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志野 人間国宝 鈴木蔵先生 - 沼尻真一


 


志野 人間国宝 鈴木蔵先生
 
鈴木蔵先生のお宅でお話を伺う機会を頂きました。

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日本人の美意識ば1万年前の縄文時代から
プリミティブで激しい感性を持っていた。
 
弥生時代は繊細で優美である。
 
その感性はどういう所から生まれるのかというと
周りの自然から育まれたもので
そこから思考や意識が生まれている。
世界でも例を見ない感性を日本人は持っている。
 
奈良・平安→須恵器、奈良三彩
 
室町・桃山→志野織部、半地上式大窯
 
昭和・平成→石炭から重油窯→電気、ガス窯へと変化

日本は経済が発展するときに技術革新も合わせて
起こっている。
そしてあるべき姿を見出すときにイノベーションも
生まれる。
 
日本は今、縄文的な力強さが出ないといけない、
そういうものが今またれている。



 
Q、伝統とは何を引き継ぐべきなのでしょうか?
 
松尾芭蕉の言葉に、「不易流行」という言葉があります。
それこそが相応しい言葉だと思います。
 
ものをつくる場合、謙虚で真摯な姿勢でぶつかって行く事で、
ものが教えてくれるものです。
 
伝統をそのまま写していては、そこに創造性がありません。
 
ただ、伝統品の一部良いところだけを抜き出して、
そこを写していても、ものの本質を理解することは
一生できません。
 
私は伝統系ですが、クラフトだろうが、伝統だろうが
良いものはいいんです。
 
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むかし日本では、松尾芭蕉の『笈の小文』にあるように
自然を「ぞうけ」と言っていた。
 
Natureを自然と訳してしまったことが、問題なんです。
 
自然それ自体を 「物質」と見たときに、
破壊と心の荒廃が始まりました。
 
 
 
●松尾芭蕉の『笈の小文』の「造化にしたがひて造化にかへれ」の現代語訳
 
ここに百の骨と九つの穴を持つ人間の体があり、その体の中に「もの」がある。
仮にそれを風羅坊という。
風羅と名付けたものは、本当にその男が風によって破れやすいような
はかないものであることを言うのであろうか。
彼は、狂句を好んですでに久しく、ついに生涯をかけた仕事になっている。
ある時は嫌になって放り出そうと思い、ある時は進んで励み
人に勝つようなことを誇ろうと考え、そのよしあしの思いが胸の中で葛藤して、
このために心身の落ち着かないこともあった。
また、一度は世間並みの出世をしようと願ったけれども、狂句のために妨げられ、
あるいは一時的に仏教を学んで、自らの愚を悟るようなことを望んだけれども、
やはり狂句のために志を破られ、とうとう無能無芸で
ただこの一筋に繋がることになった。

西行の和歌においてもの、宗祗の連歌においてもの、
雪舟の絵においてもの、利休の茶においてもの、
それぞれの道は別々だが、これらの人々の根底を貫いているものは同一である。
その上、俳諧においてのものは、天地自然に従って四季の移り変わりを友とするものである。
 
目に見えるところ、花でないというものはない。
また心と思う所、月ではないというものはない。
もし、見えるものを花として見ないならば、野蛮人と同じである。
心に思う所が花でないならば、鳥獣と同類である。
だから、野蛮人の境涯を抜け出でて、鳥獣の境遇から離れて、
天地自然に従い、天地自然に帰一せよというのである。

陰暦の10月の初め、空は時雨の降りそうな、はっきりしない有様、
この身も風に散る葉のように行く末が定まらない気持がして詠んだ歌、

旅のお方とでも人から呼ばれるようになりたいものだ。
折からの初時雨の中を旅立って行って。
また山茶花の咲く宿ゝに泊まりを重ねて。

岩城の住で長太郎と言う者(由之)が
其角亭で送別句会(旅立ち前の送別の宴)を催した。
 
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翌日、東京渋谷に移動して、前から行きたかった
黒田陶苑に伺ったところ偶然にも
鈴木蔵先生の個展が開催されていました。
 
