profile
selected entry
categories
links
archives
others

心の文 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


600年(推古8年)〜618年(推古26年)推古朝の俀國(倭国)が
18年間に5回以上派遣派遣した遣隋使。

遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、20年に一回派遣。

遣隋使、遣唐使を通じ、飛鳥、奈良、平安そして鎌倉、室町時代から
「遠い国の宝へのあこがれ」、唐物崇拝が
日本国内で脈々と育まれていた事が
今の日本の文化の礎となっていると思います。

しかし、文化というたいそうなものだけが特別なわけではなく、
万物熟成されれば腐らせるか、ミイラにするかの選択になるでしょうから、
唐物崇拝が熟成されるなかから、唐物から和物への転換期が
必然的に訪れる事になったのだと思います。

流行しすぎれば、また人と違ったものを持ちたくなるのも人情。
先日、ディーラーの方から聞いたように、、メルセデスが
日本で売れなくなったのも希少価値の低迷ではないでしょうか。
このように、500年後のいまも日常的にどこにもある輪廻です。

室町時代の茶人。わび茶の始祖村田珠光
応永29年1422年 - 文亀2年(1502年)が、
弟子の古市播磨法師 (
古市澄胤のこと) に宛てた手紙は
日本人が唐物崇拝から明らかに意識が変化した事を
表していると思います。

この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。
功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。

功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。
この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。

また、当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、
信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。
かるる(枯るる)ということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、
心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。
また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。
いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。
ただ、我慢我執が悪きことにて候。
または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、
心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。


◆訳文

この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。
達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての他ではないか。
本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ
育ててやるべきであろう。  そしてこの道でもっとも大事なことは、
唐物と和物の境界を取り払うこと。
(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。

さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が
備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、
名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。

「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、
心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。

これこそ茶の湯の面白さなのだ。
とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。
たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。

それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。
しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、

わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな) と古人もいう。

(現代語訳 能文社 2009)

高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の
中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれる安価な青磁が代表的)などの
粗末な道具を使用し、珠光の弟子の宗珠武野紹鴎らがわび茶を発展させ、
千利休がこれを完成させたと考えられています。


珠光が行った事は、一説には唐物が無い事を憂うことにより
わびる、さびるという精神が生まれるという話を聞いたことがありますが、
僕が思うにはそれは

「無いが心にある」  「心の目にはそれが映る」

つまり

心と物がイコールのような関係になれる方が、むしろ健やかなり。
だから清々しい。

という見立てなのではないかと感じています。


○心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
(現代語訳 能文社 2009)


初心者だけが核心を突くことができる世界があります。
知りすぎて一生外周を回る人生があります。
僕はやはりどこかに意図的に欠けをつくって、
伸び代や無邪気な子供心が必要なのではないかと思います。


○たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。(現代語訳 能文社 2009)

以前話したように、今から100年近くも前に柳宋悦さんが
なぜ日本の茶道に警鐘をならしたのか?
その答えの鍵が、今回の日本の文化の流れにあるように
現時点では思います。


本来は高価な唐物名物を用いた茶の湯への反抗であり、
楽茶碗や竹製の花生、量産の漆塗り茶入であるといった
安価な道具を用いるものであったが、江戸時代に家元が権威化すると、
箱書や伝来、命銘などによってこれらの道具も名物へと転化してしまった。

また近代以降は大寄せの茶会の普及によって、
本来草体である小間の格式が上がってしまい、
真体である唐銅の花生や唐物茶入を好んで小間に用いるという
逆転現象も発生している。

僕てきに言えば「侘びがさびれば華が咲く。」
流行追う事は無意味でしょう。

茶、華、能などなどさらに細分化され形骸化されつくした
日本文化が村田珠光の室町時代と
同じように、いま臨界点に達していると思います。

形骸化したミイラで永久保存し崇拝するか、
とことん腐らせてこぼれ種からその土になじんだ
自己流の作物を作るか。

それがこれからの日本文化の見所なのではないかと思います。


沼尻真一

















勅使河原三郎・高山宏・川瀬敏郎の美学それは「記憶の中の京都」 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


