profile
selected entry
categories
links
archives
others

第19回美濃陶芸 庄六賞茶碗展 展示会 ・ 最高賞「庄六賞」受賞 沼尻真一


第19回美濃陶芸 庄六賞茶碗展 展示会 ・ 最高賞「庄六賞」受賞 沼尻真一



■ 展示会
会期 平成24年12月8日(土)〜12月16日(日)10:00〜18:00(最終日は16:00まで)
会場 多治見市産業文化センター・5F大ホール
無料


■ JR名古屋高島屋 展示会
会期 平成25年1月16日(水)〜1月21日(月)
会場 JR名古屋高島屋
無料
















ここが朔望の畔ー大阪法善寺横町・懐石料理「本湖月」ご主人穴見秀生氏/沼尻真一

 

◆ここが朔望の畔ー大阪法善寺横町・懐石料理「本湖月」ご主人穴見秀生氏/沼尻真一
















納屋で生まれたのは、キリストだけじゃない。ブルーノ・タウト/沼尻真一

日本の古典建築というものに、いったい何があるのかと思ったら、
それは「納屋」でしかなかった。
 
実際に日本の農家には、こういう国際的特性を今に
いたるまで保存しているものがある。
かかる農家の輪郭は、特殊の地方的風土にもとづく
差異を度外視するならば、ヨーロッパの諸地方と
著しく類似しているばかりでなく、時には完全に
一致をさえ示している。
 
しかしヨーロッパの建築家の心をとらえたのは、
茶室に用いられている自然木の奇妙な形でもなければ、
時代の匂い(侘び)に対する愛好でもなかった。
 
またはなはなだしく非対称的な形姿でもなければ矮小精緻な
形式でもなく、まして日光廟の浮華を極めた過剰な装飾では
なかった。
 
彼等が日本から学びとったのは、実に
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
の理想化された観念であった、
そして今日といえどもおおむねこれにほかならないのである。
 
田圃のなかに建っているきわめて素朴な藁葺の作事小屋などを
見ると
それはこの国土、この日本の土壌から生い立ったもの、
いわば稲田のなかの農家の結晶であり、この国とその土壌との
力を納めた聖櫃、すなわち真の「神殿」だからである。

ブルーノタウト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
豪華な家や建物に感動することがないので、なぜだろうと思う。
それよりも家の大きさとか豪華さではなく、どのように
暮らしているか、
もっといえばその場所、その家を
あるいはその町で、どう心地よい部分を
「トリミングして住みきっている」かという事に
関心があるし
その住みきっている部分で心地よいと感じるのだと思う。
 
たとえば、イサムノグチ庭園美術館を訪れた際に

先に述べた
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
という感覚を感じた。

もちろんすでに美術館となっているものだから
綺麗なのはあたりまえではあるが、
それを差し引いたとしても、イサムノグチの作品
からも、やはり生前でも同じ空気が
流れていたのだろうと感じずにはいられなかった。
 
掃ききられた土のうえを歩く心地よさ。
 
恐らく、どんなに建物が豪華であっても
このように掃ききられた感覚というものが存在しなくては
清々しさは生まれてこないのだろう。
 
建物+場所+掃き清める
 
という感覚は建物だけでなく
人間の中にも同じものを持てるのだろう。
 
清楚な者、清楚な物が日々無くなっている
今だからこそ
いつも見れるように、感じれるようにしたい思う。


沼尻真一






ブルーノ・タウト、テレンス・コンラン卿のテルマエ・ロマエ/沼尻真一

 
こうして日本人は、西洋よりもはなはだしく、様式の外面的模倣に
狂奔した。

そこで旧来のすぐれた伝統は断絶し、それと共に「質」の概念もまた
消失したのである。昔ながらの伝統に対するすぐれた感情はこれを
拒否したにもかかわらず、日本人は挙がって外国の文物の模倣に
明け暮れた。それは異国的であるが故に、彼らの興味をひいたからで
ある。

私たちは、日本で実に多くの美しいものを見た。しかしこの国の
近代的な発展や、近代的な力の赴く方向を考えると、
日本が何かおそろしい禍に脅かされているような気がしてならない。

1933年〜1935年の来日した
ブルーノ・タウトの日記

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1933年昭和8年の1月にヒトラーがドイツ首相となり、ナチス政権が誕生。
日本は「満州国」が国際連盟で不承認となると、国際連盟を脱退した。
のちの昭和12年日中戦争へと発展していく時代。
昭和8年に日本に亡命したタウトは、日本を旅した
日記の中でこのように記している。


