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建築家 山本理顕先生 横浜国立大学大学院客員教授 ×建築家 難波和彦先生東京大学 教授×社会学 山本哲士先生東京藝術大学客員教授 311後の日本




311後の日本
 建築家 山本理顕先生 横浜国立大学大学院客員教授
×建築家 難波和彦先生東京大学 教授×社会学 山本哲士先生東京藝術大学客員教授
 

She turned off the lights so she could enjoy the moonlight.



少し前まで元気だったのに、
今日また異郷の地でお世話になった方の訃報が入った。

どこかの本に書いてあったように「別れを知れば、人生は長いようで短い。」

だから自分も時を、一瞬を大切にしたい。


 http://www.youtube.com/watch?v=BMPC6C1e-EQ



















施釉陶器の歴史 − 沼尻真一


施釉陶器の歴史


瀬戸・美濃は中世窯業における中心地の一つであり、
中世で唯一、施釉陶器を生産した窯として特筆される。
瀬戸における陶器生産の始まりについては、
猿投窯や山茶碗窯を基礎にして12世紀に確立したと考えられている。

瀬戸ではそれまでの灰釉に加え、鉄釉や褐釉を用い、
印花文・劃花文・貼花文などの装飾技法を駆使しながら、
北宋から元・明にかけての青磁(龍泉窯系)と白磁・青白磁(景徳鎮窯系)を
中心とした中国陶磁の写しを盛んに行った。

瀬戸窯の製品は、日常生活用具から仏器まで多彩であり、
四耳壺・瓶子・水注などの

高級器皿も13世紀以降焼かれ、
輸入中国陶磁とともに富裕階級の需要に応えた。

また、鎌倉時代後期から室町時代にかけての「茶の湯」の勃興と
その唐物趣味を背景に、

14世紀からは中国陶磁写しの天目茶碗や茶入などの茶陶も
つくられるようになった。

15世紀になると、瀬戸系施釉陶器の生産の中心は岐阜県の
東美濃に移った。
 
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やきもの好きな人でも分かりづらい部分に釉薬がある。

九谷、有田、唐津、備前、常滑などなど日本の窯業産地を歩いてみると
美濃がいかに「釉薬」が発達している場所なのかという事を実感する。

それは上記の通り、美濃が中世で唯一の施釉陶器を生産した地で
あったという歴史的背景が理由である。

現代では、日本中どこにいても、どこの土でも釉薬でも
市販のものは手に入れられる時代だから、
今や笠間に行っても黄瀬戸があったりして、どこの産地にいっても
施釉陶磁器が売っているので、どこが特別な場所なのかなんて
分かりにくいのは当然だと思う。

しかし、瀬戸や美濃は本当によく釉薬研究が進んでいる場所なのである。
それは日本一の釉薬の知識を持った指導者がちゃんといる点からも
それがこの美濃の陶磁器の歴史そのものなのだと思う。

どこの産地にいっても、織部、黄瀬戸、志野、瀬戸黒など
4つも代表的な陶磁器を持っている産地なんて
確かに日本中どこにもない。

それが上絵ではなく、釉薬をコントロールして産み出すという
難易度に挑んできた歴史がすばらしい。
故に、薪窯から重油、灯油、ガス、電気、マイクロ波窯と
美濃には全ての窯があるのだ。
薪から灰被りだけが目的ではなく、
あくまで自分の作りたいイメージをどの手段で、つまりどの窯を
操作して、釉薬を完全にコントロールしてそこにたどり着くのかを
良しとしていると思う。

だから作品としての結果が全てであり、
なんでもかんでも灰被りの薪窯がいいんだ、なんて
考えていないのが美濃焼きルネッサンスなんだろう。
 



産地のルーツに根ざした表現があるやきものだからこそ、
窯元めぐりや産地めぐりをしてくれるファンがいるのだから
その産地だからこその表現がなくてはならないのだと思う。
 
自分が使っていたお茶碗の記憶は誰にでもあると思うが、
中学生になったら祖父が石川県に出張に行った際に
お土産で買ってきた九谷焼きの茶碗がいきなり
自分の茶碗になった。

それまでは笠間や益子あたりの地味で素朴な自分の茶碗が、
一気に絢爛豪華な茶碗になった。
 
いったいこんな豪華な茶碗をつくるような石川県という
場所はどんな所なのだろうと、中学生の頃から
思いを馳せていた。
 
芸事を重んじた、加賀百万石の城下町に、
九谷焼きの雅な上絵が生まれるにふさわしい雰囲気が
石川金沢にはちゃんとある。











JUGEMテーマ:アート・デザイン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
















 