清少納言も芭蕉も「変化の小ささ」、葉っぱの色づきのような
季節の変化のちょっとした「うつろひ」「しをり」「ほそみ」に
感じる微妙な変化を一瞬で掬い上げる言葉を表現しています。

それはポップで分かりやすいものではなく、
ごく薄味の中にあるトップ、ミドル、ベースノートのように
重なり合うコクと、バランスを外すスパイスが
三人の共通点であると感じました。

誰の中にもある「記憶の京都」、
それは高山さんや川瀬さんの話を聞いて、
もはやその見立ては、日本人よりも
フランス人やイギリス人の方ができる時代に
なってしまったのかもしれません。

「食と農」、「着物と日本人」、「日本文化と日本人」などが
今や日本人にとって、外国人以上に遠く離れてきているように思います。
その原因は、農や着物も、茶も華も日本では
もはやその世界に生きる特別な人のものであって、
触れてはならないアンタッチャブルな存在になってしまった事が
原因だろうと思います。

しかしそれも建築の垂直を信じない勅使河原さん的に言えば、
信じてはいけないのだと思います。

勅使河原さん、高山さん、川瀬さん三人に共通しているのは、
どの事柄にしても、原点や始祖に立ち返った視点だと思います。
はじめの一歩から、形骸化された型などあるはずがなく、
そうすることで何も特別な事ではないと分かります。

内側で一緒に流されてしまった日本人よりも、
イギリス人やフランス人のように、「記憶の京都、記憶の日本」
のイメージを持っている方が、
日本人以上に萎縮なく、スムーズに日本文化を
見立てることができる時代になったのかも知れません。

「華を自然界から切り器に入れることで、さらに命を引き立てる。」
という川瀬さんの言葉と作品を見たときに、
神々しい違和感を感じました。

自然をリスペクトすると言うことは、自然をそのまま表現する
事ではなく、つまり「似て非なるもの」よりは、
非日常性、つまり神々に捧げるための違和感が
作品の中に生まれているのだと思います。

それが川瀬さんの作品には、バックグラウンドに隠れているのに、
自然に見えてしまうというのは、川瀬さんが言っていたように
実は私たちの「錯覚」なんだと思います。

なぜ錯覚するのか、それが個々の中にある
「記憶の京都・日本」が働き出すからだと思います。

勅使河原さんは、不可解なもの、不確かなものに
かかわり合うことで学んでいると言っています。、

つまり「記憶の京都」は
花札や着物、陶器、漆器などあらゆる日本の工藝品の
絵の中に、反映されているといえますし、誰の中にも
それは存在しているものだと思います。





























そのモノクロ写真は、雪が降る横浜ホテルニューグランド − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


写真は独学だから、何一つ教わったことがありません。

見る人に気分やムードを伝えることができればいいなと思って
いつも写真を撮っています。こんな携帯のカメラでも。




大学4年の頃にそれまで撮っていた写真を集めて
個展というほどではないですが、展示をしたいと思い、
一度真剣に準備をしたことがありました。
それも冬でした。

結局は個展のやり方も知らない、急な思いつきだったこともあって、
開催することができなかったんですが、
その時の友人が一生懸命準備を手伝ってくれた事もあり
その友人の友達が、写真を気に入ってくれて
購入してもらうことができました。

自分の作品が売れたのは、中学の時以来二度目だったので、
写真は初めてでしたので、本当に嬉しい思い出です。

その写真は、雪が降る日にモノクロで撮った
横浜ホテルニューグランドだったと思います。

ちょうど今ぐらいの時期のような気がして、
あの写真は今どうなっているんだろうな?と
首都高を横浜へ向かうたびに思い出します。


























茨城県の真壁は美瑛か?エジンバラか?− 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


先日紹介した、北海道の美瑛に似た風景を持つ、
茨城県真壁の風景をまた通りかかったので撮影してきました。



山裾に見える森は、すべてクヌギの森で、10月の紅葉時には
紅や黄色に紅葉していて本当に美しかったです。

緩やかな丘が続いていて、遠くの山並みと森そして川のある場所です。

この日もいつものように誰も周りにいなくて、たまに通る車から
なんでこんな所で写真を撮っているのか?という目でみられましたが、
この日は12月のうす曇ですが、こんな曇天の空と草原が
僕にはイギリスの草原の景色ようにも感じます。

