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常総学院甲子園出場!茗渓学園花園出場!おめでとう/沼尻真一


・第85回選抜高校野球 常総学院甲子園出場!

・第92回全国高等学校ラグビーフットボール大会 茗渓学園花園出場!

準決勝 2013年1月5日 14:25御所実業48-17茗溪学園

縁とゆかりある故郷の高校生が活躍している勇姿には、
勇気をもらうことができます。
ともに全国制覇の経験を持つ名門校
今後益々の活躍をご祈念しています。

沼尻真一




























佐渡島 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」 風姿花伝・世阿弥 / 沼尻真一

世阿弥は1400年(37歳)
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」など
父観阿弥の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著す。

風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、
このような書物は世界にも殆ど例がない。

能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。
「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、
「花」を知ることは能の奥義を極めることである。

桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。
花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。

能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に
咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。

十八番の役ばかり演じることなく、変化していく姿を「花」として
感じさせねばならない。

「花」が咲くには種が必要だ。
花は心、種は態(わざ、技)。

観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だ。
だからこそ、能役者は稽古を積み技を磨いて、
何種類もの種を持っていなければならない。

牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、
時分にあった種を取り出し咲かせるのだ。

「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」と言うのも。
血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいもの。

将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で
佐渡に流されてしまう。
1441年、暴政を行なった足利義教が守護大名の反乱で暗殺されると、
一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、
娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなった。

世阿弥の墓は一休が住職をした京都大徳寺真珠庵にある。

「羽衣」

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佐渡島には祖父母に連れられ、確か五才の頃船で渡った。

遠い旅はおそらくこの時が初めてで
電車から船に乗り
船酔いして船着場で涙して
座り込んで吐きながら、着物姿の祖母に介抱されて
やっと島に辿り着いた。

太平洋側には無い島の景色は、深緑の森と、ワシなのか
トンビなのか知らないが、とにかく大きな鳥が宿の窓から見えて、
いつ襲われるかもという、子供の勝手な恐怖におののいていた。

よく記憶している理由はただ一つ「金山」「鬼太鼓」だ。

金山内部は当時の罪人たちの発掘した模様が
人形によりリアルに再現されていて、
ご一行はトロッコに乗って進むという、
40年前としては20年前にいった
ユニバーサルスタジオマイアミにも負けない
アトラクションができていた。

そんなわけで
薄暗い炭坑に解説も聞こえないほど鳴り響いたのは
結局自分の大きな泣き声だけだった。

たまたま名古屋高島屋の茶碗展展示会に来ていた
旭化成の支店長さんが
佐渡島出身で、実は佐渡島は
多くの天皇や公家、それこそ世阿弥も流された島ですが、
そのようなおかげで
京都の文化と相まって、
金は出るわ、飲めや歌えでわざわざ罪人となって、
佐渡島に来たほどなんですよ。

水戸黄門の見過ぎで
事実は大分イメージが違っていたようだと
あれから数十年が経って判明した。

日本は狭いと言われるが、確かに国土は狭いが
これほど多民族化した土着文化のある国だから
一人ひとりが違う文化を持っている。


沼尻真一










徒然草44段 吉田兼好/ 田の鏡 沼尻真一

 [古文] 44段

あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、
つややかなる狩衣(かりぎぬ)に濃き指貫(さしぬき)、
いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、
遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、
笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、
行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹き止みて、
山のきはに惣門(そうもん)のある内に入りぬ。


榻(しじ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止まる心地して、
下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、
御仏事など候ふにや」と言ふ。


御堂(みどう)の方に法師ども参りたり。
夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。
寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意(おいかぜようい)など、
人目もなき山里ともいはず、心遣ひしたり。


心のままに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、
虫の音かごとがましく、遣水(やりみず)の音のどやかなり。
都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。
 
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田植えを終わった初夏。

まだ早苗の頃

田の鏡に映る月は美しかった。


その頃はまだ、和服を着た祖母の兄が

荷台の大きな黒い自転車に乗って

よく祖母の所に遊びに来ていた。

農作業をしてきた後だからというので、

それでも一風呂浴びてさっぱりしてきているのに

座布団ではなく、新聞紙を広げて座敷にすわり

熱燗の日本酒をうまそうに飲んでいた。


真っ赤になってふらふらと

メッキのかかった大きな自転車ライトを

ギコギコタイヤのチューブを響かせながら、

それでも頼りない灯りを

点しながら田の鏡の中を、帰って行った。


街が明るくなれば、もうそのような小さな灯も

いとおしくは思えない。


沼尻真一




































 