その後は誰もが知っているように、第二次大戦により
日本の主要な大都市は空襲により焼け野原になった。

3.11も甚大な被害により数多くの家屋が失われた。


タウトは料理屋、旅館、住宅などの一部に
茶室的要素を取り入れることは
いかもの(なんちゃって)となると否定的に言っているが、
その元の茶室でさえ、100年という時の美が
刻まれることで初めて、価値をなしてくるのであり、
極論を言えば、新築の茶室でさえも
どれも最初は「なんちゃって」なのではないだろうか。

多湿な日本にあって、木造建築で100年経ってやっと
一人前というサバイバル感覚が日本の
建築物にはあるのだろう。

先日の二期倶楽部の代表の北山さんとの話の中で、
建築や空間が人をつくるという話をさせて頂いた。


それは、日本で初めて二期倶楽部東館のデザインを
テレンス・コンラン卿への依頼をした際に、北山さんが
オーダーした事。

それは部屋から目的の場所へは
常に屋外を通って移動するという事であった。
つまり従来の温泉施設のように、すべて雨風しのげて
館内だけの移動で終始しないというものである。

雨が降っても、雪が降っても
一歩
外に出ることは本当に「覚悟」がいることなのではないだろうか。
ましてそれがひとけの無い暗闇の中であればなおさら。

トイレもお風呂も昔は別棟にあって、しんしんと冷える冬でも
幽霊タイムの丑三つ時でも、
一度、
てめぇの体を戸外に放りださないと、
用がたせない始末となっていた。

平成の世だと言うのに、実は自分の家もいまだに風呂に入るのに、
いちいち外に出なくちゃたどり着かない。

だから雨でも夜でも、たかだかリラックスしたくて風呂に
いくのに、あえて「追いはぎ」や「獣」に襲われはしないかと
いつどこから何が来ても対処できるように
毎晩「覚悟」を決めて風呂に行くこととなる。

もともと日本では神道の風習で、
川や滝で行われた沐浴で
禊(みそぎ)の慣習が風呂に入るという行為になったんだから
文句を言わず、ガンジス川より那智の滝よりましだからと
知識があれば。


あらためて建築が人をつくるという感覚。
つまりそれは環境が人をつくるという事である。

建築、空間、家族、村や町、自然、周りの住民、
学校などなどである。

三つ子の魂百までもだけでなく、
孔子の孟母三遷
虎穴に入らずんば、虎子を得ず、
近墨必緇、近朱必赤
という話がある。

大の大人になっても、年を重ねても、
いつからでも人間は周りに望む環境を
つくる努力、浸す努力をしていく事で
吸収し変化することができるだろう。

人間の器は限られているが、多くのものを
ぶらさげ持ち過ぎているのに気づかず、
自然に見えたとしても、実は自分の思い過ごしの
誤解で、悪影響を持ち続けている場合の方が多い
そのために取捨選択、英断が必要である。

それには良い影響がどういうものか
自分が知っているということが必要だろう。


沼尻真一



















二期倶楽部で朝食を。 北山ひとみさんからリルケもだって/沼尻真一

 
北山ひとみさん

学校の先生、家、近所の変わった人、親戚の変わったおじさんなどなど
世の中は怖いものばかりでした。
 
だから多様性がもう子供の頃から身について。

でもとってもそのおじさんは素敵だった。
私たちが子供の頃、家族の前に
ある日突然現れたかと思えば、舶来の品をお土産に買ってきてくれたりして。

着ているものなんかも、ホントに素敵で。
親戚が集まったときなど
怪訝そうな私をみると、私にばっかりちょっかい出してきて。
それが恥ずかしいやら、ちょっと興味深いやらで。

でも威厳のある父から叱られるとまたプイッといなくなってしまう。
そんな風来坊的な人が、世の中には大勢いた時代がありました。

そんな人が違う文化を持ってきたりしていましたよ。


沼尻

それって、山田洋二監督の映画「母べぇ」の鶴瓶さんみたいですね。

僕は子供の頃、何が怖いって家が怖かったですよ。
暗くて、外の外灯の下で祖父が帰ってくるの待ってました。

北山さん
それリルケも言ってますよ。
 
北山さんにまた一つ教えてもらうことができました。
世の中は狭い門です。
 
 
ライナー・マリア・リルケは、知られているように幼い頃、
自らを女児であることを自ら演出した。そうすることは、
母の願いに叶うことでもあり、リルケが母と深い絆を保つ
最高の手段でもあった。
幾部屋もあって、幼い子供には迷宮のような館に生まれ
育ったリルケ。孤高を保つ祖父と権威を示そうとする祖母、
仕事にかまける父、そして実務にはうとい母。そして使用人たち。