オープンカーでこの辺りを走れたら、
どんなに気持ちがいいだろうと想像していました。






















遣唐使から、日宋貿易そして、宋代の白磁へ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン

遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、
20年に一回、当時の先進国であった
の文化や制度、
そして
仏教の日本への伝播に大いに貢献した事は
良く知られています。

唐が滅んだのちも、唐の後の宋(
960年 - 1279年)の
宋商船は三十数回も
肥前国大輪田泊(現在の神戸港の一部)へ
来航し、
日宋貿易を通じ、鎌倉時代には多くの宋人が住む
博多が拠点となり貿易が行われました。

宋側からは「唐物」といわれる
香料陶磁器書籍
南海産の鳥獣・医薬品・銅銭などが輸入され、
日本からは
刀剣・水銀・硫黄(いおう)・木材・
砂金などが輸出されていました。

僕の教科書でもある、宋代・白磁の杯も
おそらく
960年 - 1279年この辺りの輸入によって
日本に入ってきた可能性があります。

とくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、
最新の建築・
土木技術禅宗は日本の社会経済・
文化の諸分野に多大な影響を与えていました。
それにともなって、僧侶のなかには宋商船に便乗し
入宋する者もでてきたそうです。

1072年の入宋中の成仁(じょうじん)の日記
「参天台五大山記」には、神宗皇帝に謁見して
日本国が漢地のものを必要とする物貨は何か?との問いに
「香、薬、碗、錦、蘇芳(すほう)」なりと答え、日本における
唐物崇拝の実情が伺えます。
それ以降平安後期から、鎌倉時代も
唐物崇拝はまったく衰えることはなかったようです。

鎌倉時代(1185−1333)末期の元徳、元弘ごろに書かれた、
吉田兼好の「徒然草」にも記録が読み取れ、
吉田兼好にゆかりのある金沢文庫を発展させた
北条一族の武将で、金沢貞顕の墓石から発掘された骨壷が
宋の官窯で焼かれた、砧の青磁の壺であったという
エピソードも当時の唐物趣味が伺えます。

















































軍人会館/九段会館は青山同潤会アパート、銀座奥野ビルと同じ −  沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン

日本武道館、靖国神社のすぐ近くにある
軍人会館・現在の九段会館に仕事で行きました。

この軍人会館は、二・二六事件では、
戒厳司令部が置かれた場所としても有名です。




軍人会館は、軍の予備役・後備役の訓練、宿泊を目的に
1934年、竣工されました。

軍人会館の設計者は現在の表参道ヒルズの場所に
建っていた同潤会アパート、銀座で現存する奥野ビルなどを
設計した川元良一氏です。



・鉄扉

昭和初期の西洋モダニズムに対抗して
日本でつくられた帝冠様式(ていかんようしき)という建築様式で、
現代建築に和風の瓦屋根を載せた和洋折衷の建物ですが、
凛とした佇まいがあり、洋の洗練された感じと、和の荘厳さが
うまく同居した雰囲気は、現代のビルによりもはるかに
深みのある建物として感じました。

同じ設計家だとは後で知りましたが、
青山同潤会アパートと、奥野ビルのどちらにも
入ったことがありますが、やっぱり共通しているのは
荘厳な雰囲気のなかにも、どこか明るい
モダンさを感じることができます。

確か、旧茨城県庁も同じ雰囲気を持っていました。

シルクロードなどもそうですが、大陸の端にはやはり
エネルギーや文化が集約され、
そこに文化の化学反応が起こるところから見れば、
日本人の和洋折衷の技術は、
地形的に見ても当然の結果といえるのかもしれません。


































形見分けが、僕の教科書/宋代・白磁の杯 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


「宋代・白磁の杯」


これが僕が頂いた形見分けであり、教科書です。

人生の節目に杯とは縁起が良さそうで。

・宋という時代はいつでしょうか?

