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にわか者 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


仕事をしていて常に思うことは、にわかが多いということだ。
とくに地方や田舎の業者には、そのようなにわか○○屋さんが多い。

相手はその道のプロだろうとこちらが信用していても、
結局出てくるものは、アマチュア程度だ。

どうして指示したものがこのようになったのかと聞いたら、
○○されていなかったなどと言う。
調べてみれば、それはちゃんと○○されている。

ボランティアなら文句は言うまい、しかし、
プロとして仕事をするなら、正確なものをあげるのが
またはそれ以上のものをあげるのがプロだと
師匠からは教わってきた。

そういえば師匠も出入りの業者の仕事の甘さに
いつも腹をたてていて、そんなときお前らもよく覚えておけよ。
と言った言葉がよくわかる。

業者の看板を掲げるなら、お上から指定業者になったとか、
資格をもってるとか、そんなものはどうでもいい話だ。
要は中身だ。
命がけで仕事をするぐらいの
覚悟と経験があってはじめて看板を掲げるべきだろう。
プロのプライドはどこへいったのだろう。
野球選手やゴルファーにしかプロのプライドは
ないとでも言うのだろうか。

なんでもコネで金にしたいのは分かるが
にわか○○屋さんは、必要ないのではなかろうか。


沼尻真一











 

日本好きなアメリカ人から   −    沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン
 

考えてみると、日本の教育システムは平凡な人間をつくるのが目的です。
言われた通りに平凡にやればいいので、日本人は、「平凡」、「つまらなさ」
というものに対して慣れています。
「つまらなさ」こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の
大きな弱点だということは言うまでもありません。

しかし、アメリカの教育システムの弱点もわかるようになりました。
「創造性を見せろ」「ユニークな人間になれ」という要求が
絶えずあるので、何でも創造的で面白くならなければならないという
ように思うようになってしまいます。
その考えが邪魔になって、結局シンプルなものを作ることに苦労します。

「人生を面白く」というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかも
知れません。大体の人の生活はつまらないものですから、失望するに
決まっています。一方、日本人はつまらなさに不満を感じないように
教育されていますので、きっと幸せかもしれません。

著者:
エール大学 日本学専攻、慶応大学留学、   
オックスフォード大学 中国学専攻し
京都・タイ・バンコクを中心に活躍する文化コンサルタントのアメリカ人。

                  *

ベーシック、シンプルを考える前に面白くなれ
人と違う人間に。ユニークに。
そんな視点でアメリカの文化をみることはどうだろうか。

故に、アメリカのデザインで面白いものが無い事や
アメリカ人が手段を選ばずにどこでも目立とうとする事が理解できる。

たとえ言葉にできなくても、行動できなくても、その「間」の中で、
様々な見立てが心の中で静かにできるそんなのが
日本人の中にはあたりまえに生きている。

能や茶というステレオタイプのものを熱心に信仰している
アメリカ人が日本の心を理解会得しようとしても、
手段を選ばずに目立つことが良いことなんて「下品」な生き方を
理解できない日本人がアメリカ人にはなれないように
それはファッションにしかならないだろう。

「一期一会」や「幽玄」を学ぶまえに入口の「品」について
学んでみたらどうだろう。

沼尻真一


















目盛りの単位について考える − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


目盛りの単位について。

平安時代を古いと思うかどうか。

古墳を掘るのを仕事にしていた小学生の時に
それまでなかったクラブを先生は僕たち
盗賊一味のためにつくってくれた。

名前は「考古学クラブ」

そんな盗賊一味のために今の小学校では
わざわざオフィシャルにクラブを作ってくれるのだろうか?
ゆとり教育なのだから、先生の頭にもゆとりがあるなら
作ってくれているのだろうと信じたい。

活動は
放課後まだ発掘調査の進んでいない
古墳に行ってとにかく掘りまくる。
そして土器を集める。

そして学校に持ち寄って、みんなで
見せ合うあるいは見せびらかす。
そんな活動だった。

なんてったって、学校公認のクラブとなれば
堂々と盗賊になれるのが利点だった。

古墳を掘って見れば、誰でもわかると思うけど
縄文土器は良く出る。
年代でいうと、約15000年前紀元前145世紀から
約3000年前紀元前10世紀というから、
途方もないくらい古い。

こんなもんが今だにあれば、平安だろうが奈良時代
だろうが奈良、京都を懐かしんでばかりなんか
いられないのも事実だ。

1000年単位、1万年単位の目盛りはどうだろう。

皇太子浩宮も留学した
オックスフォード大学の学長がアメリカ人の
留学生の入学に際して「植民地の者よ、怠けるでないぞ」といった。

200年以上も前にすでに独立したアメリカで
あっても第一の目的が学問にあるのではなく
人間教育にあるオックスフォードの
伝統には事実は何ら変わってはいないのだと思います。