 
誤解されがちであるが、『マルテの手記』は、小説である。
一応、小説のモデルもある。そうと程度にリルケの
思い入れが読み取れそうに思えるし、実際、そうした誘惑に
駆られることもこの「手記」を読むとしばしばである。
われわれは読むうちについ、「リルケの手記」であるかの
ように読んでしまうのだ。
 が、しかし、そんな誤読など、どれほどの非難に値しようか。
リルケ研究の専門家になろうとするわけではないのだから、
思いっきり「リルケの手記」の世界に没入していけばいいのだ。
誤読を恐れてはいけない。実際、安部公房もそのように
読んでいたのではなかったろう。


何一つ見えない暗黒な夜。
何一つ映らない窓。注意深く閉ざされた扉。
昔のままの調度。ただ次々に引渡され、認知されただけで、誰にも理解されたこと
のない部屋の道具類。階段のひっそりした静寂。隣室のもの音もせぬ沈黙。屋
根裏もしんかんと静まり返っている。ああ、子供のころ、このような切ない静
けさを救ってくれたのは、ただ一人僕の母があっただけだ。母やこの静けさを
いつもか弱い自分の身に引受けて、ちっとも怖いことなんかないんだよ、しい
んとしているのはお母さんだからね、と言ってくれたりした。夜ふけの静けさ
におびえきって、息が詰まりそうな子供のために、母は暗闇の中で、自分があ
のしいんとした静けさだと言ってきかせる勇気を持っていたのだ。(p.78-79)









東京大学名誉教授・前東京大学教授・フジテレビ 顧問 山内昌之先生、三味線演奏家・作曲家 本條秀太郎先生/沼尻真一

 

NikiSalon20121014_078済み.jpg
 
郷里茨城県の大先輩である、本條先生の三味線端唄の
演奏を聞かせてもらった。
NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」の作曲も先生の作品である。

民謡や民族音楽の中に、各地の忘れられた文化が伝承していると
日本は一つの国ではなく、他民族国家ということを教えてもらうことができた。

花柳界の中で育ち、伝統芸能を極めた本條先生は、

江戸の粋でいなせという言葉そのものの方だった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






19世紀の詩人オスカーワイルドが、この世の悲劇は2つあると言っている。

「望みが手には入らないことと、手に入ることである。」

世界の冷戦構造が終わったときに、最大の受益者であった
アメリカと日本は意識や構造のシフトが遅れ、
エネルギー問題や環境問題への取り組みが遅れ、
現在の閉塞した状況になっている。

ベンジャミンフランクリンのような偉大なる知恵。
創意工夫そしてその裏に、失われた20年の失意を置くべきである。

国民の強い意志が必要であり、
まった無しの改革を国民は意識するべき、
そして政治家に頼らない方法を探すべきである。

歴史を学ぶこと、遺伝子ルーツや歴史感覚を失い
自分の立ち位置を失っているのが今の日本人である。
それらを知らなければ、今の難局を越えることはできない。

1、国民の公教育の充実、躾を含めて

2、道、橋、光ファイバーなど徹底したインフラの現代化
ロビイストの団体に金は流れて、大事な所に金が行かない。
来年3月の中小企業貸付のこげつきが緊急の社会問題に
なる可能性がある。

3、研究開発への支援
なぜ一番じゃなくていけないのか?なんて
一番になろうとしなけりゃ、2番にもなれないのが現実

4、規制緩和ではなく、規制も必要である

5、人口減に対応した、学術的知識人などの移民の必要性

一にも二にも歴史が重要であり、
歴史感、国家感がまったくないのが、今の日本人の大問題

日本は、明治期に西洋文明を吸収し日本独自の文化として取り入れている

●明治期に西洋文明を吸収した6つの要因
  
1、競争という概念
明治になり、イギリスの文化を日本は取り入れた。
それは自己努力、セルフヘルプ、自力
競争で成果を得ていくことである。

人に頼って生きることは恥ずかしいという概念が日本人に本来あった。

2、科学 
自然を変革することは神の領域に入ることである。
故にあるルールが必要。

イスラムはケミストリーを学ばなかった、すべてが神に宿る。
キリストは聖書を学問で再構成している。
トルコの初代大統領は信仰だけでなく、科学と知識が必要と言っている

3、法の支配
所有法の遵守

4、医学
医学は社会を安定させるための根本である。
森鴎外に学べる

5、消費社会の成立
衣食住

6、明治期にヨーロッパから学んだのは倫理
勤労、節約、倹約、始末、もったいないを尊ぶカルチャーを
子供たちに必要である。


NikiSalon20121014_065済み.jpg

沼尻 
山内先生はイスラムがご専門ですが、
理想的すぎると思いますが、僕はイスラムのような信仰があって、
しかし男女は平等という形、そして日本人として文化のルーツを踏まえた
ライフスタイルをつくる方法についてヒントがあれば教えてください。