「ハレとケ」遠野物語:日本民族学の祖 柳田國男 / 沼尻真一

ハレとケ

ハレは儀礼や祝祭、年中行事など非日常の時空間、節目折目である。

ケは日常の時空間、普段の生活、日々繰り返される暮らしである。

ケの連続の中にまれにハレが現れることにより、人に昂奮がもたらされ、

生活に区切りがつき、暮らしにリズムが生まれる。

柳田は、ハレとケの循環の暮らしの中に稲作を基盤とする
生活があったと言っている。

人々は米の生産サイクルが順調に進むことを祈り、
それに感謝を表すために、

お盆、正月、祭礼など節目となるハレの日に赤飯、おせち、餅など

作り方まで特別なものを用意した。

手間をかけて神霊にささげる特別な食べ物を作り、これを共に
食すことで神霊と交わる。
そして酒を飲み、とっておきの晴れ着をまとう。


この柳田がハレとケに日本の精神文化を見出したが、
その後は、西洋にも似たような文化があると示している。

宗教学者ミルチャ・エリアーが「聖と俗」のなかで
「日常的な生活が営まれている俗なる時間は、聖なる時間によって中断される」
と説いている。


柳田の関心事は、近代がもたらした社会の歪みにあったようで、
明治以降庶民の生活が変容し、かつてはハレのものだったが日常化し、
まれに出現するからこそ意義のある昂奮というものが軽くみられるように
なったと強調している。

食事でいえば、温かいもの、やわらかいもの、甘いものが多くなった。
酒も日常化する、衣服は興奮を誘う天然の色彩を日常的にまとう
ようになる。

つまり、ハレの日常化、陳腐化。

資本主義の世の中が到来し、大量生産される商品が世の中にあふれ出し、
人々の消費の欲を刺激するようになり、酒で興奮をうながす必要のない
「毎日が晴れ」の状態となった。

平成の世は、明治の比ではない。
農耕に起因する年中行事はなくなり、人生の通過儀礼もなくなった。

柳田國男「遠野物語」より

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郷里茨城県の布川(現:利根町)に柳田國男は
 13歳から3年間の思春期を過ごしている。


明治維新の時代に入ると、市長村合併「神仏分離令」が出され
寺院、仏具、経文などが破壊され、明治38年には
「神社合祀令」で神社が一村一社に統合され
多くの神社が破壊されてしまいました。

神様がいなくなり、ふるさとが消えていった時代。

同じ事が平成の大合併でも繰り返され
1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、
2010年3月末の時点で、市町村の数は1,727にまで減少しました。

その辺りで、作家の大崎さんと自由が丘の喫茶店で
お会いした時にまったく同じお話をしました。

つまり平成の大合併をすることにより、それまでの
街の中心が変わるんですよ。
街の中心が変われば、住む人は皆そっちを向きます。

だから今まで、村で大切にしてきた神社も
振り向かなくなってしまい、荒れ放題なんですよ。

そして、誰も合併した大きな町に愛着が湧かないんですよ。
つまり「ふるさと」と思えない人がたくさん出てきてしまうんです。

平成の大合併なんて、ひどいもんですよ。
日本がこれからおかしくなる。

こう見てくると別に明治維新が特別なわけではなく、
平成の政府もまったく、庶民を管理監督しやすくしたいというのは同じである。

あれからもう10年以上が過ぎるけど、
「ふるさと」どころか
どこの町にいってもまったく同じ町並みだから、
日本という国にいるという感覚まで麻痺してきているようだから、
ちゃんと日本はおかしくなりました。

離婚と同じように、やっぱり
やってみたけど合併解消して、
元の市町村に戻そうなんて運動が
起こらないのが、
従順な日本人の感覚なのでしょう。


法律的には合併解消は相当困難なようですが、解消した町が日本にはあるようです。


そんな思想や信念のある
政治家や議員がいないのも問題なんだろう。

平成の大合併をしなかった街は
日本には意外に多くあって、

そんな
交付金や補助金よりも街の文化を守ろう!

あるいはこんな文化の違う
争ってきた街と合併できるか
なんて気概も、素晴らしいと思う!