・白磁はどのように生まれたのでしょうか?

こんな小さな湧き水から出発ですが、

いつか長江に辿りつく日のために、

自分なりの方法で、1000年の歴史を

これから少しずつ遡っていきたいと思います。

沼尻41



















ロック魂のある干しいも・乾燥芋の聖地 − 茨城県ひたちなか市「ほしいも工房きくち」、東海村「照沼勝一商店」を訪ねて/沼尻真一


 




全国一の生産量をほこる、干しいものふるさと。

茨城県ひたちなか市、東海村へ茨城県の発行している
フォトいばらき誌の取材に同行しました。

さつま芋と聞けば、普通関東ではベニアズマ種をイメージしますが、
干し芋は、玉豊(たまゆたか)という品種のさつま芋から作ります。




これが正真正銘のイモ洗い


玉豊の作付けは、5月中旬頃行い、収穫は10月10日頃に行うそうです。
つくば市でベニアズマの作付けも同じく5月中旬頃で
 収穫は例年、霜の降るころ10月下旬〜11月上旬
になりますので、
それにくらべ約1ヶ月近く栽培期間が短い事がわかります。

まして、つくば市よりも北に約60Km以上離れている
ひたちなか市ですから、気温は低いはずなのですが・・・、
その答えは、おそらく収穫後約1ヶ月近く
干しいもとして加工するまでの間、芋の糖度を上げるため
寝かしておく必要があるからだろうと思います。

この点を除けば、ベニアズマも玉豊という品種も
茨城県ではだいたい同じ様な生育期間だと見えます。




ただ先日お邪魔したひたちなか市でベニアズマを栽培する
 鹿志村さん
からは、作付け後130日計算で収穫するとの
事でしたから、さつま芋として販売するための
出荷用であれば、それぐらいが目安になるのかもしれません。

茨城県内でも、他のさつま芋の産地である
かすみがうら市や、行方市、鹿嶋市などでは
ベニアズマを栽培する場合、マルチ栽培(畝にビニールシートを貼)
をしますが、玉豊の場合は、水分が命ですので
マルチ栽培はしないということです。

何といっても干し芋と言われるぐらいですから、乾燥がいのちですが、
近年の温暖化のために湿度が高く、干すという部分に悪影響が
出ていると聞き、こんな所にまで地球温暖化の現象が表れています。


☆「ほしいも工房きくち」さんちの干しいも/ひたちなか市


・フジテレビ「おはよう茨城」にも出演中、林家まるこさんと菊池さん


まずはじめにお邪魔したのは、毎年夏に開催される
ジャパンロックフェスでも一躍有名な
ひたちなか市の「ほしいも工房きくち」さんです。


※ちなみにジャパンロックフェスの会場となっている
 国営ひたちなか海浜公園は、日本陸軍の飛行場跡地で
  僕の祖父が従軍していた場所でもあり、敗戦後は連合軍GHQに接収され
  射爆場となっていた場所です。
  体制の場所で反体制の音楽とはスパイスの効いた、なんとも通ごのみの企画です。
  ロックももはや、ビートルズからは平和の音になったのでしょうか。


菊池さんは、約400aの畑で玉豊を栽培し、
干し芋の加工から販売までを行っています。

菊池さんの家は、先代から約60年干し芋を作られているそうで、
ちょうど先代のつれあいの80歳を超えたおばあちゃんが、
矍鑠として元気に皆さんと一緒に働かれていました。

お金を並べるように大切に、一枚一枚、並べて干すと
うめぇ芋ができんだよ。と教えてくれました。



芋の皮むきをパートのおばさんから教えてもらいながら
体験させていただきましたが、蒸されて熱いうちに皮を
むかないと、皮がうまくはがれてくれませんので、
手早いリズム感がいる仕事でした。


・美しい手仕事の風景。こんな茨城の景色がずっと続きますように。


蒸されたばかりの玉豊を、食べさせてもらって
驚いたのですが、もうそれだけで十分に甘くて
もちろんベニアズマのようにホクホク感はないんですが、
逆にシットリしたモンブランクリームのような感じで
上品な甘さを感じました。






 
                               ※すべて手作業です。



茨城県で育った僕らぐらいの年代の人間は、
おじいちゃんや、おばあちゃんが、コタツで冬になると
白く粉がついた乾燥芋を、ストーブであぶって食べてるという
イメージがかなりあると思います。

正直言って、僕は干しいもが大嫌いだったんですが、
今日からなんと干し芋が好きになってしまいました。

蒸して乾燥する前の玉豊を食べてみて、
それぐらい嗜好が変わってしまいました。

販売は、ほぼ100%個人宅への販売で
完売してしまうほど、口コミで人気となっています。
今年販売分の受付は、12月12日ぐらいまでと言うことです。
全国のファンへ出荷されています。



そういえば、先日12月5日はモーツアルトの命日でしたが、
お腹の子にモーツアルトを聞かせるといいように、
玉豊に矢沢永吉のロックはどんな影響がでたのかな?

ボジョレーヌーボーならぬ、2009年の玉豊は
どんな味がするのか?ぜひ舌で試して頂ければ幸いです。

社会から干されるロックのイメージと、
天日に干された芋のイメージの融合って
僕は良いと思いますがいかがでしょうか?佐藤先生。

大御所デザイナーの佐藤卓さんが町おこしに参加しています。



★照沼勝一商店の干し芋/東海村

次にお邪魔したのは照沼さんの会社です。
こちらも先代の照沼勝一氏が創業した、
老舗の干しいものお店照沼勝一商店です。



東海村を中心に、60ha200ヶ所の場所で玉豊の畑を栽培し、
無農薬栽培はもちろん、製造過程にいたるまで、
近代的な工場をつくり、食品の安全管理を行いながら、
地域の干し芋全体の普及に取り組まれています。




・代表の照沼さん。



照沼さんのところでは、
「まる干しの干し芋」を生まれて初めて試食させて
いただいたのですが、外はパリッと、中はジューシーで
これこそまさに、干しいもの中の干しいも、絶品の味でした。
ぜひお勧めします。




試食させていただいた時
照沼さんも一緒にうまそうに食べている姿を見て、
きっとこの辺りの子供たちは
こんな自然食が昔からおやつだったんだろうなと思いました。



現在干し芋の購入者の中心が50代〜70代の方々と
なっている現状を危惧し、若い方々にも認知して
もらえるよう、干しいもの食品としての機能性などを
解析して、あらたな商品開発に取り組まれています。



その中のひとつに、来年春に発売を予定している
「干しいもプリン」を早速試食させていただきました。
緑の粉末は、抗酸化作用の強い、さつま芋のツルに
着目しツルをパウダーに加工したものです。

その他、水をまったく使用していないトマトだけの
濃厚トマトジュースなど、照沼勝一商店の
無農薬の畑で収穫された野菜を用いて
干しいも以外にも、様々なおいしい商品を販売されています。

☆さいごに

今回干し芋のふるさと、ひたちなか市、東海村を訪ねて
やっぱりうちのおじいちゃんと、おばあちゃんを思い出す事となりました。





仏壇のある居間で、コタツに入ってドテラやチャンチャンコを着て、
美味しそうにほし芋を食べていたあの姿の意味が
やっと自分も分かる年になれたのかもしれません。

「干しいも」はそんな思い出も運んでくる食べ物です。

さぁ、もう一丁いきましょうか!



沼尻真一



※取材から数年経った後記

毎年 冬になるとこのブログでは
この干しいもの取材記事が多くの人に重宝されているが、
干しいもの人気は全国的にも、茨城県民が思っている想像以上に感じる。

干しいもの全国シェアの8割を茨城県が作っていて、
まさに茨城県は「干しいもの聖地」ではあるが、
これだけインターネットが
普及したにも関わらず、残念ながらネットで「干しいも」と検索したとしても

 

わけのわからないスポンサーサイトや広告サイトばかりで
まったく信用がない。

「おいしい干しいも」「こだわりの干しいも」を作っている、
ここで紹介した きくちさんや、照沼さんに辿りつけないという
現状が、インターネットの世界の限界なんだと思う。