本條先生
それは暦だと思います。
太陽暦ではなくて、太陰暦つまり月のほう。


NikiSalon20121014_056.jpg


山内先生
僕も暦は賛成です。
節句の観念。節分ゆず湯など謂れを知っていく事が非常に重要。
いくつかの本を提案しますので、それを読めば大体の日本が
掴めるので、読んでみてください。

NikiSalon20121014_079済み.jpg



 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi






















白い器・粉引の器/沼尻真一

 
 
1392年から始まり、1910年に終るという長大な朝鮮王朝の歴史のなかで、
陶磁の生産がどのように展開し、盛衰していったかを明晰に跡づけて行くことは、
今日の資料では不十分なところがあり、朝鮮時代の陶磁の歴史は、
まだその全貌をあらわすに至っていない。
 
しかし、この500年ほどの長大な期間を鳥瞰するとき、
始めは幾つもの流れ(粉青・白磁・白磁象嵌・青花・黒釉・灰釉・泥釉など)が
ある中で、二つの流れ(粉青と白磁)が突出していることが判り、
途中からその流れのうちの一つ(粉青)が途絶えを見せる。
 
残る一つ(白磁)が最後までいくつかの支流(青花・鉄砂・辰砂)を
ともないながら滔滔と流れ続いているさまが、うかがえるのである。

朝鮮時代の前期を代表するのは、粉青である。

1940年、韓国の美術史家、高裕燮氏によって名づけられた
「粉粧灰青砂器」の略称であり、今日、欧米でも
 buncheong(粉青)として慣用化されている。

日本では、俗に三島と総称し、時に三島と刷毛目とに分ける場合もある。
鉄分を含む灰鼠色の胎土で成形し、青磁釉に似た釉薬をかけて高火度で
焼成している点で、高麗青磁の技法をそのまま伝承したものである。
 
事実、象嵌文様をあらわしたものについては、高麗の象嵌青磁との区別を
つけることは困難であり、今後の研究調査によって、
その編年を改めなければならない可能性もある。
 
粉青の大部分は、ただ一点、釉下に白泥による化粧がけをほどこし、
そこにさまざまな手法で文様をあらわすことによって、
高麗青磁と一線を劃している。
 
それにともなって、文様もまた、まったく新しい朝鮮的な
意匠に変貌を遂げているのである。
粉青は、その施文方法によって、次のように分類できる。

  1.象嵌(線象嵌・面象嵌・逆象嵌)
  2.印花
  3.白地(刷毛目・掻落・線刻・鉄絵)
  4.粉引

15世紀前半には、司院という官司が陶磁の生産を受け持って居り、
その傘下に、磁器所が139箇所、陶器所が185箇所、合計324箇所の
生産組織があったことが『世宗実録地理志』によってうかがえる。
磁器所と陶器所でそれぞれどのような種類の陶磁を生産していたかについては、
現在諸説があり、はっきりしない。しかし白磁が磁器所の一部で
生産されていたことだけは、間違いないことと思われる。

とくに15世紀の白磁は、中国の白磁の技術を取り入れて
純白の輝くような白磁を作りあげた。
それらは、宮中用、あるいは中国への進貢用に製作されたもので、
『慵斎叢話』という15世紀後半ごろの随筆集にも、「世宗朝(1419?1450)の
御器は、もっぱら白磁を用う」との記述がある。
これら上質の白磁は、139箇所の磁器所のうち、京畿道の広州と慶尚道の
尚州および高霊の3箇所に限られていたが、やがて精良な白磁胎土の
不足を来たし、15世紀の後半には、白磁の民間使用が禁止されるまでに至った。
 
また、15世紀中ごろから、白磁の釉下に文様を描く青花磁器、
すなわち染付が、広州官窯の一つ、広州郡中部面道馬里などで製作された。
これらの絵付けには、都から画院の画家が派遣されて筆を取ったことが
記録として残っており、それを裏付けるように見事な筆致で梅・竹・松などを描いて
清新の気を漲らせたものが多い。
しかし、いずれも宮中の御用品であり、民間に行きわたるほど
量産されたものではなかった。

16世紀の陶磁生産の状況は、現在まだ十分には判っておらず、
今後さらに詳しい資料が待たれるところである。

1592年、1597年の壬辰の乱、丁酉の乱から1627年、1636年の
丁卯・丙子の乱までのほぼ40年間は、朝鮮時代の歴史のなかでも、
政治・経済・社会・文化など
あらゆる面で停滞を見せた暗黒時代であり、陶磁生産についても
大きな断層を生じた時期である。この時期の前後では、
陶磁の様相が一変してしまうのである。その最大の現象は、
前期に盛んに生産された粉青の消滅である。



