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三日月と星


三日月と星のもとを南へと高速で走る。
こんなに薄くはかない三日月を見たことがなかったので、
いつか絵本で見た三日月は本当なんだなと思いながら
ハンドルを握った。

地球の間接照明のような月
その灯りのもとで地球上の心が動いているようだった。








沼尻真一









横浜・日の出タクシー/沼尻真一



港の近くからタクシーをひろった。
その運転手さんはいつも車庫に帰るのは朝方。

ある朝、仕事を終えて車庫に帰る途中
海岸の埠頭から上る朝陽に感動して
思わずタクシーを止めて写真をとったという。

そのケータイ写真を見せてくれた。
それはまったく衒いのない写真だった。

夜通し運転して疲れてるけど、
海岸から見えた、
冬の朝焼けにシャッターを切れる
そんなんでいいなと僕は思った。


沼尻真一






編集長の感性


今朝、久しぶりに照明デザイナーをしている友人から電話があった。
その話の中で、長年インテリア雑誌の編集長をしていた彼女の友人が
「人間的な生活をするために東京ではもう限界がある」というような
思いから、会社を辞め益子町へ引っ越すという内容だった。

こんな話を聞いてみて、
そういえば、同じように長年サーフィン雑誌の編集長をされていた方も
最近会社を辞め、独自にネットマガジンに転向し活動していると
葉山の知人の話を思い出した。



偶然にしては偶然。
この2つの雑誌はその業界誌として長い歴史のある雑誌である。
ライターやエディターとは仕事でお付き合いをさせて
いただくことがあり、彼らの時代を読む感性には
いつも感心するばかりだ。
中でもインテリアやサーフィンは、ともに心に余裕というか
自分の暮らしを大切にしている人たちが読者に多いカテゴリーだと思う。

大げさに言えば、そんな文化を創ってきた元編集長たちが
今何を感じているのかはこれまでの経済至上主義の価値感から変化し、
なにか新しい価値感が生まれようとしている予兆のような気がする。


沼尻真一





ゴールまでの燃料とオイル


仕事でもスポーツでも
ポジティブなイマジネーションが広がれば
人はドキドキわくわくして楽しくなると思う。
そして勝手な「セルフモチベーション」があがっていく。
これが爆発してゴールまで推進する燃料。

そこへ自分ひとりだけで叶えられる夢はないので、
協力者とのコミュニケーションが目的へ到達するための
階段を上がるオイルとして必要となる。

ただ相手もこちらも人であり相性というのもあるので
働きかける側としてはネガティブな意見や反対の声などが
あがることは必然で、そこはこちらの心の間口を広げ
意見を聞く姿勢、ときには柔軟に方向をアレンジする
姿勢を持つことは重要だと思う。
これはゴールの位置や幅。

単純に言えば、たったそれだけの事で仕事やスポーツの
夢や目標に近づいて行くことができると思う。

この中で一番最近感じていることは、何かを始めるときに
一番重要な元となり燃料となる「創造性、イマジネーション」が
どうにもこうにも広がっていない場合が圧倒的に多い。

この部分は一人ひとりの内面の問題なので、
外から働きかければいいなどという、なまぬるい事では
ブラックホールにやまびこを求めるようなもので
絶対に呼応してこない部分である。
だから燃料がないから走らない。

この部分は後天的に身に付くものではなく先天的なもの、
あきらかに子供の頃からの体験や躾で決まっている。
サッカーや野球が好きで子供の頃から、何の用事もないのに
勝手にユニフォームを着たり、物真似したりしてなりきっている子供など。

結論から言えば、最初の選抜からこの燃料要素を持った人間を
集める事が重要でしかない。

沼尻真一






旅立った明治の男


100歳の誕生日を目前に旅立ったおじいさんの姿を見て
この体はやはりこの世俗で生きるための借り物である事を
実感した。

戦時中、阿見の予科練に野菜を納める仕事をしていた関係から
特攻隊の話をしてくれた。
予科練が激しく空爆された時、自分の真後ろの格納庫に
避難していた多くの予科練生が爆弾により犠牲になってしまった事や
予科練生が出撃する前の両親との最後の別れなどいつも熱心に話してくれた。

そしていつも最後は「戦争は絶対にやっちゃいけねぇ」が口癖だった。
それは軍人としてではなく、民間人として戦争に関わった者だからこそ
実感できた事なのかもしれない。