鈴木先生もちょうど在廊されており、
昨日の御礼とお話をさせていただきました。
 
様々な志野があり、それぞれ土や釉薬が違う事を
教えていただきました。
 
ものをつくる上で書物を読むことが大切だと
教えていただきました。
不思議とつくるものに、それが反映するものなんですよと
アドバイスをいただきました。
 
また名作や国宝と言われるものでも、一度見るだけでなく
何度でも見ることが大切だと教えていただきました。
 
書物を読んだり、歳をとったりすれば意識が
変わるはずです。意識が変われば見方も変わるはずですと
先生が教えてくれました。
 
ちょうど三井記念美術館で国宝「志野茶碗 銘卯花墻」が
公開されているからぜひ見ておきなさいと教えていただき
そして、菊池寛実記念 智美術館で開かれている
先生の展覧会のチケットを2枚いただきました。

とても使うことができず、展覧会はもちろん自腹で行くことにして
このチケットは僕にとっては宝物として一生大切にしようと
思います。
 
2日間連続で鈴木先生にお会いさせていただきましたが、
本当に、謙虚で真摯な先生の姿勢から私たちが
学ぶことがたくさんあると感じました。
 
目に見えるところ、花でないというものはない。
また心と思う所、月ではないというものはない。
もし、見えるものを花として見ないならば、野蛮人と同じである。
心に思う所が花でないならば、鳥獣と同類である。
だから、野蛮人の境涯を抜け出でて、鳥獣の境遇から離れて、
天地自然に従い、天地自然に帰一せよというのである。
 
沼尻真一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

いばらきシェフズダイレクト試食交流会 開催

JUGEMテーマ:つくば遺産



いばらきシェフズダイレクト試食交流会開催

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赤坂タキトースタジオで首都圏で活躍するシェフ・
料理関係者そして生産者など総勢約70名で交流会を
開催することができた。

思い起こせば約1年半前の起案から
やっと実現することができました。

「いばらきシェフズダイレクトツアー」と長い名前をつけて
私たちはスタートしました!

わざわざ東京のシェフのみなさんにTXに乗ってもらい
つくば駅で朝早くから待ち合わせ。

そこから「茨城県号」バスに乗車して
一気に茨城県内の各産地・各農家をたずねて
ぐるぐる ぐるぐる 2周して
やっと生産者の農家の方々、シェフの方々と
一同に会すことがここ東京赤坂で開催することができました。

久しぶりにお会いする方もいて同窓会のような雰囲気も
ある中スタートしました。

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茨城県の上月副知事はじめ、茨城県庁の
全面的なバックアップと、僕の仲間である八巻さん、廣太さん、瀧藤さん
佐藤さん、そして愛媛の鳥津さんの力を借りて、ふるさと茨城県・
そして祖父や父も携わってきた農業に恩返しができました。

茨城県庁の皆さん、生産者のみなさん、スタッフのみんな、
そして忙しい中、興味を持って参加いただいたシェフのみなさんに
この場を借りて深く感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。


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今回ツアーに参加させて頂き、シェフのみなさんと畑に行ったり
生産者の奥様が作った手料理をいただくことができました。

日ごろは東京を中心に華やかな世界の中に
身を置かれているシェフの皆さんが、
農家の座敷で、手料理を味わっている姿を見て
久しぶりに田舎に帰ってお袋の味を食べているように
見えて、とても感慨深いものがありました。

誰でもそうであるように、料理や弁当という食事には
何かしらの思い出があるはずで、
シェフになろうと決められたのにも、きっと
それなりの食にまつわるエピソードがあるのだろうと思います。

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世の中の価値観は、どんどん変わっています。
例えばリーマンショックなど節目がありますが、
自分でもそれは恐ろしい速さで変わっていると
思います。だからPRにしても、多額の費用と予算を
出して、広告代理店に依頼すれば何とかなるだろうという
考えはまったく間違っています。

日本中の多くの国民、県民はもはや、
やらせを直ぐに見抜くことができますし、
真ではない物語など一過性に過ぎませんし、
県税の無駄使いです。


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自分でやっていて何ですが、今回のような
ボランティアのイベントでさえも
繰り返さなければいけなかったとすれば
とてもたいそうになりますが、
それは、あまりにも商品、作物がお粗末だと
言うしかないのです。
きっかけがあれば、良い商品は必ず
一人歩きするものです。

PRが目的ではなく、手段でしかないのです。
茨城県も私たちもあくまで黒子であり、
きっかけをつくる事しかできないのです。
黒子が主役となって舞台をつくるのは
まったくおかしいのです。


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僕の友人でもある愛媛県の鳥津さん、梶田さんは
自腹ではるばる上京して、行政にさえ頼らずに
自分の商品を引っさげて、乗り込んで
今の成功があることも、生産者には分かって
欲しいと思います。