これが「差別発言」となるだろうか。

つまり歴史の見出しはかわっても
積み重なった歴史の事実は
何ら変わらない、家も国も血も。
変わったからもう何も分からない、問われない
なんてことは無いのではなかろうか。

それもこれもあれもどれもみんなまとめて
事実を背負っていく、それが歴史ではないか。

古いことや伝統だけが良いということではなく、
戦前戦後ぐらいのたかだか50年ぐらい
目盛りの単位ではなく、もっと大きな単位で
国も家も血も見てみたって100年を去年の出来事に
したっていいようなものだろう。

NHKの大河ドラマの目盛りサイズでは
どうにも小さくなりそうなので、坂本竜馬ではなく、
縄文時代のドラマなんかも当たり前に制作して
朝からやってほしいと願うばかりだ。


沼尻真一





















 

知者楽水、仁者楽山  −   沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


知者楽水、仁者楽山

かしこい人は水を好む、やさしい人は山を好む


山の人は水田の灌漑をどうするかとか、
農業のために必要な集団社会の中での
人間関係の難しさに煩わされることがないため、
生活はたとえ貧しかろうとも心はゆったりとしています。

           *

先は今から10年前に日本に暮らしたアメリカ人が記した文章ですが、
農業が瀕死に迫るなか、農村においては、
今でも村社会の決まりがあるのも現実です。
治水、灌漑、牛馬を使った農業、村の人手で
行った茅葺や収穫などで村社会の人間関係が
生まれたのだろうと思います。

しかし農村でなくとも都市で生きたとしても
人間関係の煩わしさは別の意味で表れます。

人にとってもある空間に対して、息詰まる距離ではなく
適度な距離感が必要なのかもしれません。

元をただせば内需が必要と言いながらも
環境対策で住宅建築の推進をはかる政策では、
塀に囲われた過密地域に住ませることしか
考えられていないことは残念でなりません。

日本中、山道も綺麗に舗装しているのであれば
日本の都市計画から規制緩和をする必要があると思います。

人も植物なのだから、どこに住むのが一番心地よいのか
それは誰の目にも明らかです。

沼尻真一


















 

大杉神社・麒麟門竣工祭・あんばさま・阿波様/市川久仁守宮司 − 沼尻真一 

JUGEMテーマ:アート・デザイン




ついに大杉神社の麒麟門が完成を迎え
今回、麒麟門竣工祭に参列させてもらった。



麒麟門は1747年に焼失して以来、
大杉神社にとっては実に280年ぶりの復興となった。
市川宮司さんが就任されてから20年以上という
年月のなかでついに麒麟門までもが完成した。





麒麟門の二階中央の扁額の文字は
これまで参拝者のいくつもの夢を叶えてきたことに由来し
「夢顕」とあるが、まさに神社自体が門の完成によって
薫化したということだろう。





平成22年
西では平城遷都1300年
「日本のはじまりの奈良」大極殿正殿も
同じように復原・公開される。



立春が過ぎ、平成22年がはじまるなか
基礎を示す 22 という数字の中で興っている
これらの礎となる出来事は数の専門家には
必須なのだろう。

せっかくの年なので、こちらもひとつ
jこれから先の、礎づくりの年と参りませう。


沼尻真一
















最期の職人 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

 
旅先では思いもかけずに
これまで自分の探していたものと出会う場合があります。
それはひと月越しであったものや、もうかれこれ
三年越しのものまで様々です。

特別に探しにいったわけではないのですが、
ちゃんと目の前に現れるものなのだと感じます。

一度はお店の前を通りすぎてしまっても
レンタカーをUターンさせても戻ってしまう。
思ったとおりの職人の方や、主の方と出会う。

修行先の明治の職人のようにただ厳しいだけでなく、
奥ゆかしさを出したかったのだけど、
あの厳しい時代に生きた人にしか出ないもんだと、
75歳になる現役の職人さんが
話してくれました。

職人のものの見方、ものの使い方を教えてくれる。
足指の長さは、足も手の一つだと教えてくれました。
手も足も本当に美しく。

いまの自分にできることは、
自分の体が覚えるまで使いこなすことだと感じています。


沼尻真一













幸せの黄色いハンカチ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩

 
森や水、太陽の光、雄大な山、
そのような環境が植物と同じように、
人の心も育てている。

幼い頃に見た故郷の原風景は、
一生その心の中に宿り、
そんな場所にいつかまた
人は戻っていくのだろう。

故郷と同じような環境のなかで、
できれば仕事と生活が調和できるように。
そのための何かが見つけられたら、
いつまでも懐かしい
故郷も共に喜んでくれるのでは
ないかと思います。

