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陶棲10−オリジナルの美意識や審美眼をつくる

高級な空間に美術品をおけば美しさが生まれるわけではないのは
なぜだろうか。

高級な美術館でも、高級な家でも、車でも、服でも、モノでも
美しいとは感じないのが人間である。

金はかかっていても、まったく美しくはない。
精神論ではなく、美しいと単純に目に見えてこない。

むしろもったいない。無くてもいい。必要ない。
それぐらいに感じてしまう事の方が世の中には多い。

しかし、あの有名人が、あるいはテレビが良いというからこれは
良いものだと思うのは、結局はだれも同じものを持っているという
つまらなさに繋がり、まるで赤い羽根募金のように
富豪のブランドオーナーに一般庶民が募金しているように、
モノを買うのはもったいない。

金はかかっていなくても、美しいものが、
そこら中に山ほどある。

これはどういう事かと考えれば、
それは結局は磨きかかったもの、愛着のあるもの、
心の宿っているもの、造形言語を持つもの
そんなものたちにのみ美しさが生まれるようだ。

以前くるみの木の石村さんが言っていたように、
古くてもいいから、きちんと掃除をしている事の方が
よっぽど美しいとはこの事だろう。












 

陶棲9 − ホンモノは感じたモノ。

感じたモノをつくる。

そのものに向き合う姿勢、思い考える姿勢を見て、人が感じ動いて、
感じたモノがあるのだろう。

興味があるのは、その先にやはり自分のプライドやこだわり、
我欲を超えたゾーン、作為の先のゾーンに何があるのか、
元にもどるのか、少し元にもどるだろうか。

























 

陶棲8−伝統芸能としての日本の陶芸 −沼尻真一



 陶芸の経歴には、よく師が誰々と書いてある。
伝統工芸の世界では、よく見かける。

特に陶芸の面白さは、もちろん造形バランスだと
言っていいと思う。
それは芸術の面だろう。

しかし、もうひとつ陶芸の面白さがあると思う。
それは芸能の面だと思う。

流派一門、系譜、産地焼きなど明らかに
脈々とシンジケートが息づいている面白さが
オブジェも伝統も、クラフトすべての陶芸にはある。

例えばそれは、瑞浪市の近藤精宏先生の工房を
行かせてもらった際に、蛇窯を見れば、
種子島焼きの小山冨士夫先生を連想した。
そしてやはり小山先生の下で修行されていた
とのことだった。

また別の日には以前からお会いしてみたかった、
唐津の中里隆先生が今年は小山先生の
五斗蒔の花之木窯に来て作陶に来ていらしているというので、
行ってみるとやっぱり、花之木窯には
かの名高い蛇窯があった。

それは、小山先生と一緒に中里先生が作られたもので、窯下にちゃんと
配管が通っていたのだ。

中里先生からは、先生が確か5台か10台作ったという蹴ロクロを譲ってもらった。
もちろん最初はできなかったが、先生と一緒に作陶に来ていた
信楽の古谷さんから、教えてもらってなんとなく、土殺しらしきようになっていった。


次の日は、足腰がひどい筋肉痛になり
電動ロクロのありがたさをあらためて痛感した。

南蛮焼き締めで作られた作品は
窯詰めは、その重ね方で緋色の変化を狙い
どのように重ねるのかが、とても重要そうに感じた。
籾殻を間に敷き詰め作品同士が着くのを防いで
いて、その籾殻の後もやはり景色になっていた。

1900℃ぐらいの低温で焼かれる作品が
窯だしされると、燻し焼きのように柔らかく粘土が
焼き締められていた。

その夜の宴に参加させてもらいながら、
中里先生が、小山先生との出会いから蛇窯を
つくられた話や種子島での話を聞かせてもらうことが出来たのは
陶芸史をリアルに感じる事ができて嬉しかった。

またもうひとつ付け加えるならば、古谷さんのお父さんは
古谷道生さんで、信楽焼き(しがらきやき)の名工で、
30基もの穴窯を作った陶芸家であり、
穴窯の作り方を書いた本を出されている。

話は大きくやきものの系譜からそれてしまったが、
このように、人と人との出会いからやきものが進化し、
その方がすでに故人となられていても、作品はもちろん
その系譜や流儀、流派、哲学が今の人たちへも
脈々と受け継がれて息づいている所が、
単に形がどうとか、コンペの賞歴がどうとかではなく、
DNAやIZMとして流れ、受け継がれて行っている所が、
日本の陶芸会のすばらしさであり、先人を敬いながら
進化させることのできる、日本人の文化なのだと思う。

