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車選び フォルクスワーゲンとヒトラー/ナチスドイツ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:車/バイク


カブトムシ、ビートルなどの愛称で親しまれている
フォルクスワーゲン(国民車)別名、カーデーエフ・ヴァーゲン
「喜びを通じての力」という意味で、ヒトラーが命名している。

1933年のベルリン国際モーターショーで
ヒトラーがその構想を発表し、
ポルシェ博士が1938年量産型の開発に成功している。

第一次大戦の敗北から700万人の失業者を抱え
憔悴しきっていたドイツに、アウトバーンの建設計画を立ち上げ
労働者に未来を保障し、扇動したナチスという背景から
生まれた車と言って過言ではないだろう。

僕らが小学生の頃は、ワーゲンを発見すると
ラッキーだ、という噂が広まって、
課外学習に行くバスに乗っている時なんかは

「ワーゲン1台、2台見っけ。」などと
発見しながらみんなで調子に乗っていた。

時代は変わって、ワーゲンもすっかり新しくなり
そんな噂もとんと聞かなくなったが、
幸せの代名詞のような車のイメージには、思いもよらない
誕生のストーリーがあるものだなと感じている。

ナチスやヒトラーと言えば、悪や負のイメージが体勢だろうが
イギリスなど戦勝国による、第一次大戦戦後の
ヴェルサイユ条約のドイツへの追い込みのかけ方にも疑問が残る。
奇しくも今日は、映画「戦場のピアニスト」ロマン・ポランスキー監督が
30年前の少女へのわいせつ容疑で拘束されてしまった日となった。

もちろん車には罪はないが、つくばや茨城県のような
車が無ければ生活できないような地方の場所では、
名は体をあらわすが如く
車が体をあらわすような部分も確かにあるような気がする。

自分で稼いだ金で、ランボルギーニやフェラーリーを買っても、
隠れて乗らなくちゃいけなかったり、なんだかんだでとても
六本木ヒルズの地下駐であれば、問題ないのに
わずか1時間しか離れていないつくばでも
苦労するもんだなと話を聞いて思った。

ベンツの種類も型式も知らずに、乗ってりゃなんでも
あいつは高級だなんて噂しながらも
国産をコロコロ変える人の方が高くついてる気もするが、
世間とはそうしたものなのだろう。

海外の車だけでなく、トヨタや日産、ホンダの車にも
誕生秘話は結構あると思うけど、
「ルイヴィトンでさえ本国フランスでは子供が持っていないように、
暗黙の流儀があるから、私はブランド品なんか絶対に持たない。」と言っても、
車に限っては例外が多いような気がしている。

車も出生の秘密を知ってから、買うってのはどうだろう。

パリで見かけたモーガンを、マルジェラの前に
横付けした若い女性は
それがちゃんと分かっているように僕には見えた。











































 

数寄屋は隙屋? 愛媛県大洲市 臥龍山荘(がりゅうさんそう) − 沼尻真一 

JUGEMテーマ:建築

愛媛県大洲市の臥龍山荘を梶田さんに連れて行ってもらった。

第三代大洲藩主 加藤泰恒が、蓬莱山が龍の伏す姿に似ていることから

この辺り一体を臥龍と名づけたという。

明治の貿易商 河内寅次郎が当時の粋を集めて

構想10年工期4年をかけて建築した建物。


















このような名建築を見ると細部の仕上げがいかに大切かという事に気づかされる。

ただその細部の仕上げは大事であるが、神経質な仕上げではなく 

いかに粋(美しく確実な仕事ができてあたりまえ、さらにその上に

遊びの余裕を持っている)に潔く仕上げるか。

そんな部分が見ていてとても面白い。











竹で編まれた丸い天井。



生きた槙の木を使った「捨て柱」。この槙は今も生きている。




板と板とを完全に継がずに、わずかにほんの3mmぐらいを残して
継いでいる。

機能性からか、または技術の高さを見せる遊び心からなのだろうか。




廊下の釘のなかにわずかに数本刻印がある。

この刻印は千家十職(せんけじっそく)中川浄益(なかがわじょうえき)の証だ。

千家十職の一つ、金物師(かなものし)の中川家当主が代々襲名する名称。

元々は
越後国甲冑を作っていたが、茶道具を初めて手掛けた
初代・中川與十郎が紹益を名乗り、二代目浄益以降の当主は浄益という名を継いでいる。

・千家十職とは
茶道に関わり三千家に出入りする塗り師・指物師など十の職家を表す尊称である。
千家好みの茶道具を作れる職人。






この建築には数寄のすべての要素が入っているという意味で
とても参考になる建築だと思う。

明治期に貿易で財をなした主が、当時の粋を集めて
建物をつくるという意味は、何だろう?

