1392年から始まり、1910年に終るという長大な朝鮮王朝の歴史のなかで、
陶磁の生産がどのように展開し、盛衰していったかを明晰に跡づけて行くことは、
今日の資料では不十分なところがあり、朝鮮時代の陶磁の歴史は、
まだその全貌をあらわすに至っていない。
しかし、この500年ほどの長大な期間を鳥瞰するとき、
始めは幾つもの流れ(粉青・白磁・白磁象嵌・青花・黒釉・灰釉・泥釉など)が
ある中で、二つの流れ(粉青と白磁)が突出していることが判り、
途中からその流れのうちの一つ(粉青)が途絶えを見せる。
残る一つ(白磁)が最後までいくつかの支流(青花・鉄砂・辰砂)を
ともないながら滔滔と流れ続いているさまが、うかがえるのである。
朝鮮時代の前期を代表するのは、粉青である。
1940年、韓国の美術史家、高裕燮氏によって名づけられた
「粉粧灰青砂器」の略称であり、今日、欧米でも
buncheong(粉青)として慣用化されている。
日本では、俗に三島と総称し、時に三島と刷毛目とに分ける場合もある。
鉄分を含む灰鼠色の胎土で成形し、青磁釉に似た釉薬をかけて高火度で
焼成している点で、高麗青磁の技法をそのまま伝承したものである。
事実、象嵌文様をあらわしたものについては、高麗の象嵌青磁との区別を
つけることは困難であり、今後の研究調査によって、
その編年を改めなければならない可能性もある。
粉青の大部分は、ただ一点、釉下に白泥による化粧がけをほどこし、
そこにさまざまな手法で文様をあらわすことによって、
高麗青磁と一線を劃している。
それにともなって、文様もまた、まったく新しい朝鮮的な
意匠に変貌を遂げているのである。
粉青は、その施文方法によって、次のように分類できる。
1.象嵌(線象嵌・面象嵌・逆象嵌)
2.印花
3.白地(刷毛目・掻落・線刻・鉄絵)
4.粉引
15世紀前半には、司院という官司が陶磁の生産を受け持って居り、
その傘下に、磁器所が139箇所、陶器所が185箇所、合計324箇所の
生産組織があったことが『世宗実録地理志』によってうかがえる。
磁器所と陶器所でそれぞれどのような種類の陶磁を生産していたかについては、
現在諸説があり、はっきりしない。しかし白磁が磁器所の一部で
生産されていたことだけは、間違いないことと思われる。
とくに15世紀の白磁は、中国の白磁の技術を取り入れて
純白の輝くような白磁を作りあげた。
それらは、宮中用、あるいは中国への進貢用に製作されたもので、
『慵斎叢話』という15世紀後半ごろの随筆集にも、「世宗朝(1419?1450)の
御器は、もっぱら白磁を用う」との記述がある。
これら上質の白磁は、139箇所の磁器所のうち、京畿道の広州と慶尚道の
尚州および高霊の3箇所に限られていたが、やがて精良な白磁胎土の
不足を来たし、15世紀の後半には、白磁の民間使用が禁止されるまでに至った。
また、15世紀中ごろから、白磁の釉下に文様を描く青花磁器、
すなわち染付が、広州官窯の一つ、広州郡中部面道馬里などで製作された。
これらの絵付けには、都から画院の画家が派遣されて筆を取ったことが
記録として残っており、それを裏付けるように見事な筆致で梅・竹・松などを描いて
清新の気を漲らせたものが多い。
しかし、いずれも宮中の御用品であり、民間に行きわたるほど
量産されたものではなかった。
16世紀の陶磁生産の状況は、現在まだ十分には判っておらず、
今後さらに詳しい資料が待たれるところである。
1592年、1597年の壬辰の乱、丁酉の乱から1627年、1636年の
丁卯・丙子の乱までのほぼ40年間は、朝鮮時代の歴史のなかでも、
政治・経済・社会・文化など
あらゆる面で停滞を見せた暗黒時代であり、陶磁生産についても
大きな断層を生じた時期である。この時期の前後では、
陶磁の様相が一変してしまうのである。その最大の現象は、
前期に盛んに生産された粉青の消滅である。
そして、この時期以後、白磁が主流を占めることになる。
各地で白磁の窯が興り、粗製の白磁が生産される一方、
官窯は京畿道広州地方に集約されることとなった。
そこでは前期と異なった器形・釉調・文様の白磁と青花がつくりだされた。
とくに青花は、その抑制された寡黙で質実な表現により、
中国陶磁の影響を完全に離れた朝鮮時代独自の美の世界を打ち立てた。
近年、韓国国立中央博物館の鄭良謨氏、尹龍二氏の綿密な調査研究により、
17世紀前半から18世紀に至る広州官窯の実態が明らかにされつつあり、
朝鮮時代中期の陶磁の解明に大きく貢献している。
17世紀にはまた、広州や忠清北道槐山などで、釉下に鉄絵具で文様を
あらわす鉄砂がさかんになり、18世紀に入ると、銅分を含む顔料で
文様をあらわす辰砂が作られたが、辰砂の生産地はいまだに不明である。
1752年、官窯は、京畿道広州郡南終面金沙里から分院里に移設された。
この年以降、1883年に分院里窯が官窯から民窯に移管されるまでを、
朝鮮時代後期と区分している。
分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。
それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、
英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。