そして、この時期以後、白磁が主流を占めることになる。
各地で白磁の窯が興り、粗製の白磁が生産される一方、
官窯は京畿道広州地方に集約されることとなった。
そこでは前期と異なった器形・釉調・文様の白磁と青花がつくりだされた。
とくに青花は、その抑制された寡黙で質実な表現により、
中国陶磁の影響を完全に離れた朝鮮時代独自の美の世界を打ち立てた。
近年、韓国国立中央博物館の鄭良謨氏、尹龍二氏の綿密な調査研究により、
17世紀前半から18世紀に至る広州官窯の実態が明らかにされつつあり、
朝鮮時代中期の陶磁の解明に大きく貢献している。
 
17世紀にはまた、広州や忠清北道槐山などで、釉下に鉄絵具で文様を
あらわす鉄砂がさかんになり、18世紀に入ると、銅分を含む顔料で
文様をあらわす辰砂が作られたが、辰砂の生産地はいまだに不明である。

1752年、官窯は、京畿道広州郡南終面金沙里から分院里に移設された。
この年以降、1883年に分院里窯が官窯から民窯に移管されるまでを、
朝鮮時代後期と区分している。
分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。
それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、
英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。
とくに、中国からのコバルト顔料の輸入が潤沢になったため、
青花の製作が盛んになったことは注目される。
 
陶磁の用途も、酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・
はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。
文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。
鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、
陶磁器の工芸品化が進められた。
19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって
国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、
500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。

出典:大阪市立東洋陶磁美術館


粉引(こひき)とは、李氏朝鮮から日本に伝わった陶器のことで
粉吹(こふき)とも呼ばれています。

正確には粉青沙器(ふんせいさき)と呼ばれ、韓国などで
鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、
全体的に灰青色を帯びた陶磁器のことであり、
粉粧灰青沙器の中の一つの技法が粉引きです。

  a.. 粉青砂器象嵌文(粉青象嵌)
  b.. 粉青砂器印花文(粉青印花)
  c.. 粉青砂器彫花文(粉青線刻)
  d.. 粉青砂器剥地文(粉青掻落)
  e.. 粉青砂器鉄文(粉青鉄絵)
  f.. 粉青沙器刷毛目(刷毛目)
  g.. 粉青沙器粉引(粉引)

「粉青沙器」とは「粉粧灰青砂器(ふんしょうかいせいさき)」の略称で
日本では古来、「三島」と呼んでいます。その釉胎は末期の
高麗青磁と変わりませんが、地の上に白泥によって様々な
技法による装飾が施され自由闊達な装飾がひとつの特色となっています。

粉青沙器の成立当初は白磁や青花などの代用技法として、
その性格を強く持っていましたが15世紀前半には象嵌青磁の
後ろをなす粉青沙器は朝鮮時代の陶磁の主流となり、
15世紀後半頃からは白磁とともに発展をとげました。
象嵌・印花・掻き落し粉青が流行し端正な様式が展開しました。

15世紀後半に官窯での白磁・青花の本格的な生産が開始すると
印花は徐々に刷毛(はけ)に、掻き落しは線刻に変わり自由闊達な
雰囲気の様式に転じていきます15世紀後半から16世紀前半には、
鉄絵技法が登場しさらにのびのびとして諧謔的な様式がみられます。

16世紀には、粉引(こひき)粉青が民需用の白磁の代用品として
流行しますが、独特の力強い造形をみせます。

 このようにユニークな展開をみせる粉青ですが16世紀以後の
白磁の生産の本格化とともに末頃には衰退し消滅しました。
白磁は、朝鮮時代の陶磁の主流として文化の成熟と共に
発展をとげ白色の世界を開花させていきました。

編年資料によれば1480年代を前後して粉青沙器中心から
白磁に変わっていくと見られます粉青沙器では象嵌粉青・
印花粉青から1480年以後に鉄絵粉青(鶏龍山)・
線刻(彫花)粉青・刷毛粉青(刷毛目)にその主流が変わっていきます。

象嵌・印花粉青が胎土・釉薬が精製されているのに比べ鉄絵・刷毛粉青では
胎土に夾雑物が多く混じり釉薬もやはり粗めです。

1963年に全羅南道光州市忠孝洞(チュニョドン)窯址の物原調査が行われ、
この調査によって、層位順に印花粉青から刷毛粉青へ、
さらに白磁に変わっていく様相が確認されました。

この窯出土の印花粉青は末期には夾雑物が混じり
気孔の多い陶器質となっていくことが分かりました。
胎土は刷毛粉青と同一で印花粉青の末期に登場する刷毛粉青は
鉢・皿などがすべて末期の印花粉青の器形や高台の形態に倣うものでした。