 

 

 


徒然草189段 吉田兼好 / ボケて寝ている犬 沼尻真一

 [古文] 189段

今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛れ暮し、
待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、
思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。

煩はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。
日々に過ぎ行くさま、予て(かねて)思ひつるには似ず。
一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。

予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、
違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。

不定と心得ぬるのみ、実(まこと)にて違はず。

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一日思いがけず多くの人と出会う日がある。

ほんの一分違えば出会うことも無いような場所で

出会ったからには、何か偶然ではない

縁のようなものを感じる。


・噂に聞いていて会いたかった人

・お世話になっている人

・文句を言ってくる人

・お祝いしてくれる人

・コーヒーを何杯も入れてくれる人

・ボケて寝ている犬

などなど趣旨は様々。



しかし思いもかけず出会ってしまったばかりに

その人の持論を展開され、その話を聞こうとすればするほど

恐ろしくどっと疲れというか、気が萎えた。

帰ってきてやっと仕事をしようにも一向に捗らない。

世の中にはこちらをポジティブにしてくれる人か

ネガティブにしてくれる人の

どちらかしかいないように感じる。


ボケて寝ている犬が今日は良かった。

沼尻真一





























JR名古屋高島屋「美濃陶芸庄六賞茶碗展」開催/沼尻真一



今日からJR名古屋高島屋にて「美濃陶芸庄六賞茶碗展」がスタートした。

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初日からお客さんや、関係者、あるいは購入頂いた方の声を

実際に生で聞くことができた事は貴重な体験となった。

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制作意図など様々な質問を頂くことで、改めて自分の考えが

明確に整理できたり、ニーズを聞かせていただくことでしか

見えないものが見えてくるようになった。

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偉大な功績を残して来た先輩の中に、

作品を展示して頂く事で

見えてきたこと、感じたこと。足りないこと。

たくさんの先達の憧れの壁をどうよじ登れるか。

自分なりのやり方で登るしかない。



沼尻真一





















茶碗 志野 「大雄峰(だいゆうほう)」  銘々:鵬雲斎大宗匠 作:荒川豊蔵先生  /  沼尻真一


一見志野特有の大ぶりな茶碗に見えるが、手に持ち
茶を飲んでみるとしっくりと手の中に収まる。

それは口縁下の一筋のロクロの絞りによって全体が引き締まり、
茶溜まり茶筅擦りから丸みを帯びて
この絞りに達することで、まるで見込みが魚篭のように広がり
丸く茶を包み込んでいるからだろう。

高台脇を削り込んだのではなく、
まあるくアールを描いて高台先端へととがり、
その中に、中の茶溜まりが収まっている。

それ故にこの茶碗全体が一体化し、
この特有の佇まいを見せていると思う。

高台に見える土が赤黒いところを見ると、
相当に鉄分のある土にも見える。

従って、志野ではあるが長石と鬼板が混ざり合った肌は
全体に鼠志野のようにグレーがかりながら、真っ赤に
緋色が発色している。

これだけの鉄分のある土を使って、
これだけの緋色がでるものなのかと感じた。

豊蔵先生の釉がけの手の動きに沿って流れた
細かな梅花皮は雷雨のようで、その合間から
陽が差し込んで来ているようにも見える。
それは激しく穏やかである。

沼尻真一


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ある時、一人の僧が百丈の懐海禅師に尋ねて言うのには、
「如何なるか是れ奇特の事―この世で一番有り難いものは何ですか。
一番貴いものは何ですか」どんな宗教でも、まず一番有り難いものは神であり、
仏と言うであろう。あるいは法と言うであろう。

禅宗ではいったい何が有り難いのか、と。うっかり百丈が仏だの法だのと
答えるならば、ただではすまさんという所存だ。


そこで百丈が答えるのに、「独坐大雄峰―俺が今現に生きて
ここに坐っておることが一番有り難いわい」何と爽快な一句ではないか。

これしかないであろう。めいめいが生きて、そこに坐っておるという
事実以上の有り難いものはない。

金が有り難いか、屋敷が有り難いか、身分が有り難いか。
生きておるから金がいるのだ、生きておるから屋敷がいるのだ、
生きておるから出世も悪くないのだ。

一番大事なのは、今ここに生きておるということだ。
言うならば、釈迦も達磨も、俺が生きておるから苦労されたのだ。

俺が生きておるから太陽が照っておるのだ。

俺が生きておるから空気があるのだ。

丈云く、独坐大雄峰。

俺が今現に生きてここに坐っておることが一番有り難い、と。


《引用:山田無文著『無文全集』》






















徒然草184段 吉田兼好/ぽっぽや 鉄道員 曲:坂本龍一/沼尻真一

 [古文] 184段

相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。
守を入れ申さるる事ありけるに、煤け(すすけ)たる明り障子の破ればかりを、禅尼、
手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょうのすけよしかげ)、
その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男(なにがしおのこ)に張らせ候はん。