また、日本各地へ行ったときによく「茨城 干しいも」と書かれた
商品を目にするたびに、手に取り生産者欄を見てみると
単に茨城のイモが原料なだけで、製造は東京で行っていると
書かれているような「なんちゃって茨城 干しいも」が
全国のスーパーにも、ネットにも大量に流通しているのがわかる。

これは茨城の干しいもに限らず、全国各地の名産品の
コピーなんちゃって商品が、中国なみにたくさん出回って
いるのだろう。
日本の食品表示なんてものは、あれだけの偽装事件が起こっていても
いまだに、厚生労働省の基準は農薬にしても、添加物にしても
一定量以上使っていなければ、表示しなくていいなんて
基準になっているのだから、食品を買うときに食品表示なんて
なんの信用もないのを知るべきであるし、
あまりにいい加減だからまったく信用に値しない。

食品表示を添加物や残留農薬まで含めて第三者の
認定機関のお墨付きで食品表示をしたら、
とても怖くて誰もどの食品も食べれなくなるから、
祭りの屋台やいい加減な肉や骨で出汁をとってる
人気のラーメン屋に並び続けて、平気で食える国民性も
あるんだから、まぁ紀伊国屋で買おうが、近所のスーパーで
買おうが、中国よりましなら良しとするぐらいの
なんでもありの日本という国の偽装食品表示レベルだと言う事は、
認識しておくべきだと思う。

やっぱりちゃんとしたものを買うならやっぱり、製造者、制作者から
直接買うか、野菜ぐらいは自分で作るのが一番安心だとつくづく思う。

インターネットの世界=そのほとんどが広告宣伝の世界であり
まだまだ現地の人しか知らない、
またはその専門の世界や業界でしか知られていない一品、生産者、制作者が
ゴロゴロいるんだろうと思う。

思いのある生産者、制作者がつくったものが、
それを必要としている人へちゃんと伝わるようになればと、
取材から数年経た今思う。

インターネットの情報には常に限界がある。
 



SHINICHI NUMAJIRI INDEX


 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi














筑波山麓の黄金プリン − つくばプリン・茨城県桜川市、真壁のひなまつり/沼尻真一






「つくばプリン」を真壁の知人から頂きました。

筑波山麓の牛乳と、奥久慈の卵という
茨城県内の食材を用いて、桜川市で作られています。

見た目からは想像つかないほど、
口に含むととてもスムーズで、滑らかな食感に驚きました。

黒蜜が付いていたのですが、
それをかけずに食べる方が僕には美味しかったです。




真壁といえば蔵のまち、
毎年2月3日〜3月3日まで開催される
ひな祭りには、毎年10万人の観光客が訪れるそうです。

蔵好きですが、蔵のまちと一括りで編集されると
途端に魅力を感じず、
真壁の蔵にはまだ行ったことがないので
これを機会に訪れてみたいと思います。

真壁には、田んぼ脇に大きく広がるクヌギ林
その奥に覗く裏筑波の景色が壮観で、
北海道の美瑛のように起伏のある風景が良いと
僕は見立てているのですが。


沼尻真一




























所の風儀 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


「離見の見にて、見所同見と成て、不及目の見所まで見智して、
五体相応の悠姿をなすべし 」

「離見の見」とは目前心後、目を前につけ心を後におく。
本来の仏教用語であった離見という語を
世阿弥が自己流に用いたものです。

自分で自分を見る目は我見であって、
そこでは真の自分の姿をみることができず、
見所より見た所の己の風姿を離見と言い、
この離見という境地に至って始めて
自分の前後左右もわかるようになり
真の演技をすることができると世阿弥は伝えています。

見所に置くことにより己を高めるという、
この見所は映画などの見所とは少し違うイメージを持っています。

見所とは視点でもあり、見立てでもあるでしょうが
人や大衆からどう見られたいか?という受け事ではなく
自分が追い求める、その視点や境地から、
つまりはそのような「自点」という場所こそが、
離見なのではないかと僕は解釈しています。


沼尻真一