毎年お盆にその話を聞くたびに、今の平和があたりまえじゃない事に
気づかされ、自分の生ぬるさにやばさを感じた。

あのみんみんゼミが鳴く暑い夏に、ステテコとランニング姿で
戦争を教えてくれた明治の男が今日旅立った。

2008.12.21
沼尻真一










90回目のクリスマス

うちのおばちゃんのいるグループホームで毎年恒例の
クリスマスパーティーが開かれた。
スタッフの方々の手作り料理やビンゴ大会で
楽しく盛り上がることができた。

認知症の介護経験から
どこの家族も心の奥に同じ悩みを共有している。
しかし今日だけは、今年も無事に一年が過ごせたという
どこの家族にも安堵感を感じる。



認知症の症状によっても、ふさわしいグループホームが
違うもので、うちでさえこのグループホームに出会うまでに
いくつもの施設を転々として、脱走したり、怪我をしたり
ある中で、やっとふさわしいホームに出会うことができた。

施設が豪華なところは色々あるが、やっぱりそこで
働くスタッフの方々の熱心さで良し悪しがきまると思う。
ただ介護の現場で働くスタッフを見ていて、入れ替わりが
多いような状況をみていて、雇用条件などは新卒の若い人たちにも
もっと魅力を感じてもらえるように改善されていけば
いいなと感じている。







沼尻真一










チャガラシ・チャドクガ毛虫がなぜ発生したのか − つくばハーブ園/沼尻真一

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今年を振り返って一つ印象に残った事は、
農園の中にあるお茶の木や椿にチャガラシという
毛虫が発生したこと。

何十年ぶりという発生に、なぜ毛虫が発生したのかを
考えてみた。
これが原因ではないかと思えることがある。
それは、農園南側の畑が土地改良工事を行って
里山が無くなった事、そして近所にあった樹齢50年〜100年の
ケヤキや樫の木が大量に伐採された事が
関係していると思っている。

そのヒントは、ケヤキが切られる数日前から
普段絶対にいないような場所に、山鳩たちが
避難しているのを見たからだ。

そして当日。
ブルドーザーやクレーンなどの大型重機が
ケヤキを倒そうとしていたが、なかなか倒れない
それはまさに巨人が大勢の小人に縄をかけられ
ひきづり落とされまいと耐えている姿にしか見えなかった。
その姿に部落の人たちは誰一人として、楽しいという感情は
持っていなかったと思う。
だって人の家の木だけど、みんな子供の頃から
この木でたくさんのセミを取ったことを覚えているだろうから。

斜め45度くらいに木が傾いた時に、もう何もいないと思っていた
ケヤキからまだ沢山の鳥たちが一斉に飛び立っていった。
毎日下から眺めていて全然気づかなかったけど
おそらくこの巨木は沢山の鳥たちの家だったのだろう。

地響きを持ってその巨木は倒れた。
そして村限定の地震がおきた。



鳥は空を飛ぶときに、高木を目印に飛ぶという。
ならば、大きな鳥が住めなくなった村に
チャガラシという毛虫や蛾が大量発生しても
おかしくあるまい。

食物連鎖の崩壊なんてそんなものだろう。

結局この毛虫は、村中に発生したようだ。
雨をよみ、霜をよみながら野菜をつくる長老は
なぜ毛虫が発生したかを知っているが沈黙する。

しょうがない、僕は農薬を使って毛虫を退治し
そしてお茶の木を切った。

沼尻真一








風とともに生きよう ルドルフ・シュタイナー/沼尻真一


植物の生育にとって、光・水が必要なことは
誰でも知っていると思う。
それ以外に必要なものとして、
植物の専門家である小泉美智子先生から、教えてもらった事で
意外だったのは、そこに「風」が必要という事だった。

ルドルフ・シュタイナーの人智学にしても、陰陽五行説にしても、
人間が自然の一部であるということは共通している。




今のように科学が発達していない時代、
つまり人間と植物の境がはっきりしない時代から、
人は植物の生態からある方式を導いてきたのだと思う。
そして人にとっても同じように「風」が重要な
役割を担っていると僕は思っている。



強い風・弱い風
 マラソン、サーフィン、スキー、スノーボード、オープンカー
 風呂上りの扇風機の前、窓を開ける、息、呼吸する


沼尻真一












天皇と大仏/沼尻真一











中学校の修学旅行以来、久しぶりに奈良の大仏様を見た。
この日もたくさんの修学旅行生が来ていた。
誰もが試した事のある、鼻の穴と同じ大きさの
柱の穴くぐりが今でもたくさんの人が試していて懐かしかった。