屋根裏も、裏も表も庭もまったく隙の無い建物に
何百年たった今もこの建物は、
老体に鞭打って「俺を見てくれ、見てくれ」と
語っているように感じた。


数奇屋は隙屋の方が僕にはやっぱりいいと思う。










 

手鉤(てかぎ) − 沼尻真一

JUGEMテーマ:ナチュラル*シンプルライフ








 
これは鳥津さんが魚市場に行く時に使っている

軽トラに乗せてもらった時に、見せてもらった道具。

魚市場で魚の入った木箱をこの道具で引っ掛けて使う。

農業、漁業、水産加工業それぞれどんな職業にも

その仕事で使う、専門の道具というものがある。

そんな道具には、長年使われてきた機能性から

徐々に形が変化して、最後に淘汰され残った形がある。

そこに用の美が生まれている。

そして使い込まれた道具には、

また違った美がそこに生まれている。














前略、瀬戸内から 初日/愛媛県大洲市 梶田商店 巽醤油 − 沼尻真一

 



以前、赤坂のタキトースタジオでも紹介した、
巽醤油をつくる梶田さんを訪ねて、

今日は、つくばから羽田そして松山空港へと飛んだ。

去年直島に行った時以来だが、瀬戸内海の上空を飛ぶ松山線は、
国内線の中でも格別だなと思いながら、松山空港に到着した。

ここから目的地の愛媛県大洲市まで、バスに乗ること
約1時間ちょっとで梶田商店に到着した。

大洲市はその名のごとく、清流肱川(ひじかわ)が市の中心を走り、
その天空に大洲城がそびえる城下町。



司馬遼太郎が「街道をゆく」の中で、「水と山と城がつくりあげた
街である」と言ったのが良く分かる。
司馬遼太郎と言えば、鳥津さんと初めて飲みに行ったのも
新宿三丁目の「どん底」だったのも何か縁があるな。








巽醤油の屋根瓦と、左に大洲城が見える。

四方を山に囲まれた盆地という環境から、寒暖の差が激しい事、
四方の山から流れ込む良質な水が、
うまい醤油の素でもあるだろう。

創業何百年などと、醤油をつくる会社はメディアにも良く取り上げられるが、
僕は、菌を使うという性質上 蔵のある環境がどんな場所かが
とても重要だと思う。

だから有名だからなんて理由はあてにならない。
そして狭義な地産地消など、どうでも良くて、
本当の田舎じゃなければ、家の近くの醤油メーカーが旨い
なんて事はありえない。
要は醤油の生まれ育まれる環境が大切だと思う。

僕はサントリー宣伝部を退職した小林さんの下で仕事をしていた関係から
サントリーの山崎工場、白州l工場どちらも見学をしたことがある。
またニッカウヰスキーの余市工場も行ったことがある。

これらの工場を見てみれば、どれだけ生まれ育まれる環境が
大切か、わかるはずだ。 

また今までも色々な場所に旅してきたが、
その環境に相応しい商売や農業がちゃんと営まれていることが、
地形や、地質を見ることでわかるのはおもしろい。

ちなみに今回は、バスの車窓から何もない畑を見ていて、
赤土というより、白に近く砂状な土なので
ここで、育てたら「うまい芋」ができるだろうなと思っていた。

案の定、伊予大洲の駅に着くなり
「大洲いもたき会」の看板があったので嬉しくなった。



市内を一望した場所は、梶田さんの敷地にある、この辰巳神社からの眺め。





小さな街道沿いに梶田商店はある。




六代目の梶田さんは、自分の目と舌で確かめた、地元愛媛県産の丸大豆や
小麦、塩を用いて、代々伝わる古の醤油の製法を再現しながら
こだわりの濃い口醤油「巽醤油」を完成させた。