さようの事に心得たる者に候ふ」と申されければ
、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、
なほ、一間(ひとま)づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、
遥かにたやすく候ふべし。

斑ら(まだら)に候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、
「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。

物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、
心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。

世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。
天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

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若き人に見習わせるために、あえてこのようにしておくなどという

発想は、今の世で老若男女あまり耳にしたことがない。

男性にしても女性にしても、老若男女

このような人と知己を得たいものである。


これは心持ちからして、すでに意識が違っている。

仮に自分が取り組んでいる事を「若き人に見習わせるために」という

意識や発想になったときには、まったく次元の違う世界に入る

ことになるだろう。


師匠から「若い人にはこうやって教えろ」と言われた一言は、

自分がすでに出来ているのか

出来てなくてもいいから、こんな感じなのかはわからないが、

それも一つの口伝である。

5年後10年後を考えると、夏場のクソ暑いときには

汗が目にしみて「クソじじい」と

思ったことも多々あるが、それもこれも

まるでセピア色の幻想に感じる時がくるだろう。


今日電話で話して

師匠からしてもらったことを、自分がまた次に伝えて

はじめて一人前であり、やっと恩返しができた時だと思う。



沼尻真一




























徒然草32段 吉田兼好作/ 空薫 沼尻真一

[古文] 32段

九月廿日(ながつきはつか)の比(ころ)、ある人に誘はれたてまつりて、
明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、
入り給ひぬ。
荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、
忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、
物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、
月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。
跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。
かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。

その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。

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日本で良いものとは、その「素材の上質さ」にあるように思われる。

例えば、パリで築何百年という石造りの建物でさえも、

この石はどこどこ産で、この苔の生え具合がいいんですという

話は聞いたことがない。

単に石造りなのである。

しかし、以前八幡浜の鳥津さんと伺った小豆島の井上さんが

案内してくれたように、豊臣秀吉の大阪城の石垣は

小豆島から切り出し運び出されたものというように、

その場所が重要となる。

工芸でものづくりをするものにとって、

その素材は、木、粘土、鉄、ガラス、繊維と

様々であるが、素材とは単に原料であって、

感じの良い自然物を選べば、それが直接「素材」で

あることではないだろう。

それは単に「原料」であってまだ「素材」ではない。

つまり原料を人為的に弄くって

意図したものがやっと「素材」になると言うことに気づく。

ここでやっと、作ることがスタートできる。

作品が完成したあかつきには

この素材はもはや空薫のようなものである。



沼尻真一










































徒然草157段 吉田兼好作/蓮は泥より出でて泥に染まらず 周敦頤/沼尻真一

 [古文] 157段

筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。
盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。
心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。

あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。
卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。
仮に、今、この文を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。
これ則ち、触るる所の益なり。
心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、
怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、
覚えずして禅定成るべし。

事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。
強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

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事に触れることによって、たまたま起こるご利益というものが

詠まれている。

ご利益とは神社に願い事をしたものを人知れず

根回しして、神様が与えてくれるものだけではなく、

自らが物やコト、あるいは環境を選択することによって

生まれる「セルフご利益」もあると説かれている。


なるほど人間は場に立ち会えば、おのずとその関連する

思想にふけるものだし

カッコから入ってたとしても、様になってくることさえもある。

つまり相当に人間は環境に対する順応性を持っている

ということだろう。

畳の上で正座をすれば、おのずと背筋が伸びるのも

そのせいだろうし、仏壇に手を合わせてみれば

ふっと気が落ち着く。

いただきますも、ありがとうも、手を合わせているうちに、

本当にありがたくなってくるのもそのせいだろう。


泥に咲く蓮の花が、もし泥の中だからと

自分を嘆いて腐っていれば

あんなに素晴らしい華を咲かせる事はないだろう。



「蓮は泥より出でて泥に染まらず」

周敦頤




池に育てた蓮は毎年お盆にちゃんと咲いてくれる。























F.Chopin:Nocturne No.1 in B flat-minor, Op.9-1 ◆Harmonic Inspiration

 

F.Chopin:Nocturne No.1 in B flat-minor, Op.9-1