その当時はクラフト運動が盛んで
多治見の陶磁器試験場に
カイフランク、イサムノグチ、森正洋、
柳宗理さんはコーヒーポットをつくっていた。
僕も当時は伝統ではなくクラフト系の
作品を作っていた。
当時は加藤幸兵衛さんが場長で
山に土を取りにいくことなんかも
自由にやらせてくれた。
(1950年から23年間、岐阜県陶磁器試験場長を勤める)
山に土を取りにいくことなんかも
自由にやらせてくれた。
(1950年から23年間、岐阜県陶磁器試験場長を勤める)
その当時試験場を訪れていた荒川豊蔵さんに
ろくろを教わり仲良くなった。
お世話になった加藤幸兵衛氏が場長を
辞めることになり、それに合わせて
独立することになって、豊蔵さんと
一緒に久々利や大萱の土地を見て回った。
初窯は失敗してしまって、火の引き込みの
穴が小さかった。
豊蔵さんが制作をやめるときに
ダンプカー3台分の土をもらったので
家に穴を掘ってうめた。
窖窯を焚いていたらダンパーなんていらないよ
焼いていればいつかやけるからと、豊蔵さんに
言われて以来使わなくなった。
焼き物は土があって火を通す。
焼き物の原点を忘れてはいけない。
焼き物は結果ではなく、その過程が大切。
心がこもっていないと思い入れがない。
また焼き物は純粋であればあるほど
おもしろくない
・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事
https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi