600年(推古8年)〜618年(推古26年)推古朝の俀國(倭国)が隋に
18年間に5回以上派遣派遣した遣隋使。
遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、20年に一回派遣。
遣隋使、遣唐使を通じ、飛鳥、奈良、平安そして鎌倉、室町時代から
「遠い国の宝へのあこがれ」、唐物崇拝が
日本国内で脈々と育まれていた事が
今の日本の文化の礎となっていると思います。
しかし、文化というたいそうなものだけが特別なわけではなく、
万物熟成されれば腐らせるか、ミイラにするかの選択になるでしょうから、
唐物崇拝が熟成されるなかから、唐物から和物への転換期が
必然的に訪れる事になったのだと思います。
流行しすぎれば、また人と違ったものを持ちたくなるのも人情。
先日、ディーラーの方から聞いたように、、メルセデスが
日本で売れなくなったのも希少価値の低迷ではないでしょうか。
このように、500年後のいまも日常的にどこにもある輪廻です。
室町時代の茶人。わび茶の始祖村田珠光
応永29年1422年 - 文亀2年(1502年)が、
弟子の古市播磨法師 (古市澄胤のこと) に宛てた手紙は
日本人が唐物崇拝から明らかに意識が変化した事を
表していると思います。
この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。
功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。
功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。
この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。
また、当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、
信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。
かるる(枯るる)ということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、
心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。
また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。
いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。
ただ、我慢我執が悪きことにて候。
または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、
心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。
◆訳文
この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。
達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての他ではないか。
本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ
育ててやるべきであろう。 そしてこの道でもっとも大事なことは、
唐物と和物の境界を取り払うこと。
(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。
さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が
備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、
名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。
「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、
心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
これこそ茶の湯の面白さなのだ。
とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。
たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。
それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。
しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、
わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな) と古人もいう。
(現代語訳 能文社 2009)
高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の
中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれる安価な青磁が代表的)などの
粗末な道具を使用し、珠光の弟子の宗珠、武野紹鴎らがわび茶を発展させ、
千利休がこれを完成させたと考えられています。
珠光が行った事は、一説には唐物が無い事を憂うことにより
わびる、さびるという精神が生まれるという話を聞いたことがありますが、
僕が思うにはそれは
「無いが心にある」 「心の目にはそれが映る」
つまり
心と物がイコールのような関係になれる方が、むしろ健やかなり。
だから清々しい。
という見立てなのではないかと感じています。
○心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
(現代語訳 能文社 2009)
初心者だけが核心を突くことができる世界があります。
知りすぎて一生外周を回る人生があります。
僕はやはりどこかに意図的に欠けをつくって、
伸び代や無邪気な子供心が必要なのではないかと思います。
○たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。(現代語訳 能文社 2009)
以前話したように、今から100年近くも前に柳宋悦さんが
なぜ日本の茶道に警鐘をならしたのか?
その答えの鍵が、今回の日本の文化の流れにあるように
現時点では思います。
本来は高価な唐物名物を用いた茶の湯への反抗であり、
楽茶碗や竹製の花生、量産の漆塗り茶入である棗といった
安価な道具を用いるものであったが、江戸時代に家元が権威化すると、
箱書や伝来、命銘などによってこれらの道具も名物へと転化してしまった。
また近代以降は大寄せの茶会の普及によって、
本来草体である小間の格式が上がってしまい、
真体である唐銅の花生や唐物茶入を好んで小間に用いるという
逆転現象も発生している。
僕てきに言えば「侘びがさびれば華が咲く。」
流行追う事は無意味でしょう。
茶、華、能などなどさらに細分化され形骸化されつくした
日本文化が村田珠光の室町時代と
同じように、いま臨界点に達していると思います。
形骸化したミイラで永久保存し崇拝するか、
とことん腐らせてこぼれ種からその土になじんだ
自己流の作物を作るか。
それがこれからの日本文化の見所なのではないかと思います。
沼尻真一