ちなみに梶田さんの曾祖母は有名なバレリーナであることを、
後に教えてもらった。









醤油蔵の杉桶樽は、代々受け継がれてきたもの。




世の中で市販されている醤油の多くは、熱を加えるなどして急速に
(約半年ほど)しかこのようなもろみの状態で醸造しない、

または

麹やもろみを一切作らずに、組合で生醤油の状態にまで仕上げてから、
組合員の各醤油会社の工場に配送されて、そこで
食塩水やアミノ酸などの化学調味料を加えられて、
その会社独自の「味」を表現している。

それに対して、梶田商店では、1.6年かけてもろみの発酵を促し、
昔ながらの製法にこだわり続けている。

写真を撮っている間も、想像もつかないような美しい音で発酵が促されていた。












巽醤油の研究室。
代々受け継がれている文献を参考にしながら、
商品開発をしたり、その日のもろみの状態を分析しながら、
絞るタイミングをはかる。





系譜とは、

何を受け継ぎ、何をそぎ落としていくのか?その決断にほかならない。

そして今、梶田商店六代目 梶田さんがその瞬間にいることは間違いないだろう。

「巽醤油」が伝えるものとは、この意思そのものだろう。


















































前略、瀬戸内から 二日目/愛媛県八幡浜市 大本みかん一生園、鳥津蒲鉾店 − 沼尻真一



愛媛初日の夜のうちに、
愛媛県大洲市から八幡浜市に移動し、
大本さんと鳥津さんと合流させていただいた。

大本さんは(社)日本青年会議所研修室室長などを経て
1993年平成5年JCI国際青年会議所、
世界会議議長(神戸大会)を努められている時に
鞄持ちとして僕は仕えた。

今晩はその大本みかん一生園、鳥津蒲鉾店、梶田商店のコラボレーションによる
地元食材を使った、大本さんと、奥様のこだわりの手料理をいただいた。



地元の漁師の方でも知らないようなうまいレシピが次々に出され、
このレシピは居酒屋さんに販売した方がよいと本当に思った。
もし商品開発を検討している居酒屋さんがあれば、ぜひ連絡してください。

しかし、梶田さんが宴会の前に「ウコンの力」と「オロナミンC」を
駅で飲んでいる理由が分かった。
途中から、テヤテヤよろずマーケットメンバーの
マルヨシの井上さんも加わって、本当によっぱらった。



しかし翌朝は、朝早くから大本みかん一生園を訪ねた。


去年ブログでも紹介したが、
愛媛県のみかんと言えば、
日本を代表するブランドである。

皮が薄く、癖のない、それでいてしっかりと甘い。
みかんの概念が変わるみかんだ。

バレンシアオレンジなんかよりも断然おいしい。




大本みかん一生園。

三つの太陽 1、南斜面の太陽 2、海からの太陽 3、石垣からの太陽
の光を南斜面でたっぷりと浴びながら、一生園のみかんは育まれている。






摘果したみかんは、柚子湯ではないがホテルや旅館の浴用利用などに
活用されているが、まだまだ可能性があると感じた。





11月〜年内は本格的なみかんの収穫シーズン。

大本みかん一生園、鳥津蒲鉾店、梶田商店の活動がまた楽しみ。

第二のふるさと 愛媛県八幡浜市は、いましっかりと燃えている。



確かに 坂の上に雲はある。














































誰がために捧ぐ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩



その作品は誰がために捧ぐものなのか?

それが大事なような気がする。

人を喜ばしたいから、つくるのか?

それとも、それ以外なのか?

ものをつくるという事は、

それを

「誰に捧げようとしているか」で

その出来栄えが大きく変わるはずだ。


ものでさえ大きく変わるのであれば、

人もその人生を誰にまたは、何に捧げようと

生きているかで

思いのほか、見違える人生になることが予想される。


それほど、心、内面から現実世界が大きく変化すると

言って良いだろう。


自分の人生が自分だけのものだ、

だから自分がどう決断し、どう生きたって、

どう考えたっていいだろうというのは

男も女も自由で奔放に見えるし

とても束縛もなく勝手気ままに楽そうに見えるが


実は、何かに捧げる人生の方が

充実した生き方ができそうだと思う。

それは小さな一つでもあるだろうし、

複数でもあるだろう。


それが何かを、矛盾な世界の中に

潔く見つけられた人は、

愚痴をいいながらも、とても幸せな人生だろうと思う。

































 

