伝統はどこへいったのか。
高齢者の方がごくわずか、例えば2〜3人が
伝統的な技術を受け継ぎ、
今でもやっていますと言う。
需要がなければ当然売りあがらないから
生活するために、霞を食べて生きていけないから
当然職業として成り立たなくなる。
農家の平均年齢が70歳前後で
後10年以内に日本の農業の技術は
失われていくだろうと警告されていた記事をみたことがあるが、
それは農業に係わらず
伝統的な産業すべてにそれは当てはまるのだと今日思う。
日本の食卓の7割が外国産と言われる状況は
食に限らず、伝統産業にもまったく同じことが言える。
原料となる木や絹や麻は国内で自給され、
いままではそれらを用いて様々な伝統工芸がつくられていた。
産地を偽り、食品偽装と言われ数多くの会社が消えていったが
果たして、日本の伝統工芸はどれほどのものなのだろうか。
伝統工芸に伝統偽装はないのだろうか。
産地表示、加工表示はトレーサビリティーは必要ないのか。
伝統工芸を定義したときに、原料についての明記が
各都道府県の行政単位がしなかったから
技術だけがその定義に沿っていれば、
原料が外国産だろうがまったく構わないなんて
状況があたりまえになっている。
しかし、町おこしのために、県の威厳を守るためにも
または国から補助金をもらうためにも、そんな
細かな定義は邪魔で、おおらかな定義が必要なのだ。
いまモノを買う人の中には、食品を買うのと同じように
モノも買っている人もいる。
こんな伝統工芸のもとを見れば見るほど
その原料までを、または0地点がどこなのかを
知れば知るほど?としか言いようの無いものが
堂々とまかり通って、雑誌やテレビや芸能人に
祭り上げられている状況がある。
国や県という行政の言う、大らかな定義での伝統工芸で
評価される者もいれば、より厳格な定義を求道する
人間もいるのが現実だろう。
つくるほうも、買うほうも、
0地点がどこなのかを知るべきだし、
伝統は常に進化させるべきだと思うが、過去から未来へと
まっすぐに貫いている核心の棒までを
変えたらそれはまったく意味のない産物だと言えよう。
戦後65年、
安保闘争から50年、
東京オリンピックから45年、
バブルがはじけて20年、
インターネット革命から17年、
リーマンショックから2年
全部を経験した人でさえ65歳または75歳だったら
10歳で終戦を迎え記憶があるはずだ。
そう考えるとこの日本という国は
意外にまだまだ若い国なんだと思う。
だから実は伝統なんてもんも
中国4000年の歴史と言っているような程度のもんかも
知れない。
だから伝統という言葉が危うさをもっているし、
伝統という言葉に甘えるのは危険だ。
常に時代の変化が需要と供給のバランスを変化させ
その影響は、一見間逆の位置にあるような
日本の伝統工芸といわれるものにも
多大な影響を与えてきたのだと思う。
それは農地解放で財閥が解体され
工芸のパトロンがいなくなったときと同じように
常に理解者、支援者、パトロン、ファン、
蒐集者、投資家は、常に工芸の世界と表裏だからだと思う。
時代に翻弄される思想は常にここから変化し
何らかの影響を作り手に与えているはずだ。
だから、ものをつくる人間であれば、
自分の思想が時代にどう翻弄され
再構成しているのか、そして
そのものの0地点がどこなのかを
考えて作るべきなのだろう。
沼尻真一