また、ほとんどの印花粉青には銘文が刻まれていますが、
刷毛粉青には銘文が全く見られないということから刷毛粉青が
一般庶民の物であったことがわかります。

  a.. 14世紀末ころ、衰退しはじめた高麗青磁を母体に製造が始まる。
  b.. 白磁に似た表面のため白磁の生産に移行する中で、吸収され衰退した。
  c.. 日本では、三島手、刷毛目などの形で存続した。

白磁は今のソウルに近い中央の官窯で主に造られたのに対し、
粉青沙器は、中央から比較的離れた地方官窯で、
あるいは民窯でその地方の特色を生かして自由に造られた。
このことが紋様などに大きく影響しているとされている。

その由来は褐色の素地の上に白化粧土を施した状態が
「粉を引いた(吹いた)ように白い」事からです。

李氏朝鮮当時、王が用いる白い磁器に対しての
憧憬から粉引という技法は生まれました。

わが国では,古くから化粧土には白絵土が良いと
いわれ,陶家では珍重してきました。

白絵土は美濃焼きの故郷である、岐阜県東部及び滋賀県から産出し,
蛙目ガイロメ粘土や木節キブシ粘土に属するカオリンの一種であり,
粘りの少ない白色の粘土で,層状になっています。

自分はすべてそのルーツや成り立ちと自分との関係性において
生まれてくる解釈こそが、その作家の個性でありオリジナル
になってくると思います。

自分はすべて自然な関係性から物事は自然派生するものだと
思っています、つまりは人や材料や伝記などとの縁です。
縁を偶然と考えれば、いくらでも刹那になります。
しかし縁はある運命のような導きになっていると自分は考えます。

自分がなぜ粉引の作品に取り組むのかは
すべて美濃との故人や生人との縁から生まれたものなのです。

李朝から伝わった粉引ですが、それは日本人の見立ての中で
洗練昇華され、まったく別の粉引、唐物から国物として成長しています。

だから国物として派生してきた粉引のルーツが現代に生きる
自分には必要だと考えています。

その時代や空気を生涯写しきれないように、
完璧な李朝の写しが必要ではなく、
自分の歴史観の理解やその陶磁器の精神性の読解から
生まれたものが、自分の作品だと考えています。
 
ストーリーや背景や歴史というと憧れから、センチメンタルな
安っぽい茶の見立て、例えば、雨漏りがしてるとか、御本など
は縁がないものです。
 
雨漏りは意図したものではなく、それはやはり結果に過ぎないのです。
 
雨漏りを珍重するのではなく、雨漏りするまで大切に使い込んだ
使い手を珍重するべきなのです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

白化粧と粉引というやきものはまったく別なものだと思います。
つまり化粧土をかければすべて粉引なるということではないと
自分は考えています。

白い化粧の問題ではなく、土、白化粧、釉、焼きまで含めて
白化粧の器をつくるのか、粉引をつくるのかでは方向が違うと思います。
 
だから化粧をかけて白く焼けたから粉引きだ、粉引きだというのも
憚られることでありますでしょうし、作家がそう言ったからと言っても
ギャラリー側もそれをそのまま鵜呑みにして、
これは粉引きです。というのは違うだろうと思います。
 
あるギャラリーのオーナーが以前は粉引きブームだったんですよ
と言っていましたが、それもどうかと僕はそれを懐疑的に受け止めました。
 
そのお店の7割はまったくやきものの種類が分からなくても
買う人だそうです。売れることは嬉しいことですが、
やきものの種類を分かって使ってもらう事の意味は
深いと思うので、真剣に作家を支援し、陶器を販売している
ギャラリーでさえも、これでは本当に残念だと感じました。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


粉引きイメージ2012のコピー3.jpg


今回、僕は粉引の花器を
MINO CERAMICS NOW2012で出品させて頂いたのですが、
各出品者がどのような事を考えて制作をしているかというのが、
視聴者に伝わらないのは、もちろん自分の力が及んでいないことも
認めながらも、陶芸展の伝統だと思いますが、もったいないように感じます。
 
しかし、世界を代表する日本の陶芸が以前よりも盛り上がっているように
思えないところを見ると、以前と同じ方法でただ飾るだけではなく、
どうして、なぜこれを作ったのかというコミュニケーションは
現代で必要なのだろうと僕は思います。
 
一人ひとりの作家が自分の作品を解説してくれれば一番いいですが、
一人ひとりの作家に、一人ひとりの学芸員が解説を施すという
方法が、時間と費用に余裕があれば、されるのが理想でしょうから
もともとグラフィックデザイナーだから僕は考えるのかもしれませんが、
自分がなぜ作ったのか、どんな事を考えて作っているのかを
紹介できる機会が増えてくると、もっと視聴者とのコミュニケーションが
上がって、陶芸界も盛り上がってくるのではないだろうかと感じます。
 