沼尻真一

・「幸せの黄色いハンカチ」1977年松竹映画





































軽薄草々 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩
 

男女同権でいかなる場所にも同席して憚らず、
小さい物より大きい物、短い物より長い物、
質よりも量が優先し、心よりも物が人を支配する時代と
なりました。

何が高級で何が低級かも分からない。

箍(たが)の弛んだ桶の中の水がじわじわと低きに
低きに流れ出して、やがて元も子もなく
空っぽになって行くのに気付かないでいる。

             *

見てはいけない場所が男女ともにあるように、
男になりたい女も、女になりたい男もいますが。

中途半端にいいときだけは、女で男で
分が悪いときには、やっぱり男で女じゃ、
そんな都合のいい性の持ち主はやっぱり銭湯に入れる
5歳児と同じ頭だろう。
邪気のない5歳児にあまりに失礼だ。
男性、女性、中性という分類をつくれば
多くの問題が解決できるに違いない。

好奇心旺盛なんてのは、世間や人間と動物の
境が分かっていない言い訳にしか過ぎない。
獣でさえもライオンの群れに入っていく孤独な鹿はいない。

矛盾はこの世からなくなることは無かろうが、
通せる筋というのものが、
獣にはなく、人にできることではなかろうか。

男性、女性、中性の前に。


沼尻真一


























漬物の心 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン
 

個性的ということばの上に胡坐を書いて、
てんでんばらばら、ただ暴れているだけだろ。

それにならって、一般大衆までがさ、我われもと
直ぐに書きたがり作りたがり、まるで檻のない動物園の運動会だよ。
少しゃあ、我慢ってことの修練をしたらどうなんだ。

抑制をすることの苦しみというものを味わったら。

忍ぶことも、味わうこともろくすっぽう知らないで、
一寸見たり一寸聞いたりでもう描きたい作りたいだろう。

趣味というものなら、もっと品が良くて高尚でなきゃあ
ならないだろうし、職業ならもっと厳格でしっかりしてなきゃあ
ならないものだろう。

             *

蔵の中で収穫された白菜に塩を振り、木樽に
重ねて、塩を振り重石をのせる。
それは韓国のキムチも同じようにつくるのだろう。

瓜は竹べらで中の種をかっぱいて空洞にする。
収穫した青唐辛子をつんできた青紫蘇で巻いたものを
この空洞のなかに詰め込む。
白菜と同じように、木樽に詰め込む。

古漬けにしたかったら、土に埋める。

白菜だって、瓜だって、生は美味しくない。
熟成という抑制、
厳格な儀式だけが心を生むことがある。

漬物をつける先人の姿は、
金にまかせ、暇にまかせ、手っ取り早く
開けっぴろげに、わかりやすく
自分の欲求を満たして処理しようといものが
実は何も満たさず不満に繋がっていることを気づかせる。

我慢ってことの修練と
忍び味わう心からしか解放されることのない
厳冬からの芽吹きをいつでもどこでも
その気にさえなれば、楽しむことも味わうことも
できるという事を教えてくれていたようだ。

心の土の熟成からしか生まれない美しさを
残された重石たちは教えてくれているようだ。



沼尻真一

















濱田庄司展 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



それは幼きころに見た美と

さまざまな国や地域の美を

ひとつのヒモのように

祈りを込めて編んだ業である。



型や思想よりはみださぬ事は、こちら側には頑なに
感じるが、その不自由な抑制された中で、もんどりうって
格闘する美は、さらに深さが増しているように思える。
 
不偏であったはずの思想が時代の影響を受けた際の
心の強弱の変化が読みとれる。
勲章が作風を固定してしまうことは
自由奔放な作陶精神に影響をあたえることも事実のようだ。

この堂々とした用の美はもはや凡人や小人の
ものでなく巨人のための用の美ではなかろうか。
それも一向に構わぬ。

紋様は祈りであり、姿は堂々として
自然から生まれた土に
施す釉は偶然性の美の追求である。

いやそれは偶然性の美の追究ではなく、
濱田が言っているように
「作ったのではなく、生まれた。」生むための業なのであろう。

意識の中に潜在した美と、
自然という意識を超越した気配との調和を作者が意識したときに
もはやそれは誰のものでもなく、
自然に帰依するべきものであったのだろう。
 
「どこから生まれ、それがどこへ帰るべきなのか」

それを知れば
濱田庄司の目指した場所が私にも見えてくるのではなかろうか。


沼尻真一