未来の子供達に何とかしようと思うなら、
元の市町村に戻す方がよっぽど、
未来の子供達の為ではないだろうか。


結局、合併した新しい町では

合併する前のそれぞれの古い町の歴史や

文化を継承することはできないんです。

それが残念です。



明治維新後、
欧米の価値観のものまねから始まった「毎日が晴れ」

「毎日が晴れ」この韻を聞くだけで、自分は
「毎日お笑い」「毎日エロカワ」のように
聞こえてきて虫唾が走るし、
馬鹿っぽいなと思います。

自分の家の中でエロカワなんて言ってたら
大事件です。

それにそんなキャッチコピーの芸能人ほど
何もなかったように、しおらしいママタレに
なっていたりします。

いつも騙され踊らされてるのは視聴者だけなんです。


どんなに金があっても毎日満腹だったら、
より強い刺激を求める結果になります。

結局は日常の暮らしの中に十分にハレを作ることが
本来はできるはずなのに、
今や「毎日が晴れ」だから、どこへ向かうかといえば、外に出て不特定多数の男女相手に
より強い刺激がどこかにないか
彷徨う人間が大勢出てくるという状況になります。

米の収穫もまったく関係ない、
金で心と体を売る
第三次産業全盛で生きている時代に
暮らしの中にハレを作れるわけがないだろう。と
言われるのは眼に見えていますが、
つくれると自分は思います。

明治:ハレとケ

平成, 毎日がハレ→ハレと欠け

つまり

「ハレと欠け」だと自分は思います。

「欠け」を自らあえて作り出さなければ、
半日のスタバやテレビで誰もが
心が満タン、毎日がハレという
「他人の人生を80年歩む」ことになります。

その欠けを、それぞれが何とするかが
3.11以降の日本人の価値観
日本人の精神文化として重要なのだと自分は思います。

 
沼尻真一

 


沼尻真一INDEX



 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi



◆311以後の暮らし方! 建築家 山本理顕先生 難波和彦先生 社会学 山本哲士先生/沼尻真一


◆第19回 美濃陶芸 庄六賞茶碗展 最高賞 「庄六賞」 受賞・沼尻真一


◆Legend of 311 − 「真理」 沼尻真一


◆つくばハーブ農園/沼尻真一


◆スイカ栽培のコツ/沼尻真一


◆京都祇園祭 沼尻真一


◆前略、瀬戸内から/沼尻真一


◆三ツ星シェフと畑に行こう!/沼尻真一

 

 

◆織田有楽斎の茶の湯・国宝茶室「如庵」・京都正伝永源院での茶事/沼尻真一

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


Johannes Brahms:Intermezzo Op.118-2

 





Johannes Brahms:Intermezzo Op.118-2











ここが朔望の畔ー大阪法善寺横町・懐石料理「本湖月」ご主人穴見秀生氏/沼尻真一

 


加藤三英先生の大阪高島屋の個展をお祝いで
本湖月のご主人・料理人の穴見秀生さんを伺った。

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■北大路魯山人の一閑張日月椀(いっかんばりじつげつわん)十客


魯山人の一閑張日月椀で食す。

穴見さんが修行時代から憧れ、いつかこの一閑張日月椀に
自分の料理を盛ってみたいという思いを実現させることができた時に、
夢は必ず叶うという実感を得たと話された。

その椀は不思議な椀で、生地の表面に和紙を貼り漆を塗る技法である
一閑張のせいだろう、金の太陽と銀の月に立体感のあるマチエールが
生まれ、そっと触ってつるっとした生地とざらっとした和紙の感触が
指に伝わってくるが和紙ではない。
金属であるが、金属ではない。
儚いが儚くない。
太陽と月、朔望の姿が確かにここにある。
使ってみなければ分からないとはこういう事だと知ると同時に
この器を惜しみなく料理に用いることができる、穴見さんは
料理を超えて舞台にできる料理人である。


※北大路魯山人の一閑張日月椀
北大路魯山人は自らのイメージが完成するまで決して妥協は許さなかった。
それは日本古来の伝統を踏まえつつ
全く新たな美を作り出さんとする大胆な挑戦であった。
そのひとつ金の太陽と銀の月を用いた日月椀は
試行錯誤の末ようやく完成させた傑作である。
これらの器は大正14年に魯山人が開いた
会員制美食倶楽部星岡茶寮(ほしがおかさりょう)の膳を飾るのに用いられた。


■よい器とは「時知らずの器」
 
9月19日から伊賀の土楽窯の陶芸家福森雅武さんの個展が
 京都高島屋で開催される事を教えていただいた。


今回は震災復興を願っての意味から、茶陶を制作されているという。
古くは白州正子さん、そして今では糸井重里さんとの陶器を
通じての交流など、その陶歴は誰もが知っている。