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また今回のイベント手法で言えば、
ふるさとのために何かしたいという県民は
数多く全国にいるはずです。


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今回のイベントはまったくの手作りです。
東京の県人会に何百何千と集まろうが、
その県人会のみなさんの人脈があれば
もっと多くの機会を、僕たちがやらなくても
すでに実施されていてしかるべきではないかと
疑問をもたざるを得ないのです。

だからどれだけ本気でふるさとを考えて
献身的にできるかという事は、
どういう事なのかそこに答えがあるはずで、
財政難と嘆くばかりでなく、地方行政も
そのことをよく考えて欲しいと思います。

発想を転換しなければ、地域おこし
まちおこしなんて掛け声だけで終わる
ものなのです。

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茨城県だけでなく日本全国、地方は農業
農産物が主体となっています。
それは農業が元気にならなければ、
地方は元気にならないと言っても過言ではないと思います。
しかし、スーパーや築地に大量に出荷して
地方の農業が本当に活性化するのでしょうか?

もはや右肩下がりの日本経済の中で
大量生産大量消費の発想ではなく、
少量生産で十分にやっていく必要があるのです。

だから今回のようなイベントは日本全国の
地方行政全てに通用する手法という意味では
画期的な出来事だったのだと思います。

事実日本全国どこの産地にいっても、高齢化の問題に
必ずぶつかるのです。
今は若者も農業に関心を持って取り組む人も
多くなってきたと言われますが、それは
まったくの偶像で少数に過ぎないのです。

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60を過ぎて年金をもらいながらしか
または、
国の助成金をもらいながしか、日本の農業を
やれないというのが、今この国の農業の
現実なのは本当に危惧を抱かずには
いられない状況です。

あと5年あと10年すれば、現在の農業の
技術やノウハウは完全に失われていくのだろうと思います。
それこそ各家庭が菜園を持って
野菜を自給することが、もっとあたりまえに
なってくるような気がしています。



日本の農業は「農道」なのです。
農道といっても、茶道と同じ「道」です。
日本人の伝統と言っても過言ではないと思います。
そのためにもこのように、生産者の思い、志を
理解し、産地に自ら出かけ、そして
その思いを料理を通して
お客様に表現しようとする
侍の志あるシェフとの出会いは必然なのだと思います。

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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

最後になりますが、私たちが食をとおして
伝えたかったことがあります。

それはかつて鎌倉で魯山人が行った美食倶楽部ではありませんが、
その時代とは違い、このように食料が飽和している
現代日本の中では、食の安全の上に
生産者の思いや志が伝わる
「日本の清々しさ」ではないかと思います。

この生産者の「清々しさ」というバトンが、志の高い
シェフの方々に渡る事で仲間となり、「仲間にしかできない」料理が
生まれるのだろうと確信しています。

そしてそのバトンが各家庭へと渡り、家庭の味
強いては家族の団欒にまでつながって行ったら
どんなにすばらしい事だろうと考えております

学級崩壊と言われますが、情緒を養う一番大切な
時期に、家庭の味を大切にすることは
その後の人生に多くの影響を与える事は
誰もが知っているとおりだと思います。

もし家庭の味、家族団欒の食事のひと時の
思い出なく、大人になればまた
その結果は、自分で包丁を握ることもせず
同じ寂しい思い出と低い知性と感性が
繰り返されるだけなのです。

目は口ほどにものを言うと言われますが、
自分の体内に取り込む口(舌)は
口(舌)は心ほどに大切だと僕は信じています。

このイベントを通して、地方行政、生産者、シェフの
皆さんの「間」を知ることができました。

この「間」をどうするか、このブログを読んでくれた
方々がまた何か感じて頂けたら幸いです。



沼尻真一

※写真:会沢淳

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■いばらきシェフズダイレクトツアー
■いばらきシェフズ試食交流会

参加・ご協力をいただきました皆様。

(順不同・敬称略)

・RESTAURANT GUSTO
・株式会社ベルタ 五丁目千
・銀座 六雁
・株式会社ゼロディグリーズジャパン
・二期倶楽部直営レストラン
・にき亭
・有限会社グランメール
・株式会社 美々卯京橋店
・神田 雲林
・ヌキテパ
・ビゾーニョ
・作
・三次郎
・精進料理 北鎌倉 鉢の木
・ピアット スズキ
・青山指月
・流石はなれ
・ふらんす割烹
・味館トライアングル
・株式会社トランジットジェネラルオフィス
・赤坂旬香亭
・赤坂炭火 炬屋
・山田チカラ
・赤坂璃宮
・京料理 竹生
・銀座いさみ
・五丁目千
・シンスケ