静か過ぎても、うるさ過ぎてもいけないでしょうが。
 
 
 
自分は以下のように考え「粉引」を作っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 

 
白と黒。


相反する生土どうしが走り、白装束の中に生まれるインヴァージョン。


等伯しかり、古来日本人が見えないものを現すという見立ての中に


現代のエーテル空間が生まれる粉引を自分は求めたいと思います。
 




 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
以前七代 加藤幸兵衛先生に言われたとおり、土が決まれば
形が決まると言われた通りです。
 
これは自分もお世話になった方に指導して頂いた事ですが、
粉引きは、一、焼き、二、土 三、化粧 四、釉薬 だと思います。
 
内部の土の力を最大限に引き出すためには
やはり還元焼成です。
しかし、良い土、力の強い土を使えば、使うほどに、
白化粧を食いまくる、だから、還元ではなく、酸化焼成すれば、
それでは修行途中で逃げてきた修験者の汚れの付いていない
生ぬるい白装束のようでどうしても、それは逃げにしか感じない。
 
だから、強い土を還元で焼いて、白く焼き上げるという
相反するやきものが、僕にとっての粉引きだと考えます。
 
だから今年、美濃陶芸展で一緒に中日奨励賞を受賞され
毎年そして2012年の今年も、日本伝統工芸展で
入選されている堀和蔵先生が、沼尻君これ還元で焼いてるの?
という質問されてきた意味が実に「粉引」がどういうものかを知っている
決着をつける一点質問なので、
自分はさすが、堀先生だと思ったと同時に、
この質問はその背景をすべて知っているプロの質問として嬉しく思いました。


神や仏を信仰できる素直な純白の精神と
白いやきものが古今の憧れであるように、
白の器には作り手の思想や
生き様や美意識が反映されるものだと思います。


沼尻真一


























 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

ああ 何もかもみんな透明だ。象の手紙だから/沼尻真一



ああ 何もかもみんな透明だ。象の手紙だから
 
 
信仰心のある日本人にとって
檀家の住職や初詣の神主と一生のうちに、
三度と会わないのはこの国の不幸です。
 
だから、毎週日曜日に説法されるキリスト教や
あるいは、信者を熱心に獲得しようとする
新興宗教の方がわかりやすくよほど救われるのでしょう。
 
立派な坊さんが山に何年修行してもらっても
一向に人々は心療内科や精神科に通うばかりです。
 
信仰とは日常の暮らし生活を導くことであり、
ちょっと曲がったり、
ちょっと落ちたり
上がったりしたものを、
誰かがちょっと
修正してくれて、
そしてまた次の一週間過ごしてみる。
というような、
生涯の臨床実験ではないでしょうか。
 
日本には暦があって、
農業つまり稲作を中心として生きてきた日本人は
暦とともに生活がありました。
 
黙って生きていても、作物を作るわけですから
天候が毎日気になるし、天候でスケジュールを
決めるわけです。
 
つまり自然の道理と一緒であり、
もっと言えばそれはゲーテや
シュタイナーのように宇宙の道理と一緒なんです。
 
だから人間も植物であると言っている事は
よくわかるんです。
 
しかし、冷暖房完備のオフィスからマンションに帰って来て
フィットネスクラブに通っても、それは生活のどこにも
実は自然が入っていないんです。
それはスーパーで買ってきた地元の野菜ぐらいが
自然な毎日という事になるわけです。
 
またはたまの休日に公園や、キャンプに行っても、それは
日常ではないんです。
 
たいせつなのは、いかに日常の生活に自然を
取り入れられるかなのだと思います。
家の中に自然を取り込むのは、土間がたとえ
しつらえてあったとしてもそれは容易な事では
ないと思います。
日本は季節に合わせて、二十四節気という暦に合わせて
家の中と外、体の中と外の調整を行って来ました。
 
米や作物を用いて、ハレとケのように
収穫を祝い宴を開いたり、あるいは部屋の中の
雰囲気を気分を変えて、
仏壇や神棚も一緒に信仰を続けて来た歴史があります。
 
自分は大正生まれの祖父母に育てられたのですが、
祖母はよく縁側で、布団を縫っていました。
布団って家でつくれるのかなんて疑問も
まったく持ちませんでした。
 
しかし祖母の作ってくれた貝巻き布団は、肩を冷やす事が
なくて、築100年の隙間風が入るような家でも
温かく寝ることができました。
 
ちょうど今頃からの
霜が降りそうな晩秋には、収穫して干した
藁を使って、祖父が庭や水道管の霜よけのために
ムシロを太く大きな手で編んでいました。

冬になる前に蔵の前の裏庭の通路にはそのムシロが
引かれて、冬になればちゃんとそのムシロの下に
霜柱がたって足元を守ってくれました。
つたない記憶はこのぐらいですが、
いつから、誰から、まったく今のような時代になったのかは
誰もわからないでしょう。
 