細川護煕さんのご子息で陶芸家の細川護光さんも
福森雅武さんの弟子で郷里熊本南阿蘇で作陶されている。

穴見さんが日ごろ使っているその福森さんの陶製の
高台盆を持って来られて
一気に出刃で氷を削り盛り付け、そして掛け花入れから
一輪の花を添えてくれた。

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焼き締めの器にはどっぷり30分も水に漬け込んでやれば
水を吸って見る見る瑞々しいまったく違う表情を見せるんですよ。

こうして氷が溶けていくでしょ、その水を吸いながらまったく
別の表情をこの焼き締めの器というのは作っていくんです。

まさにこうした焼き締めの器は大地、地球そのものなんですよ
夏らしく、冬らしく、まさに「時知らず」の器とはこういう大らかさが
あるもんですよ。

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■美濃が美濃を食す

加藤三英先生のお祝いでもあり、穴見さんのはからいで
その師匠である人間国宝の加藤孝造先生の志野長皿に
旬の鱧を盛ってご馳走してくれた。

この皿をみてください。
 
本来皿というのは真ん中が低く四方が高くなっているもんです。しかしこの
皿は真ん中がぽっこり盛り上がっている。
僕はここに鮎を盛るんです。

そしたら何と鮎が踊りだすんですよ!この器はすごい。
 
器が料理人に挑戦してくる、だったら俺はこう活かして
こう盛ってやろうと思うんですよ。
 
食器というのは作家の気概がそのままこっちに伝わってくるもんなんです。
普通じゃ面白くない。どこかに見立てる面白さもあります。



■日本の伝統工芸を生かす室礼


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・お軸は狩野探幽、花器は朝鮮唐津と見たが違って萩焼だった。
 月といえば酒井抱一の「秋草図屏風」もよい


穴見さんは20代の4年間をフランスで料理人として
 修行し、外から日本を見ることで
 一年目から、料理の技術、素材の活かし方、空間の室礼
 食器の取り合わせなど、やはり日本料理が自分の中の至高であると
 感じたという。



日本の伝統的な工芸を依頼する人が少なくなってきて、
このままだとその技術や伝統を受け継ぐ人が
いなくなってしまうんですよ。
日本人は欧米の事には本当に詳しくなりました。
しかし日本の事は知らなくなってしまった。


今まで自分もいくつかの店づくりを手伝ってきたので
穴見さんに一階から三階のお店全体の建築と室礼を
見せていただいた。

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・先日若尾誠さんに青磁を教えて頂いたので、南宋龍泉窯か
南宋官窯、約1000年前のものだろう。
穴見さんの所には正統派な美術品が多いので
安心して見る事ができる。


自分はさっそく一階から二階へ向かう、走りの所の
壁の墨漆喰の磨きに眼が釘付けとなった。

入洛壁で着物裾が汚れないようにとの配慮から
この墨漆喰の磨きとなったそうだが、
以前視察したことのある、愛媛県大洲市臥龍山荘でも
見事な墨漆喰を見たことがあるが、その磨きとなると
もはやイタリア漆喰の磨きと同様で、和と洋に境が無い。


・一階クローゼット裏貼りの唐長

・階段内 隠し朔望

・一階 檜カウンター
     欄間 湖月
    
・二階 唐紙の桜染め、アケビ染め

・二階 藺草貼り真塗り座卓

・三階 木割り天井




■日々の中の美しさを求めていく事

日々日常で使うものに良いものを使うと言うことは
意識がまったく変わる上でとても大切なことです。

例えば、働く料理人のまかないの食器でも
うちではすべて作家ものや、店で使う食器同等のものを
料理人たち専用の器として使わせています。

どうでもいい器で食べれば、どんなにいい料理も
餌になってしまうんです。
器も大切に扱わないからそれは餌箱になるんです。
人間の性なんてそんなもんなんです。

日々使うものを大切なものに変えて行く事は
己の感性を養う上でとても大切なことなんです。
それは一人ひとりが暮らしの中でできることだと思います。
日々使うものほど愛着の湧くような
大切なものを使うように心がけることは
とても大切な事です。

