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五色 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



無意識に選んだ五色のじゃがいもをみていて
日本のなかに根付く、この「五つ」は
どこから来たのか考えてみる。

中国で生まれた五行思想は、当時五つの惑星が
発見されていたことから生まれたといわれ
木、火、土、金、水という5つの元素から
万物は成り立ち、互いに影響を及ぼしながら
天地万物が循環していくという自然哲学である。

ここから、数多くの切り口に「五つ」を
用いるようになったと言われる。

五徳:仁 礼 信 義 智

五獣:青竜 朱雀 黄麟 白虎 玄武

他に五臓、五指、五味、五重塔など
五つにちなむものが
世の中には多数存在している。

日本人が一番好きな番号が5であると
言われ、車の番号も5が多いというのもわかる気が
するが、なんでもかんでもそれではなく
実は自分に最もふさわしい数霊があると思う。


沼尻真一






























 

忘れられる日本人 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン




気温18℃快晴。

春の陽光を浴びる街を歩くと
そこにはただ無口に佇む街並みがあった。

誰にも言おうとしないで、あたりまえのように
そこに突っ立っているものを見入る時に
だいぶ忘れてしまった何かを、
てめぇのまなこに突きつけられるように
それらは突然に姿を表した。



もうアメリカ人にでもなったように
自分たちを忘れた。

冬のオリンピックは白い雪上に
アドレナリン出っ放しのアバウト欧米人に
敵うはずもないだろう、
彼らにはきっと赤い雪に見えるのだから。

しっとり深々と庭園でも見ながら
雪見酒の方が僕らにはやっぱりましだろう。

肩書きや学歴、経歴、アカデミー賞に
グラミー賞、ノーベル賞そんなものが
生きていくためにいつから必要になったのだろう、
見ない振りして、どこかでそれを意識し擦り寄る。

       *





ただカタコト

ただゴトゴト

ただ黙黙としていた。

それらは、ただ活き活きとしていて
そしてお年寄りになっても矍鑠としているのだ。






どんなに豪華なマンションより、車より
君は潔く自然で美しく、
そして二度と生まれはしない。
だから誰も君を死ぬまで忘れないし、
君は心の中で永遠なのだ。




仮初の美しさや金や地位や名誉に
囚われ流される毎日ほど悲しいものはない。
真実が何かを、人は本能で自覚しているから
看板を下ろしてみれば、実は一人悲しく不安になる。

何かを選んで、何かを拒絶する、別の道を歩む、
どう考え、どう付き合うかそれが大事だ。

学校の社会でもあえて教えないであろう
「民族」だが、
一人考える価値はあるだろうと僕は思う。




沼尻真一

















































 

じゃがいもの栽培 − つくばハーブ農園

JUGEMテーマ:アート・デザイン






シャドウクィーン、じゃがキッズパープル、
インカのめざめ、ノーザンルビー、シェリーP
合計5種類のじゃがいもを農園に植え付けた。

種芋には2つの芽を残せば十分なので、
一つの種芋からカットして4つ以上の種芋をとることができる。
慣れないうちは、どうしても2等分ぐらいで種芋を
植えつけてしまう。



幅60cmの畝立てを畑につくり、
そこに、深さ15〜20cmの溝を掘り、
30cm間隔で種芋を植え付けていった。



カットした種芋を腐らせないためにも
切り口に草木灰をつけたほうが良いので、
今日はあわせて芝に火を放ち、
その場所にできた灰を利用して、種芋に塗りつけた。

約300坪の芝生でも、ものの10分もあれば
一気に、炎で焼きつくすことができる。




春先の農作業では、たくさんの鳥たちと出会う事ができる
モズ、ハクセキレイ、山鳩、キジ、ジョウビタキ
など、農作業で土が返ったところに表れる虫を
狙って、すぐそばまでやってきた。

今日植えつけたジャガイモは、
今年7月10日に開催される
カオンつくばハーブ農園の実習で芋ほりを行う。

※今年は「水蒸気蒸留法」を行い、フレッシュハーブから
  オリジナルのハーブウォーターを抽出するワークショップを行う。



農園長































 

