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アート・デザイン17インチデザイナーという言葉は、MACの画面以外の余白を
デザインしていないデザイナーに対して、良くつかわれていました。
イラストであってもそうで、依頼されたサイズ以外は描かない
というのもわかりますが、どこをトリミングするか編集者が迷うぐらい
描いてみるという意識も必要だと思います。
実際、何度かの仕事では倫理規程?に違反するような
絵を依頼された画面の外に描いて編集者の方に渡した事もありました。
田舎ではグラフィックデザイナー?ってわからないので、
僕の師匠も田舎に帰って親戚と集まったら、決まって印刷屋、広告屋と
言われると呟いていたのを思い出します。
ましてアートディレクターやクリエイティブディレクターなんて
いったら、何かとっても怪しげでもありますし。
しかし実際その怪しい不確かな部分まで読み取れなければ
本来デザインなんてできないとも思います。
MACの前に座って、線や絵や写真、文字を加工してレイアウトするのは
デザインではありません。
むしろそんなものは、ソフトが進化した現代であれば、誰にでもできます。
ましてWEBデザインなんて、あってないようなものに感じます。
つまりそれらは、絵具の一つで道具でしかないのです。
なので、今は道具をいかに巧みに使って表現されたかという
事には一切興味がなくなっています。
実際デザインに対する意識は社会的にも年々高まり、
建築や印刷物は相当にデザイン化されたと思います。
しかし好みは別として相当手のこんだ、洗練されたデザイン、触れても、
まったく感じないものもあるのが現実です。
きっと色や線や文字・写真に表れない制作者の「思い」みたいなものが
どこかにちゃんと反映されていて、それを見る人や使う人は
以心伝心受けっとって感じるのだろうと思います。
むしろ、今はどんな表現をやるにしても
生まれる必然性に出会えるか見出せるか
どうかが大切だと思います。
当然途中から方針が変わって生まれる必然性が
ない場合もあります。
仕事なんだから、食っていかなきゃしょうがないのは誰でも同じですが、
しかし身と時間を削るデザインが、のべつまくなく体力が持つはずもなく、
以前建築でも申しましたが建築家がいくつ建築をすれば気がすむのか?
と同じわけですが、一つでも自分の納得する作品が生まれれば
筆を絶つ必要もあるだろうと生意気に思います。