堆肥をつくる − つくばハーブ農園



 
雑草と格闘しながら、草取りをして

その雑草を山のように積んでおくと、土になる。

土になったから良かったね、と思い

畑にすきこんだら、たちまち雑草が復活した。

自然に放置した堆肥づくりなんて

雑草の種をまいてるようなもんだから、

辞めたほうがいいって、おじさんから言われた。

やるんだったら、雨にかからないようにすること。

米ぬかなどを混ぜて、地温をちゃんと上げてあげること、

栄養が底から染み出して流出しないようにすること

などなど、本格的な堆肥づくりはまだまだこれからになりそうだ。











見立て − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩


見立てとは、単に何かに似ているというだけでななくて、
AのものとBのものとが、
あるいはAの一部とBの並びとが、
見方によって「近く」なるということ。

つまり「近さ」をつくってものを見る見方。

そうすることで、物事や出来事を互いに移し替えられるということ。

清少納言は「変化の小ささ」に関心を持っている。
微妙な変化の小ささ。
葉っぱの色づきのような季節の変化のちょっとした「うつろひ」に
感じる微妙な変化と似た小ささ。

これは芭蕉の背景にあらわれる「しをり」や
「ほそみ」の感覚にも
つながるもので、

「よく見ればなづな花さく垣根かな」

ひとつは色々日本では大事なものが「小さい」

日本には「海の民」や「草の民」がいる。

そしてどんなこともちょっと控えめに、ちょっと小さめにすること。

そうすれば、そこに大きな「見立て」が動く事だってある。
その成功例が北斎や広重の絵に見える。

「五月雨や大河の前に家二軒」でよい。
たった二軒で大河と拮抗できる。
それが「そのまま」のあり方である。

それを芭蕉は「松のことは松に習へ」「竹のことは竹に習へ」
われわれはもう一度、松や竹を見ること。

一茶は「これからは大日本と柳かな」と詠む。
藤沢周平は、「一茶」という小説で
「只の非凡」ととらえる。

「そのまま」であることを只の非凡にするべき。


・引用−松岡正剛「世界と日本のまちがい」より
















 

つくば 気象研究所 気象観測用鉄塔は本当に解体されるのか − 沼尻真一

 


6月に気象研究所の鉄塔が、今年度中に解体されるという
ニュースを目にし、自分なりの考えをブログに書かせてもらった。

自民党から民主党政権となった今日
国土交通省管轄のこの気象庁、気象台の鉄塔は
本当に今年度中に壊されてしまうのかどうか知りたい。

巷では解体予算がつかず、今年度中の解体は
延期されるだろうという噂が流れている。




高さ213mのつくばタワーは、極太の鋼鉄製ワイヤーで支えられている。



どうやらこの階段の上にELVがついているようだ。



高度ごとに風速や風向データを調べている。



213mの基礎は意外にシンプルで、とても細い。
パリのエッフェル塔、東京タワーにしてもこれほど足場が
細いという鉄塔はないと思う。

この建築方式は何という工法なのだろう。



略してつくばタワーの愛称は M.O.T モット?