だからロクロの挽き方、高台の削り方、釉薬、土、焼き、
窯なんかを見て、その流れをどこかに感じる事が
できる、または見立てられるというのは、
やはり日本の陶芸のおもしろさであり、醍醐味である。
こんな面白さを一部の人の間にしまっておくのはもったいない。

では誰かの弟子ならばいいとか、そういうわかり易い事ではないが
土着性、産地焼性なんかも含めて、流れがあるから
そういう曖昧で混沌としたものではあるが、そこを見立てて
それを骨董や、ギャラリー、作家の間のディープな世界だけに
しまっておくのではなく、器を使う一般の人々にも、
共有してもらえることが大切なように感じる。

久々利の瀧口先生が言っていたように、どこで陶芸を学んだかは
生涯のやきもののふるさとになる。と言われた事も
器の見立てに役に立つと思う。

落語や歌舞伎お茶、お華、能と同じように伝統芸能的側面が
芸術としての陶芸の反対側に、ドーンとあるのだと思う。
だから、秋の柿の頃になると、器に引かれるのではないだろうか。

伝統芸能、落語なら林家一門、桂一門、歌舞伎なら、
中村一門、市川一門、お茶なら三千家というように、
芸名からして、一般の人にもわかりやすいが
陶芸にはそれにあたるような数は少ない。

家族であれば、苗字が一緒でも、門下生なら名前が
違うからわかりにくい部分があるのは確かだ。


わかり易い所であれば美濃なら、加藤幸兵衛先生の
父上であり人間国宝である故加藤卓男先生の
(以下お弟子さんを含む)加藤流派、や
人間国宝加藤孝造先生の孝造先生の流派、
備前ならば金重流派、唐津なら中里流派という
ように、もちろん人間国宝を起点としたわかり易い紹介
しかできないが、(実際には、グループという括りは正式には
ありません)が、このように陶芸の世界にも
存在しているし、もっともっと各地各場所に人間国宝でなくとも
同等にすばらしい流儀や流派をもった流れが
人にも、場所にも、学んだ学校個々にも哲学とIZM、
技術が存在しているので、
その点と点を紡ぐ作業も器の見立てとして面白いと思う。

つまり器の見立ては、その作家そのものがどのような
人生の生きざまをしているのかという事が、
器の見立ての面白さに繋がってきているように感じる。

自分は農業のやり方を家の隣のおじさんに教わったし、
そこにちゃんとしたノウハウがあった。
そして、日本が最高潮だった1980年代だった頃から
考えれば、日本の農業就労の平均年齢が65歳ぐらいと
すれば、あと10年ぐらいのうちに、多くのノウハウが
ポロポロ静かに消えていくのだと思う。
センチメンタルになる必要はないが、もったいないと思う。

それは陶芸も同じで、何でも自由になれば、簡単便利に安く早くが
あたり前になってしまう危険性がある。
大西政太郎先生が書き残した陶芸の伝統技法書ではないが、
それはいつか、原始技法になって、今が伝統技法になるのは
時間の問題なのだろう。
全盛期に育まれたものが、風前の灯となるのは、
柳宗悦の民芸運動からあまり変わっていないのだ。

全国各地の作家が先人より何かを受け継ぎ、ゆるやかに
水平に展開し、形として何かを紡ぎだせれば
そこには境をかるがると超えた、まだ誰も見たことの無い
別のゾーンが広がっていくと思える。


沼尻真一









陶棲7−温故知新に意味が無い



 では食器をつくりましょう。という事で
懐石の器をすべての食器を作ることは表現していることではない。

食べ物を料理を知らなければ、食器がつくれないわけではなく
加藤幸兵衛先生が言われたように、
茶道をしらなければ、茶碗が作れないわけではない。

知ることは重要だし、知るということはものづくりの
単なる指標にしかならないわけで、
迷ったときの物差し程度で、知ったうえで
頭からなくしてしまわなくてはいけないものなのではないだろうか。

知って捨てて、自分が良いと思うものを勝手に作ることこそが
一番に重要な事ではないだろうか。















 

陶棲5− 震災以降の価値観としてのものづくり


 今のように低年齢化され性別が曖昧な時代は
戦争もなく、平和な世の中の象徴なのだと思う。
しかし、そんなすばらしい日本も真に豊かではないと思う。

敗戦以来、真の独立をし得ないまま成り立ってきた日本に
工芸とくに陶芸、やきものづくり手仕事は
日本の新しい価値観を形成するための鍵を握っていると思う。

冬の寒い朝に、祖父が納屋で藁縄や、藁筵を編んでいた。
ただぼんやりとした風景だったが、あれ以来、他の場所でも
とうに見かけなくなってしまった。











 