とくに、中国からのコバルト顔料の輸入が潤沢になったため、
青花の製作が盛んになったことは注目される。
陶磁の用途も、酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・
はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。
文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。
鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、
陶磁器の工芸品化が進められた。
19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって
国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、
500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。
出典:大阪市立東洋陶磁美術館
粉引(こひき)とは、李氏朝鮮から日本に伝わった陶器のことで
粉吹(こふき)とも呼ばれています。
正確には粉青沙器(ふんせいさき)と呼ばれ、韓国などで
鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、
全体的に灰青色を帯びた陶磁器のことであり、
粉粧灰青沙器の中の一つの技法が粉引きです。
a.. 粉青砂器象嵌文(粉青象嵌)
b.. 粉青砂器印花文(粉青印花)
c.. 粉青砂器彫花文(粉青線刻)
d.. 粉青砂器剥地文(粉青掻落)
e.. 粉青砂器鉄文(粉青鉄絵)
f.. 粉青沙器刷毛目(刷毛目)
g.. 粉青沙器粉引(粉引)
「粉青沙器」とは「粉粧灰青砂器(ふんしょうかいせいさき)」の略称で
日本では古来、「三島」と呼んでいます。その釉胎は末期の
高麗青磁と変わりませんが、地の上に白泥によって様々な
技法による装飾が施され自由闊達な装飾がひとつの特色となっています。
粉青沙器の成立当初は白磁や青花などの代用技法として、
その性格を強く持っていましたが15世紀前半には象嵌青磁の
後ろをなす粉青沙器は朝鮮時代の陶磁の主流となり、
15世紀後半頃からは白磁とともに発展をとげました。
象嵌・印花・掻き落し粉青が流行し端正な様式が展開しました。
15世紀後半に官窯での白磁・青花の本格的な生産が開始すると
印花は徐々に刷毛(はけ)に、掻き落しは線刻に変わり自由闊達な
雰囲気の様式に転じていきます15世紀後半から16世紀前半には、
鉄絵技法が登場しさらにのびのびとして諧謔的な様式がみられます。
16世紀には、粉引(こひき)粉青が民需用の白磁の代用品として
流行しますが、独特の力強い造形をみせます。
このようにユニークな展開をみせる粉青ですが16世紀以後の
白磁の生産の本格化とともに末頃には衰退し消滅しました。
白磁は、朝鮮時代の陶磁の主流として文化の成熟と共に
発展をとげ白色の世界を開花させていきました。
編年資料によれば1480年代を前後して粉青沙器中心から
白磁に変わっていくと見られます粉青沙器では象嵌粉青・
印花粉青から1480年以後に鉄絵粉青(鶏龍山)・
線刻(彫花)粉青・刷毛粉青(刷毛目)にその主流が変わっていきます。
象嵌・印花粉青が胎土・釉薬が精製されているのに比べ鉄絵・刷毛粉青では
胎土に夾雑物が多く混じり釉薬もやはり粗めです。
1963年に全羅南道光州市忠孝洞(チュニョドン)窯址の物原調査が行われ、
この調査によって、層位順に印花粉青から刷毛粉青へ、
さらに白磁に変わっていく様相が確認されました。
この窯出土の印花粉青は末期には夾雑物が混じり
気孔の多い陶器質となっていくことが分かりました。
胎土は刷毛粉青と同一で印花粉青の末期に登場する刷毛粉青は
鉢・皿などがすべて末期の印花粉青の器形や高台の形態に倣うものでした。
また、ほとんどの印花粉青には銘文が刻まれていますが、
刷毛粉青には銘文が全く見られないということから刷毛粉青が
一般庶民の物であったことがわかります。
a.. 14世紀末ころ、衰退しはじめた高麗青磁を母体に製造が始まる。
b.. 白磁に似た表面のため白磁の生産に移行する中で、吸収され衰退した。
c.. 日本では、三島手、刷毛目などの形で存続した。
白磁は今のソウルに近い中央の官窯で主に造られたのに対し、
粉青沙器は、中央から比較的離れた地方官窯で、
あるいは民窯でその地方の特色を生かして自由に造られた。
このことが紋様などに大きく影響しているとされている。
その由来は褐色の素地の上に白化粧土を施した状態が
「粉を引いた(吹いた)ように白い」事からです。
李氏朝鮮当時、王が用いる白い磁器に対しての
憧憬から粉引という技法は生まれました。
わが国では,古くから化粧土には白絵土が良いと
いわれ,陶家では珍重してきました。
白絵土は美濃焼きの故郷である、岐阜県東部及び滋賀県から産出し,
蛙目ガイロメ粘土や木節キブシ粘土に属するカオリンの一種であり,
粘りの少ない白色の粘土で,層状になっています。
自分はすべてそのルーツや成り立ちと自分との関係性において
生まれてくる解釈こそが、その作家の個性でありオリジナル
になってくると思います。
自分はすべて自然な関係性から物事は自然派生するものだと