江戸幕府が悪いとか、明治維新が悪いとか、
戦争で負けた人が悪いとか、
高度経済成長が悪いとか
バブルが悪い、インターネット、携帯が
地震が悪い、親が悪い
といっても仕方がないです。
 
しかし、自然や二十四節気や信仰、ものづくりには
医療費だけが気になる悪徳な医者に
間違った精神の診断書を書かれる前に
現代の生活スタイルの中でも、できるパッケージが
あるでしょう。
 
この国の働くスタイルが稲作からサービス業に
なっても、やっぱり水が豊富しかし多湿な
この国で気持ちよく生きるための術だけは
人間の給料のもらい方の変化には、まったく関係
なく普遍なんだと思います。
 
その普遍が実は根底にあるのに、エアコンや車
インターネットで抵抗しても、やっぱり人間は植物だから
人間の心と体がまったくそこまでは順応していません。
 
天然物を養殖してもうまくいかないように、
太平洋やアフリカでとっ捕まえてきた生き物が
水族館や動物園で、まったく不健康そうな虚ろな眼で
こっちを睨んでいて、その虚しさが実は日々の自分の姿の
ように見えてくる心地悪さ。
 
だからこのギャップをどう埋めて行けるかが、
実はこの国の自然の中に住むための
心地よさにつながるのだろうと自分は考えます。


沼尻真一
 
 
 
 
 
 
 

農業と芸術という遠距離恋愛だから、・・・ 宮沢賢治・羅須地人協会/沼尻真一

農業と芸術という遠距離恋愛だから、・・・



若者が集い、私塾のようになった集まりを
賢治は「羅須地人協会」と命名し、ジョン・ラスキンの
聖ジョージ組合のように
 
・自ら耕し
・学習し
・芸術を楽しむ
 
という共同組織を目指した。
 
科学や農業技術、エスペラントを教え
農民芸術を説く。
 
また農民楽団の結成を考え、楽器を買って
合奏の練習を始め、自らオルガンとチェロを担当した。
 
--------------------------------------------------------------------
 
戦後は高校なんてまともに行けて学べるもんじゃないから、
どこの街にも私塾や若者が集い学べる場所があったという。
 
花嫁修業も、花婿修行もそこで行われ、
知識としての教育よりも、

芸術でも、知識でも
すべて即、日常の生活の中に取り入れられるような
学びの場だったという。
 
それは、親や他の誰かから
与えられたものではなく、

自分から
知識や社会、世の中、世界に飢えて、飢えて
学びに行こうとするのだから、何よりも身につく。
 
ハングリーとか一生懸命なんて
言葉が軽すぎるほど、一人ひとりが真剣で
深刻だったのだろう。
 
農業と芸術という、遠距離恋愛を
一つにまとめる賢治の創造性は、
実は
 
「食って生きて、そして楽しむ暮らし方」
 
という最もシンプルな生活ができるという事になる。
 
これは1926年大正15年昭和元年の話であって、

いまの
平成24年では
食うや食わずの農民はまわりに誰もいない。
 
学びたくなくても、親が勝手に大金を出して、
珍しい高校や大学に行かせてくれて、
何となく楽しく終わる。
 
何となく就職して、何となく辞めても生きれる。
 
そして誰も困っていない
 
という今にも

しかし賢治の「羅須地人協会」はあったらよい。

 
その学習とは、
数学や国語ではなく、
美しい生き様であり
 
その芸術とは
巨大なものではなく
美しく手で持てるものであり
 
自分が食べる分を
自ら鍬を持って耕し、
種をまくことができるという事だろう
 
もう10年近く前に賢治の話から
岩手に実際に足を運んでくれた友人を思い出した。


そこはパリから、ニューヨークから、ロンドンから
来てもらってちょうど良いようにするといい。




































「日本的モダニズムの創出はいかに可能か 」伊藤 俊治(美術史・東京藝術大学教授) × 柏木 博(美学美術史・武蔵野美術大学教授)× 新見隆(キュレーター・武蔵野美術大学教授)

「日本的モダニズムの創出はいかに可能か 」伊藤 俊治(美術史・東京藝術大学教授) × 柏木 博(美学美術史・武蔵野美術大学教授)× 新見隆(キュレーター・武蔵野美術大学教授)