眼は眼に非ず − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


お茶を習って講釈を聞くから、
変てこな茶碗が茶碗に見えてくるのです。

思考を用立てるから美なら美が見えると思っている、

確かな眼というものはそこから新しい思考を逆に導き出し
従来の古い思考や言葉を左右する事ができます。
既に茶碗が見えているから ー 習わずして彼は茶人なのです。

眼は常に正しからんとして模倣を強要され、
我われの眼玉は信じられない程徐々に、こうして段々と
思考に征服されています。
形象のなかに観念を刻みつけるのが、文学技術の最終の
段階だとバルザックはいいました。


                        *

誰が書いた、誰が作ったということばかりに
頭が先に動いてしまい、あの人が作ったのだから
すべてがすばらしい作品だろうと思いがちです。
そして古いものにもすべて骨董的な価値があるだろうと。

ピカソやゴッホにだって駄作はあります。
ただ著名な作家だけに商取引の
商品としての価値は高いというだけです。

相当に私たちの頭が先に、すでにものを見ていて
眼はそれを、褒めどころや知ったかぶりを
補っているようにしか機能していないのでしょう。

山の上に登り雄大な自然を見たときに、
それが誰がつくったものかなど、
私たちは考えたことがありません。

ただ、ただその場所の風や温度や空気感を
すべての五感で感じているだけなのです。

自然を感じ見るときと同じように、
褒めどころなどわからずに、言葉を失うように、
モノをみれるようになれたら
もっと心地よいものが私たちの
身近なモノに際立ってくることもあるはずです。

何となくわからないけど、心地よく
無口にころがっている松ぼっくりだって
国宝級の価値はあるでしょう。


沼尻真一














価値 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



モノにも人にも価値がある。

同じ人やモノでも価値があるときもあれば
価値がない場合もある。

金額が安い高いで判断する人間は
人の場合は利害関係のある人間から大事にしてゆく。
年をとればなおさらだ。
信じられるものが、金になり名誉になるのだろう。

いくら年を重ねても結局、価値を見出す術を
自分に持てなければ
結局は、金額の大小、有名無名、流行など
世間の煽りの中に飲み込まれいく。
それもブロイラーのように
考えなくて済むという利点は確かにある。

しかし、刺激の塗り重ねと、消費の中に身を投じて
自らの価値さえ失っていくことは、
そのような年を重ねた人間を見てきて
自分にはまったく魅力を感じなかったし、
むしろ寂しい限りだと感じている。

親でも友人でも価値を教える人間はもはや誰もいない、
頭の奴隷にならずに、価値のあるものを
(形なるもの、心にあるもの)それらを見出すためには、
結局、自らの眼を心を養い、紡ぎだすことしかないのだろう。

誰しも肉体と心2つが両方必要なのだから。
つくり笑顔をせぬように。














































かくれんぼ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩


美の源泉も自然であり、
美味の源泉もまた自然にある。
              *

かくれんぼ、誰でも子供の頃に遊んだと思う。

息をひそめて気配を消して、
しんと一人になる、そんな時に
さっきまで聞こえていなかった呼吸や
竹葉の音、風の匂い、樹皮の感触など
かくれている自分の周りの気配を
感じたことがあるだろう。

子供の遊びが、実は自然と一体となったり
気配を消したり、鬼や仲間との
以心伝心の方法だったり。

静かに息をひそめ、じっと見つめるだけで
今までかくれていた自然を
今はもうすっかり大人になった鬼も
見つけることができるのだろう。

                 *

「かくれんぼ 息をひそめて 一人になった」

                                                      沼尻真一











 