思っています、つまりは人や材料や伝記などとの縁です。
縁を偶然と考えれば、いくらでも刹那になります。
しかし縁はある運命のような導きになっていると自分は考えます。
自分がなぜ粉引の作品に取り組むのかは
すべて美濃との故人や生人との縁から生まれたものなのです。
李朝から伝わった粉引ですが、それは日本人の見立ての中で
洗練昇華され、まったく別の粉引、唐物から国物として成長しています。
だから国物として派生してきた粉引のルーツが現代に生きる
自分には必要だと考えています。
その時代や空気を生涯写しきれないように、
完璧な李朝の写しが必要ではなく、
自分の歴史観の理解やその陶磁器の精神性の読解から
生まれたものが、自分の作品だと考えています。
ストーリーや背景や歴史というと憧れから、センチメンタルな
安っぽい茶の見立て、例えば、雨漏りがしてるとか、御本など
は縁がないものです。
雨漏りは意図したものではなく、それはやはり結果に過ぎないのです。
雨漏りを珍重するのではなく、雨漏りするまで大切に使い込んだ
使い手を珍重するべきなのです。
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白化粧と粉引というやきものはまったく別なものだと思います。
つまり化粧土をかければすべて粉引なるということではないと
自分は考えています。
白い化粧の問題ではなく、土、白化粧、釉、焼きまで含めて
白化粧の器をつくるのか、粉引をつくるのかでは方向が違うと思います。
だから化粧をかけて白く焼けたから粉引きだ、粉引きだというのも
憚られることでありますでしょうし、作家がそう言ったからと言っても
ギャラリー側もそれをそのまま鵜呑みにして、
これは粉引きです。というのは違うだろうと思います。
あるギャラリーのオーナーが以前は粉引きブームだったんですよ
と言っていましたが、それもどうかと僕はそれを懐疑的に受け止めました。
そのお店の7割はまったくやきものの種類が分からなくても
買う人だそうです。売れることは嬉しいことですが、
やきものの種類を分かって使ってもらう事の意味は
深いと思うので、真剣に作家を支援し、陶器を販売している
ギャラリーでさえも、これでは本当に残念だと感じました。
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今回、僕は粉引の花器を
各出品者がどのような事を考えて制作をしているかというのが、
視聴者に伝わらないのは、もちろん自分の力が及んでいないことも
認めながらも、陶芸展の伝統だと思いますが、もったいないように感じます。
しかし、世界を代表する日本の陶芸が以前よりも盛り上がっているように
思えないところを見ると、以前と同じ方法でただ飾るだけではなく、
どうして、なぜこれを作ったのかというコミュニケーションは
現代で必要なのだろうと僕は思います。
一人ひとりの作家が自分の作品を解説してくれれば一番いいですが、
一人ひとりの作家に、一人ひとりの学芸員が解説を施すという
方法が、時間と費用に余裕があれば、されるのが理想でしょうから
もともとグラフィックデザイナーだから僕は考えるのかもしれませんが、
自分がなぜ作ったのか、どんな事を考えて作っているのかを
紹介できる機会が増えてくると、もっと視聴者とのコミュニケーションが
上がって、陶芸界も盛り上がってくるのではないだろうかと感じます。
静か過ぎても、うるさ過ぎてもいけないでしょうが。
自分は以下のように考え「粉引」を作っています。
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白と黒。
相反する生土どうしが走り、白装束の中に生まれるインヴァージョン。
等伯しかり、古来日本人が見えないものを現すという見立ての中に
現代のエーテル空間が生まれる粉引を自分は求めたいと思います。
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以前七代 加藤幸兵衛先生に言われたとおり、土が決まれば
形が決まると言われた通りです。
これは自分もお世話になった方に指導して頂いた事ですが、
粉引きは、一、焼き、二、土 三、化粧 四、釉薬 だと思います。
内部の土の力を最大限に引き出すためには
やはり還元焼成です。
しかし、良い土、力の強い土を使えば、使うほどに、
白化粧を食いまくる、だから、還元ではなく、酸化焼成すれば、
それでは修行途中で逃げてきた修験者の汚れの付いていない
生ぬるい白装束のようでどうしても、それは逃げにしか感じない。
だから、強い土を還元で焼いて、白く焼き上げるという
相反するやきものが、僕にとっての粉引きだと考えます。
だから今年、美濃陶芸展で一緒に中日奨励賞を受賞され
毎年そして2012年の今年も、日本伝統工芸展で
入選されている堀和蔵先生が、沼尻君これ還元で焼いてるの?
という質問されてきた意味が実に「粉引」がどういうものかを知っている
決着をつける一点質問なので、
自分はさすが、堀先生だと思ったと同時に、
この質問はその背景をすべて知っているプロの質問として嬉しく思いました。
神や仏を信仰できる素直な純白の精神と
白いやきものが古今の憧れであるように、
白の器には作り手の思想や
生き様や美意識が反映されるものだと思います。
沼尻真一