初めて、天皇皇后両陛下を見た。
厳重な警備のもと、警察官の緊張感が伝わる中、沿道は一目見ようと
待ち受ける人に溢れていた。
奥の座席に座っていた陛下が身を乗り出して、沿道の観衆に
応えようと手を振る姿にみんな感動して大喜びだった。

大仏様といい、天皇皇后両陛下といい、手のひらの美しさに
気づかされた一日だった。

沼尻真一


















かまど炊きご飯・さつまいもベニアズマ、種子島紫/沼尻真一








種子島から取り寄せたさつま芋がやっと出来たので、
篠原さん夫妻と、瀧藤さんにもハーブ園にきてもらって
みんなで薩摩芋ほりと、今年収穫できた新米をかまどで炊いた。

今年はベニアズマと種子島紫芋を植えた。
種子島紫芋植えた事をすっかり忘れて生育を確認した時に
皮が真っ白だったので、ウコンになったか、日当たりが悪くて
赤くならなかったのかと思って、白くてびっくりした。







篠原さんはさすがに昔とったきねづかで、かまどで上手く
薪を燃やしながら新米を炊き上げてくれた。
軽くおこげの部分もあったけど、米の一粒一粒が
たっていて甘みを感じる事ができて美味かった。













電気炊飯器を見ると必ず、かまど焚き仕様などと
うたわれて、かれこれ30年以上経っていると思うが、
未だにご飯の味が、かまどに追いついていないのは
きっと電気じゃぜったい無理な
「直火」が影響しているんだろうと思う。
京都の吉兆が、ご飯を土鍋で炊いているのを
テレビで見たことがあるので、きっとそうなんだろう。

昔はどこの家でもかまどでご飯を炊いていたと聞く、
うちのじいちゃんや、ばあちゃんは、学校に行く前に
この作業をやっていたと言っていた。
当時子供は、家事の大事な部分を担っていて
朝夕は恐ろしく忙しかったに違いない。





里山の樹の間伐からはじまり、薪割りそして風呂焚き、飯炊き。
ライターも無い時代に、マッチも貴重品でいかに
少ない本数で火を起こせるかが一人前の証で、今日はマッチを
何本使ったかと聞かれて、少しでもマッチを使いすぎれば、
親父に怒鳴りつけられた話は良く聞かされた。
これはマッチを使うたびに思い出す。

そういえば、部落の集まりの中で、長老が言ってた
あのじいちゃんは火おこしがうめぇ。どんなに風が強かろうが、
湿ってようが、「火おこしの○○さん」って言われてたんだ。
火を自由に扱える人間は、当時は英雄だったようだ。

飯炊きの苦労話はあまり聞いたことがないが、風呂焚きでは
五右衛門風呂なので、火加減が難しくて「熱い、ぬるい」で
良く親父に怒られたと言ってた。

こんな昔話のような話になったが、自分も小学校の頃は
暮れになれば、家のもち米を炊いて正月の鏡餅づくり、
祝い事があれば、赤飯を炊かされてきたので
結構かまど炊きは珍しく感じていないが、いつの間にか
20年ぶりぐらいになってしまった。
友人の照明デザイナーにそんな話をしたら、
新宿生まれ新宿育ちだと火に触れる機会がないから、
焚き火をしたくてしょうがないって言っていた。







いつも小学校に煙りの臭いがしていた同級生がいる。
家に遊びに行って分かったのは、わらぶき屋根でかまどでご飯を
炊いているからだった。
まだ僕が小学校の頃は、かまどでご飯も、五右衛門風呂も
そんな家も珍しくなかった。
そういえば、土間の上がりに火鉢も必ずあった。
着物を着た90歳ぐらいのおばあちゃんが必ず、鉄瓶の番と
手あぶりしていたな。


瀧藤さんは成城大学サッカー部



かまどでご飯を炊いただけで、走馬灯のようにこんな事を思い出した。
オリンピックじゃないが、人を引き付ける火の持つ力はなんだろう。

もしかしたら世の中のすべての火は実は一つしかなくて、
歴史をすべて包含しているのかも知れないと思う。

○この日のメニュー
新米ごはん、さつま芋のけんちん汁、柚子サイダー

沼尻真一