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狷介孤高の士 藍色志野 酒井博司先生 日本橋三越個展 − 沼尻真一

 


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                               ・第一回陶美展 大賞

初めて藍色志野を見た際
安藤忠雄氏の空間に置いてみたいと思った。

志野の奔放な長石釉を、理性的に表現することで
美濃桃山陶を
これほど現代的に昇華することができるものかと感じた。

桃山の写しをつくる、李朝の写しをつくるのも
空気まで写しきれないことで、それも表現かもしれないが、
実は後の歴史は作るのだろうと、
酒井先生の作品を見ていつも思う。




















本條秀太郎先生と偶然の再会 − 沼尻真一

 
買っていた切符よりも早く駅に着いたので、
一つまえの列車に飛び乗り、
適当な座席に腰を掛ける。

ふと隣をみると、どこかで見たことのある髪形。


偶然すぎて最初は、人違いだと思ったが
やっぱりそうだった。

名古屋のど真ん中祭りの審査員に来ているとの事。

いつもと変わらぬ笑顔。

先生と握手をして別れた。

沼尻真一























常総学院 夏の甲子園ベスト8 おめでとう − 沼尻真一

 

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名将:木内監督は今でも甲子園の顔

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木内監督引退が決まっていた時に、
ダルビッシュの東北高校を破って優勝した85回大会。


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原田先生や玉井先生が校長先生になってたり、
いつまでも数多くの常総学院の先生が変わらず
学校にいてくれるおかげで、頭が上がらないが
それが常総の素晴らしさだろう。














































瀬戸黒 人間国宝 加藤孝造先生の口伝2 − 沼尻真一

  
加藤孝造先生に久しぶりに話を伺う。
 
茶でも陶芸でも目新しいものが良いというのでは
ないのではないだろうか。
やはり本質的な所を通って行かなければ、
これからの人たちは、いけないのではないだろうか。
 

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茶碗も自分が全てやりたいことをした時、
あるいはこの場所にこんな景色が欲しいと作為を
して、それが完成したとしてもそれはとても窮屈になる。
 
だから物足りないぐらいで良いのではないだろうか。

※秋には大阪高島屋で個展を開催される。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒と他の産地にはない
桃山陶の歴史が美濃にはある。
 
歴史を知っている作り手は、その先をつくり
歴史を知らない買い手は、写しを欲しがり
自分の眼を信じない
 
これでは、
いつの時代もバランスが悪いように思う。
この状況はどこの産地でもまったく同じだろう。

日本六古窯や一楽二萩三唐津のような
間違いを信じているのも原因だと思う。
 
素人は薪窯信仰で
玄人は結果が全てである
 
薪窯信仰は、火サスに出てくる陶芸家のイメージ
だろうし、なにより無釉焼締ほど
簡単に分かり易いものはないから。
 
しかし、土と釉薬の肌質がわかるようになれば
それが本当に焼き物がわかるという事だと思う。
 
だから結局最後は産地も何も飛び越して
その作家に付く事になる。
 
陶磁器を作家から買うという行為は、
作家のその時代を切り取り、保存するという事であるし、
作家がそれに値するということである。
 
沼尻真一














名前は銀でも、お婆さん − 沼尻真一


銀ちゃんは柴犬で、14歳のお婆さん。
久しぶりに会っても、ちゃんと分かって
 
尻尾を振って出迎えてくれた。
 
見た目にもだいぶ歳をとったから
 
もう柴犬なのか、白犬なのかわからない。

 
ボケてる時もあるのに今回は
 
分かって良かった。
 
修行をしている時は、こんな間柄では
 
なかったけど、もう戦友のようだ。

「銀ちゃんそりゃないよ。」


































































外側・内側 − 沼尻真一

   
同じ目線にならないと、
見えないものが世の中にはたくさんある。

生活をするために会社に仕えて、サラリーをもらい
業務の指示を忠実に遂行するというのは、
立派な仕事であり、それがサラリーマンである。

自分が生きていくために働くというのは
とっくのとうに過ぎていて、誰かの指示をもらって、
その指示に従うことが仕事だ、生きるだ、充実してる
なんて時代は、自分の中では記憶が喪失した。

しかし、それも当たり前にできなければいけない事で
契約書を作って弁護士と対等に打ち合わせ肉付けする、
または相手方と交渉し契約をまとめる、
あるいは指示を受け、自分の専門知識や技術を提供したり、
つくったりまたは連携して各社に協力してもらうなんざ、
どんな仕事でもあたりまえに、ぺーぺーの社会人として
しっかりとできなくてはいけないことだ。

が、それは全て外の世界に気が行ってることでもある。

つまりは、人の顔色を伺いながら生きることでもある。
だから周りが全て気になりだす。

あいつはこいつは今、何をしてるんだろう。
リアルでもフェイスブックやネットでも気になる。

共感も、仲間意識も生まれるだろうが、
妬み、僻み、コンプレックスも生まれる。


生きるために食うためにサラリーマンをするまでは、
いいが、結局仕事がその人のライフスタイルや
人格や習慣まで決定していく。

ただ、自分が何をするべきか、何のために生まれてきたか
何に命を使うか、やらなければいけないか、
どのような生き様をしなければいけないか、
何のために生まれてきたか
自分の内面を見つけることは一生ない。

自分は人の記事を読んだことがない。
人が何をしていても全ていいと思う。
思う通りに生きればいい。

ただ、同じ修羅場をくぐったり、同じ志
同じステージに上ってなければ、人の生き方を
理解することも、
「あなたは何で、そんなことをしているんですか?」
「あなたは何で、そんな生き方をしているんですか?
なんて聞くこともできないことだけは、肝に銘じておく。

中には、やらなければいけない年代に
すでに20代でもおばさんおじさんになっていて、
通り過ぎて取り返せない生き様もすでにある。

内側に向かっている人間と、
外側に内側が支配されている人間では
理解しあうのは無理がある。
同じ美意識も美の景色も、言語も音ももっていない。

人類平等だなんて小学生標語を信仰する
のではなく、付き合う時間を共有してしまう
人間の仕分けは必要である。

誰もゴミと過ごしたり、共生する必要はない。

口臭や体臭のように、誰も匂いが一番気になるから。