こんな大きな芝生の中にMOT はそびえている。



つくばのモスクだ。

つくばのモスクは草原の中に真っ白な姿でたたずんでいる。

森とこの建築、このフォルム、機能美が生んだアート作品だ。

小学校の頃、学研の科学と学習という実験雑誌を

正門のところにおばちゃんが来て売っていたが、

僕は小遣いがもらえなくて、それは買えなかった。

購入した友達の、簡易顕微鏡やら実験道具やら見て

なんて奇妙で綺麗なんだろうと思った。

小学校の実験室に入って、顕微鏡やアルコールランプや試験管、フラスコ

人体模型、くじらの髭、ホルマリン漬けにされた様々な生体を見て

ドキドキしたのと一緒の感覚だ。

つくばには、気象研究所だけでなく巨大な理科の実験室のような町だから

単に研究がどうのこうのと言うだけでなく、用の美がある。

「つくばサイエンス・アートツアー」という企画で、各研究所がどんな研究をしているか

ではなく、そのアートの価値も見出しても良いのではないか。

柳宋悦の「民藝」ではなく、アートから一番遠いであろう、役所の

「官藝」だからこそ、気をてらった現代アートや雄弁な建築より断然おもしろい。

ガウディもびっくりするだろう。

それは宮崎駿監督のスタジオジブリの「ハウルの動く城」のその城が

つくばの研究所の建物だったりするからだ。

学芸員や美術史家に取り上げられなくたって、むしろそんな美術史の

歴史のなぞりは疑って、自分の見立てを信じるべきだ。




気象台の場所には、クヌギや栗、赤松など、もともとつくばに自生していた
つくば原生林をみることができる。

ここには、学園都市内でも見られなくなった、
野ウサギなどがいまだに住んでいる。

恐らく気象研究をするという手前、周辺環境に人工物があっては
しっかりとした、データを観測することができないという事で、
このようにつくばの原生林が残っているのだろう。

倒木もそのままおかれている姿が美しい。








鉄塔解体のニュースが流れてから、この森を切り拓き道路建設工事が
気象研究所内ではじまった。

せっかくの手付かずの原生林が唯一残っていた
気象研究所だっただけに残念だ。

鉄塔解体する場合、スムーズに鉄骨を運びだすためだろうか?

それとも、職員が西大通国道408号線に出やすくするために
元々信号機のあるどうろへ直結させるためであろうか?






このように、現在T字路になっている西大通り国道408号線へ
写真左側の気象研究所敷地内から、一本の道路が建築中で
おそらくこの信号に直結させるのだと思う。

そしてこの交差点は十字路になるのだろう。

民主党政権とこの道路の突貫工事は何か関係があるのだろうか。

国土交通省管轄だけあって、どうろ建設のスピードはとても早い。














葬式の話を記しておこう − 沼尻真一

 

ブログは、まだ見ぬ未来の誰かに何かを残しておけるという
機能もありそうなので「葬式の話」を、ここに記そう。

僕が住む部落には、いくつかの 組 があり、この 組 が
葬式をとりおこなうしきたりとなっている。
うちの組は12件だ。

つくば市内でも古い集落には、いまだにこの 組 機能が
あたりまえにあるだろう。

組内の誰かの家に葬式ができたら、
この組で

帳場役、六道役、坊さんの送迎役、沙汰役(知らせ)などの
役割が決められる。

つい数年前までは、うちの部落でも、
土葬があたりまえだった。

六道役というのは、土葬の際に墓穴をほるのも仕事で
大変な重労働だった。
部落の周辺には、いくつかの墓場が畑の中にある。

この墓場も雨が降れば、ぬかるんで、墓穴を掘るどころではかったらしい。
まして、葬式が重なってしまった家だと
まだ前の棺おけが腐ってなくて、掘ればいろんなものが出てきたらしい。

大雨が降れば、この墓穴に水がたまってしまい
棺おけが浮いてきてしまうから、みんなで抑え込んで
土をかけて棺おけをうめたっけな とおじさんが
教えてくれた。

雨の日の葬式の大変さといったら、墓までの道は舗装されていないわ、
もちろん墓場はぬかるんでいるわで坊さんも、参列者も
ずぶ濡れ、ドロドロの一大事だった。

そして、御棺を運ぶのは昔は担いで、それからはリヤカーで
墓場まで棺おけをうめに、自宅で葬式が終わったら
隊列をくみながら歩いていった。

その後は、耕運機を各農家が持つようになったから
耕運機へと変わったらしい。

僕らは、こんな光景を10歳前後あたりまで
良く目にしていたから、テレビのCMに出てくるような
火葬や墓地や霊園がなんともおしゃれでうらやましく思っていた。

全国の地方に行っても、墓場が各々の集落の一番高台の
日当たりの良い場所にあるのは、土葬しやすいという理由もあるのだろう。

各地の墓も、石造りになってどこもかしこも同じような
雰囲気になってしまっているが、墓場をみると
その地方がどんな場所なのかなんとなく知ることができるから
僕は良く眺める。

今は、火葬になり葬儀場もでき、葬式がどんどんと、略式化され
簡単になっている。

坊さんのお経も、ちゃんと読み上げたら1時間以上だけど
さわりを読みながら、お経をとばしていくのも
おそらく、参列者の数や会場の都合にあわせて調整しているのだろう。