに引きずられ、それを追い始めている時に限って、
必ず姿勢は崩れているものです。 

そんな時に、姿勢をチェックして静かに直すのです。 
想いは、一瞬「フッ...」と、消えるでしょう。 

そして、また、湧いてくる想いに、同じことを繰り返しながら、
座り続けます。 
時には、つい吸い込まれそうな睡魔に襲われたりしながら.....
そして、そのうち、想いの方も出尽くしてしまいます。 

ある瞬間、突然の「静寂」の世界に直入するでしょう。 

または、ある瞬間気が付いてみると、いつからかは思い出せないが、
「静寂」の中に座っている自分自身に気が 付くでしょう。 

実は、ここからが「座禅」の始まりであり、その入り口なのです。 

「観阿弥」「世阿弥」も修行の重要な一つとして実践したこの「座禅」です。





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後の時代に、無学祖元という僧は

南宋に攻め入って来た元の
兵士に頭に刃で突きつけられた時に、

「これは私の頭ではない、春風が大根を切るようなものである」


乾坤(けんこん)孤徐・(こきょう)を卓(た)つるも地なし
 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
 珍重す、大元三尺の剣
 電光、影裏に春風を斬らん

という僧肇の遺偈を、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)
を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。


その後、無学祖元は1279年、日本の鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じて来日。

鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。

時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。

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※無学祖元(むがく そげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安993日(1286922日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。



※碧巌録(へきがんろく)は、中国の仏教書。
圜悟克勤(えんご こくごん、1063 - 1135年)は、中国の宋代の禅僧により
記される。
別名に仏果圜悟禅師碧巌録。碧巌集とも呼ばれる。
特に臨済宗において尊重される、代表的な公案集。全10巻。



※仏教では「地」「水」「火」「風」「空」の五つで、五大(五大元素)という。

仏教では「地」を最低、「空」を最上の境地としており、般若心経の「色即是空 空即是色」もこの空の境地を表していると言われる。

※道教では「木」「火」「土」「金」「水」の五つ。茶の湯でよく用いられる思想。

※遺偈 ゆいげ
高僧が死に臨んで、自己の感懐、信仰の根幹、弟子・後世への教訓などを記した偈
遺偈(ゆいげ)とは、禅僧が末期に後人のために残す辞世の偈頌のことで、遺誡偈頌(ゆいかいげじゅ)の略です。


※鳩摩羅什(くまらじゅう):亀茲国(きじこく)(新疆ウイグル自治区クチャ県)の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧。

道生・僧肇・慧観・僧叡の4人の弟子を四哲。

※「宝蔵論」経典
夫れ学者の道に三あり。その一を真しんといい、その二を隣りんといい、その三を聞もんという。習学これを聞といい、絶学これを隣といい、この二を過ぐる者を真という。
というものである。仏道の修行者の境涯を、道の貴さを聞き知って、志を起こし修行に励む者、次に修行に修行を積み学ぶべきことは学びつくし、仏祖の境涯に今一歩という境涯(隣とは仏の境涯のすぐとなりの意)にまで至った者、すなわち絶学の境涯に到達した者、さらにその絶学の境涯をも真に透過とうかし、それを超絶した者、すなわち真の仏祖の境涯を得た者と、三つに分けたのが右の一節である。

※そうじょう僧肇  374414
中国,後秦の僧。長安(陝西省)の人。若くして中国古典に通じ,とくに老荘思想を好んだが,《維摩経》を読むに及んで歓喜して仏教に帰依し,出家した。のちクマーラジーバ(鳩摩羅什)に師事して彼の伝えた竜樹の大乗教学を学び,師の訳経事業を助けた。《肇論》および《注維摩》は,老荘思想の深い理解のうえに大乗教学を述べた代表的著作であり,中国仏教史のみならず中国思想史にも多大な影響を与えた。
僧肇の仏教思想は、後に奈良仏教に多大な影響を与えた。


後秦(しん、署x音:Q醇^n、紀元前778 - 紀元前206年)王に招聘されたが
拒絶し、死刑となる。その一週間の猶予の間に「宝蔵論」を書く

6世紀には、玄奘三蔵が漢訳した。三蔵は西遊記のモデルとなる。





沼尻真一