陶棲4−やきものづくりのプロセス


サイトは会社の個人の名刺代わりのようなもんの
世界にいたから、陶芸の世界ではサイトを
持っている人が少ないことに驚いた。

個展で売るからかもしれないが、実際に自分で作ってみて
買っていたときには、想像もできない苦労が多いので
その辺の情報まで含めて、作家が発信できれば
買う側の見方も意識も変わるような感じがしている、

またどの業界でもそうだが、作り手が結構本を出している
ことが多いが、陶芸の世界では、技法書以外で
作り手が本を出版している数が少ないと思う。

このことは総じて、発信するということで括れるだろうが、
陶芸の世界が元来分業体質があったとすれば、
それは、いま学芸員に委ねている側面もあるようにも見える。

それでも作り手にしか分からない目線があるだろうし、
作り手が間を介さずに、
ダイレクトに使い手受け手と結びつくという流れは
今後もっと重要になると思う。

つまり「どこで買うかではななく、誰から買うか」なんだと思う。
祖父がスーツを新調するときには、街にいるテーラーに
来てもらって、生地選びから一着のスーツをしつらえていたように
特別な事でもあれば、お気に入りの作家に器を特注するのも
面白いと思う。

やきものをつくる人間には、買うほうもその思いを聞きたくて
会ってみたいと思う部分はあるだろうし、
どんなに小さくてもいいから
工房の一角にはギャラリーが存在していくのは、
やはり古くからあるスタイルとして、当然必要だと思う。

本当のものの価値は、その作り手にしか説明できない部分も
確かにあり、自分が美術館のために作るのか、
一般の家庭で使ってもらいたい
ために作るのかギャラリーで売るために作るのか、その宛によって
アプローチは大きく変わるが、とにかく作り手が
イニシアチブをもって価値を決める世界にしていかなくては、
何かにどこかに媚びる必要になるのは避けたい。








 

陶棲3−やきものの聖地 多治見・美濃焼/沼尻真一

 
どこの県にも窯業指導所があるが、
多治見ほどレベルの高い場所はないように感じていた。

ふるさとのつくばは笠間や益子が近くの窯場となるが、
だいぶ変わったといえ、茨城県の原住民の自分から
してみれば、そこは昔の雑器を連想してしまうし、
多治見ほど、全国から我こそはという志願者を受け入れる
度量が大きくなく、既存の窯元の跡取りでもなければ
入ることができないような閉塞感があるように感じた。

それはもちろん地元産業を守る事なのかも知れないが、
よそ者馬鹿者が何かを変えるという古からの原理は
やはり正しいので、大いに受け入れて自由競争で
やる気のある者が残っていけば、さらに街は
活気づくように思えてならない。

多治見に来て、やきものの勉強をして誰もが
思うと思うが、一子相伝の技など
言われるやきものの世界にあって、
どの作家の先生たちもオープンに快くその技術を指導してもらえる
場所は、他にないのは事実だと思う。
それは小林文一先生も同じように、卒業式に言っておられた。

一度教えてもらったぐらいで真似のできるものでも
ないので、その辺りは余裕だと思う。
これからも多治見には、全国からやきものを志す
人たちが集まってくるのだろうと思う。

関東でもあちこちに陶芸家という人がいるから、もっと簡単に作れるもんだろうと
思っていたが、わずか2年ではその入り口に立つことさえ
難しいことがわかったのは収穫だと思う。
何度やってもだめなら、焼くことも臆病になるくらい
迷走してしまうし、あれだけ作ったのに、これだけやったのに
焼きですべてが台無しになる、それがやきものを
つくるという事でもあるのが、分かってよかった。

こんな歩留まりの悪さでは、陶芸で食べていくのは
至難の業であろうと思う。

せっかく大物を作っても、棚板がなければ焼けないし、
一度に大量につくっても、それなりの大きさの窯が
無ければ焼くこともできなかった。
棚板は一枚でも2万3万と高くて、注文してからも2ヶ月以上の
時間が掛かることさえ知らなかった。
どこの窯を借りてもたくさんの方々にご迷惑をかけて
しまうので、自分の窯のサイズでできることを考えるのも
工芸の制約と手打ちすることになるのだろう。

土をテストしても、見当はつけられても、結局は等身大ほどで
焼いて見なけりゃその性質さえ掴めないから、
やはり大きければ大きいほど、土も釉も腕も
すべての誤差が広がるから、最終の焼きまで
行って大きな失敗したものからは大きな落胆と、
悔しさとやるせなさからは学びは多かった。

頭ではイメージはできていても、そのストライクゾーンを
あまりに大きく甘い今の状態ではなく、
そのゾーンを工芸的制約を吟味しながら限りなく
狭く作っていけたら今後は良いと思う。

 