・株式会社シカタ
・セコム株式会社「セコムの食」
・株式会社オレンジ・アンド・パートナーズ
・東京カレンダー
・一個人
・日本食糧新聞社
・茨城新聞社
・日経BP社(日経レストラン)
・株式会社銀の鈴社
・株式会社日本産直市場
・藤巻 幸夫氏
  
・木内酒造合資会社
・福徳常陸大黒の会
・河西しいたけ園
・農事組合法人奥久慈しゃも生産組合
・株式会社れんこん三兄弟
・大涸沼漁業協同組合
・株式会社小田喜商店
・拓実の会
・株式会社野口徳太郎商店 

・株式会社メリーメーカー
・株式会社テーブルスタジオ
・恵比寿 日本料理 雄
・中川学園調理技術専門学校
・茨城県
・茨城県
・茨城県農産物販売推進東京本部
・茨城県農林水産部漁政課
・茨城県農林水産部園芸流通課
・うまいもんどころ推進室

・株式会社沼尻

 









 


陶芸と現代美術

JUGEMテーマ:アート・デザイン
 
 
 
粘土は表現に限界がある。
彫刻家は何を表現したいかで、石、金属、木、粘土から
自由に選んで、最適だと思えば粘土を表現するだけだという。
では陶芸作家はどうだろう。
 
はじめから粘土ありきでものを考えてつくる。
制約の多い粘土だから、制約がでてきたら
理想を変える。妥協する。我慢する。
 
いや我慢するのではなく、受け入れていれば
我慢ではなくなるのかもしれない。
 
イマジネーションがあって本来つくりたいものがあるけど
制約が多くてつくれないから、それを受け入れ
少しUターンさせて作る。
そんな制約の多い抑制された世界が工芸で、
現代美術とは一線を置かれている。
 
アントニオ猪木VSモハメドアリのように
異種格闘技では同じリングに立ったら
方やなんでもありの現代美術に
圧倒的に不利というわけだ。
 
粘土で作らなくてもいいのにと思うような
作品まで粘土でつくるのか?とよく聞く。
どこまでが、その限界だろうか?
では逆に、
この作品こそは粘土でつくるべきだという話は
聞いたことがないというのはなぜだろうか?
時代が進化して、もはや
粘土にだけできることが無くなったせいだろう。
 
漆器でワイングラスをつくるような
違和感ありのたくましい世の中において。
複雑だけど軽くできる。
陶磁器からプラスチックに置き換わって
需要がなくなるのも、こんな所に答えが
あるのかも知れない。
 
では制約の多い陶芸界がそれでも
前衛だアバンギャルドだって、現代美術よりも
やんちゃに主張できたのは、
やっぱり人間国宝のおかげではなかろうか?
現代美術にも人間国宝がでれば
まったく違った世の中になるはずだ。
 
つまり伝統工芸というお父さんの足元で
やんちゃに遊びまわる子供たちが
陶芸のアバンギャルド、もっと言えばオブジェ
ではないだろうか?
伝統工芸という分野が日本で確立されていなかったら
どんなに人類はじめての創造が縄文土器だとしても
やっぱりその前に狩猟するための鏃、つまり
石工が先だとなってしまうのかもしれない。
 
美術や芸術という言葉も、まったく人間がいい加減に
カテゴリーに直訳しただけの話でなんの根拠もない。
神術だろうが、心術だろうがなんでも良かった。
 
陶芸という伝統工芸がなければ
ただの一表現素材として粘土というものがあるだけだろう。
 
グラフィックデザインや他のデザインから見ても
陶芸の表現が新しい表現に見えたり、
なにか精神的な意味を持っていたりするようには
全然見えないということも、
伝統工芸という垣根も取り去って
あっちこっち全部フラットにしてみれば
古臭く感じることが多い。
伝統だろうがクラフトだろうがそんな細かい
話は、テレビ業界の逆さ言葉のようでなんか違和感を感じる。
 
また現代美術の作品もなにかを感じてあげる
必要なんて、作家の個人的事情を
わざわざ金を払ってまで
分かってあげる必要もない。
見ておもしろければそれでいい
 
極論を言えば、何でもありの表現という世界の中で
現代美術や歴史的美術と闘えるのは
器に宇宙を見る茶碗ぐらいしかないだろう。