自分が大切にできる器を使うことは
結局自分を大切にできることであり、
自分をもてなすことであるということなのだろう。

自分をもてなすことができない人間が
周りをもてなすことができないように、
それは行為ではなく精神 心 人格のようなものに
なり人が生まれたまま何の努力もしないで
元からある皮や脳や心臓 五臓六腑でそのまま素で
生きていてもそれは獣同様であり

その元からある五臓六腑 骨、臓器+人格という
三要素で初めて獣から人間へと成り立つ事を、
一番原始的で本能的な欲求である「食」 で獣のままか
人間になっているのかを判断できる。
「おおかみこどもの雨と雪」

高級食材を食べる事や、高級レストランで食事を
何回することではなく、自ら選び、自ら手をかけて、
あるいは同じ人間としての思考基準で 


・食事 = 胃が満足する = 獣 、獣の餌 × ではなく

・食事 = 心 感性が満足する = 人間枠 ◎

という工夫が
人間になれるか、生まれたままの獣で終わるかの
差別化には必要なのだと気づかされる。



■雪月花

書家であり陶芸家の大家 小林東五さんの器も
お使い頂いた。

それは粉引きを制作する、三英先生や僕への杉浦君の
配慮もあったのだろう。

三英先生は花、僕は月だった。

本湖月は穴見秀生さんの美意識の集大成であり総合芸術である。

新進の作家や白州さんと交流のあった
京都 加藤静允先生の古染付け、小林東五先生
北大路魯山人大家の器もすべてそこには華があった。
制作者のこだわりというよりも、一言に華としか
表現しようがない、つまり食器とは隠れた華なのだろう。

いつも変わらぬ穏やかな表情で、長身を少し持てあまし気味に、
ズボンに下駄をつっ かけて、お宅から工房への道のりを飄々と
歩いて行かれる姿は、とてもお医者様のよう には見えない。
でもやっぱりお医者様なのである。(白洲正子「春夏秋冬 加藤静允」 より)


穴見さんが自宅の庭で育てている蓮を見せてくれた。
花のある暮らしの日々の延長に本湖月がある

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                  こ
                  こ
                  が
                  朔
                  望
                  の
                  畔

                  本
                  湖
                  月

                     沼
                     尻
                     真

                     一







 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi




・碧巌録 第四十則 南泉一株花 「無なんてどこにもない」/沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



Chopin Étude op.10 nº3

 

Beethoven Sonata No. 8 'Pathetique' Mov. 2



 
 
Beethoven Sonata No. 8 'Pathetique' Mov. 2

















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MINO CERAMICS NOW 2004から2012へ 開会式 榎本徹館長から ミノセラミックスナウ2012/沼尻真一


MINO CERAMICS NOW 2012 開会式に参加しました。





榎本徹館長の挨拶の中で、前回MINO CERAMICS NOW 2004年展の
際に「美濃は、何でもありのところですね」という言葉をお客様から
頂いたという話が冒頭ありました。

それは粘土の造形表現はもちろん、それを支える
釉薬会社、粘土会社またはそれを支える材料企業等
数えきれないほどの業者さんが一人一人の若手の作家に
親身に対応していただける環境が美濃にはあります。




伝統もあれば、オブジェもある。陶器もあれば磁器もある。
本当に粘土を使った多様な表現が 美濃にはありますし、
国内だけでなく、世界的に見ても珍しい場所だということを
自分は改めて実感しました。

渡部誠一副館長からも
美濃の若手の陶芸作家を俯瞰するような資料として
2004年も図録が使われて、その当時は骨董系のギャラリーを
していたオーナーが2004年展を見たことを機に
現代陶芸のギャラリーに変更したというエピソードも伺いました。


それはやはり美濃が織部という革新の精神が根底にあることと共に
現実的には、美濃国際陶磁器フェスティバルの存在と
意匠研究所と多治見工業高校専攻科という2つの教育機関を
備えていることが、美濃がつねに最先端の造形表現ができる
要因でしょうね。と教えて頂きました。





開会式では現代陶芸で国内外の数多くの賞を受賞し、
雑誌などに載っている現代陶芸の有名作家の方々と
身近でお会いできたことが貴重な体験となりました。

今の自分にまだ何が足りないのかも
榎本徹館長からもアドバイスを頂き、また
自分の肌で感じた未熟な部分を何とか今後は克服し
洗練していきたいと感じた開会式となりました。

最後に主催者である岐阜現代陶芸美術館 榎本館長自ら
朝一番から出品者一人ひとりをお出迎えする姿勢を
まずは一人の社会人として自分は見習いたい。



沼尻真一
















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