陶棲2− 筆からMAC、そしてロクロ/沼尻真一

セツモードセミナーという四谷の学校で長沢節先生に出会って
絵を描くということがどういうことかの固定概念が壊されて、
セザンヌが後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山の風景
を何度もなぜ描くのかを、自分が画面を再構成する必要が
あることを学んだのは、節先生から教えてもらってセザンヌでわかってきた。
ルノアールと親交のあった梅原龍三郎も富士山を描き倒すのはそのためな
んだろうな。

その後ヒロ杉山さんによくしていただいて
それまでのやり方ではない、自分のセンスの磨き方と、
東京やパリなど街に対して自からが発信していくという
クリエイティブな活動がどういうものか教えてもらうことができた。

しかし、絵ばかり描いてもなかなか食っていけなかったので、
サントリー宣伝部から独立して当時六本木で事務所をしていた
アートディレクターの小林さんの事務所に入れてもらって、
グラフィックの仕事をやらせてもらいながら、
小林さんから色やデザイン、タイポグラフィ
心構えなどなど
たくさんの事を教えてもらった。

ある撮影現場でピラミッドフィルムの代表である
繰上和美さんに「お前独立したほうが、もっとつらいぞ」と
言われた事を

轆轤を回しながら思い出した。

ほんとうだ。



 

陶棲1− 母体はやきもの/沼尻真一

自分が昔、
ジャマイカから日本と国交の無いキューバに渡って、その後
社会で仕事を通して、さまざまな経験をしながら、
はじめてのやきものを学ぶために多治見に来たのは、
その後アメリカ、フランス、イギリスなど
様々な国々に行くたびに、日本人である自分が
あまり日本について知らないということを実感したのが
種火になっていると、今考えると思う。

子供のころ、冷えた朝起きると農夫である祖父が
納屋にあぐらをかいて筵を編んでいた光景は
自分にとっての手仕事の原風になっている。

その後高校の時にカワサキのバイクで
なんとなく、秋に一人で益子に行ったことも
大きな狸の置物が木枯らしの寂しい窯里の原風景になっている。

家は大勢の人が訪ねてくるような家で
炊き出しの際は、手伝いに来てくれた部落の人が
蔵からたくさんの食器瀬戸物を用意していた。

そんな時も市の倉の杯美術館にあった同じ杯が
家にもあって、当時は猪口や徳利で大人たちが
酒宴をひらいていた。水を入れるとヌードが
現れるその杯は子供にはとっても面白かった。

子供の頃、悪さをして蔵に閉じ込められた時にも、
泣きながらでも、大事そうに箱に収められている
この瀬戸物たちが恨めしかった。

庭の片隅には、まるで忘れられた苔むした巨神兵のように
茶色の土瓶が転がっていて、まるで牛乳でも絞っていれる容器のような、
ずいぶん面白い形だから、どこからきて、何に使うのかもわからなかったが、
村の年寄りが酒屋に買いに行くと量り売りだからこの瓶を
もっていって焼酎を買ったと教えてくれた。

それが多治見にきてから常滑に遊びに行った際に、
大量の同じ土瓶が
路地に埋め込まれているのを見て、
ああここから来たんだと、
謎がとけた。

常滑は21世紀少年の撮影現場にもなったような
オールウェイズの風景で、自分も好きな場所のひとつ。
多治見から行くと、地中海のような知多半島が驚くほど肥沃で温暖で、
海のそばに常滑の町が広がっていて
気骨のある急須の職人の方が大勢いる。
余談だが、知多半島は恐らく四国などの島々と同じ成り立ちなのかと
感じ、それが地続きになった感じで。
以前行った小豆島のオリーブ農園井上誠耕園さんを
訪れたような雰囲気だから、きっとオリーブ栽培もできると感じた。

超高速ロクロで回転しながら作られる常滑の朱泥の急須は、
日本一の技術であり、急須だと思う。

学校から帰ってきて、小腹が空いて茶箪笥をあけると、
いつも同じ場所には、オレンジ地に菊が描かれた食器のセットが
しまってあって、裏をみたらNORITAKEと書いてあって、
使ったことはないけど
たいそう大事なシロモノだとは思っていた。
どこか異国のものかと思っていたが、これも名古屋の会社だと
こちらに来てから分かった。

昔、陶器はとても大切にされていて大正生まれの祖父母はとても大事に陶器を
扱っていて、日々の料理が盛られて出てくる田舎料理と陶器を
なんとなくぼんやり見つめていて、当時の食器を見るだけで、
あの頃を思い出すぐらい
自分の中には、陶器がかなりの影響を与えていると感じている。

やきものが好きな人にはきっと同じような記憶があるんだと思う。







































 

Life mask

 




◇Life mask






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