心術 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


少しずつでも古人の心が読めて来ると実にうれしい。
それというのは、自分も古人のように
心で仕事をしてみたいと思うからである。

心あっての形である。

芸術というのは心術といった方が
解りやすいのではないかと思うのであります。

        *

古の作者の心を読む。

以前、蔵の流儀で紹介しましたが、
今僕たちの身の回りにあるすべてのモノには
作者が必ずいます。

気に入っているものであれば、作者がどんな
気持ちでそれを作ったのか知りたくなる事態に
出くわすときがあります。

家の西にある竹林は
乾いた畑の土をさらいながら飛んでくる
春先の南風を避けるためだとやっと気づきました。

蔵の場所がなぜ母屋に対して西北にあるのか、
すべてが必然性があってそこに存在していました。

お気に入りの眼鏡も、街でみかける生垣も
そして器も漆器もそれらはすべて作り手の意図が
あるものです。

当然作者と出会う機会に恵まれることは稀なのですが、
それが少しでも通じたときには
古の作者や家主の心に触れたような気持ちにもなります。

作り手の心が聞こえてきたら良いなと、僕は思います。

沼尻真一


































137億年の宇宙 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



137億年の宇宙なのだから
137億年2月12日とすればいいのにと思う。

いや宇宙ではなく地球ができてから
44億年なのだから
44億年2月12日もありかもしれない。

いずれにしても西暦ではなく
宇宙歴や地球歴から見れば
人類の歴史はまだまだ浅いと感じる。





































意匠者の定義 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン




17インチデザイナーという言葉は、MACの画面以外の余白を
デザインしていないデザイナーに対して、良くつかわれていました。

イラストであってもそうで、依頼されたサイズ以外は描かない
というのもわかりますが、どこをトリミングするか編集者が迷うぐらい
描いてみるという意識も必要だと思います。
実際、何度かの仕事では倫理規程?に違反するような
絵を依頼された画面の外に描いて編集者の方に渡した事もありました。

田舎ではグラフィックデザイナー?ってわからないので、
僕の師匠も田舎に帰って親戚と集まったら、決まって印刷屋、広告屋と
言われると呟いていたのを思い出します。

ましてアートディレクターやクリエイティブディレクターなんて
いったら、何かとっても怪しげでもありますし。

しかし実際その怪しい不確かな部分まで読み取れなければ
本来デザインなんてできないとも思います。
MACの前に座って、線や絵や写真、文字を加工してレイアウトするのは
デザインではありません。

むしろそんなものは、ソフトが進化した現代であれば、誰にでもできます。
ましてWEBデザインなんて、あってないようなものに感じます。
つまりそれらは、絵具の一つで道具でしかないのです。

なので、今は道具をいかに巧みに使って表現されたかという
事には一切興味がなくなっています。

実際デザインに対する意識は社会的にも年々高まり、
建築や印刷物は相当にデザイン化されたと思います。
しかし好みは別として相当手のこんだ、洗練されたデザイン、触れても、
まったく感じないものもあるのが現実です。

きっと色や線や文字・写真に表れない制作者の「思い」みたいなものが
どこかにちゃんと反映されていて、それを見る人や使う人は
以心伝心受けっとって感じるのだろうと思います。

むしろ、今はどんな表現をやるにしても
生まれる必然性に出会えるか見出せるか
どうかが大切だと思います。
当然途中から方針が変わって生まれる必然性が
ない場合もあります。

仕事なんだから、食っていかなきゃしょうがないのは誰でも同じですが、
しかし身と時間を削るデザインが、のべつまくなく体力が持つはずもなく、
以前建築でも申しましたが建築家がいくつ建築をすれば気がすむのか?
と同じわけですが、一つでも自分の納得する作品が生まれれば
筆を絶つ必要もあるだろうと生意気に思います。


























































 

日本庭園 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン






日本庭園は自然を見立てている。
滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、
石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や
蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。

家と庭から家庭という言葉が生まれているように、
家と庭には密接な関係があるように思う。

この池では僕が小さいころは、錦鯉を飼っていて
錦鯉を飼うのにはメンテナンスが大変なので、
小学校ぐらいからは金魚やメダカを孵化させながら飼っている。

昔から何人もの子供たちがこの池に落ちたか分からない。
当然僕の友達も落ちているし、自分も落ちたことがある。

不思議とその瞬間瞬間落ちたシーンが思い出される。

茨城弁では

「おめぇ 池につっぺたんだしけか?」

「んだ、おれ池につっぺっちったよ」

となれば、よろしい。


沼尻真一