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重森三玲とイサムノグチの共鳴【男の茶道】/沼尻宗真

植彌加藤造園に入社した
近代庭園の父小川治兵衛 さんの
作った京都・無鄰菴は傑作ですね


そして


重森三玲さんです。


小川治兵衛さんが、紹鴎さんなら

重森三玲さんは利休居士のように

国内の日本庭園を編纂され
モダンで新しいスタイルを
造られた方ではないかな?と
勝手に思っています。


img_03709.JPG

今回、解説して頂くのは

重森三玲のお孫さんで
ご自身も作庭家の重森千
(しげもりちさを)さんです。



三玲さん明治29年
岡山県吉備中央町吉川に生まれます。

子供の頃から、茶道は不昧流、
華道は池坊を学んでいたそうです。

大正13年に父親の作った庭に茶道を深めたい
という理由から、その庭に茶室をつくると
同時に改造を手伝います。

img_03598.JPG
当初の庭


img_03599.JPG
現在の庭


img_03602.JPG
茶室

日本美術学校へ進学し、
日本画の技法で抽象画を
描いていましたが、大学は2年ほどで挫折し、
茶道、華道、建築等を独学で勉強し模索
しました。

img_03606.JPG

家の近くの豪渓(ごうけい)
岡山県総社市北端から
吉備中央町の景勝地を
原始林公園として残そうと活動します。


img_03614.JPG

同じ岡山県出身の造園家・造園学者で著名な 田村剛(日本の国定公園制度などを作った人物)に嘆願しました。

しかし関東大震災が発生し、
岡山に帰郷した際、

家の近くの吉川八幡宮を独学で調査し、
文化庁に報告書を提出します。

その際に建築史家で著名な関野貞さんの
目にとまり、

なんと関野、田村両氏が

当時まだ無名な吉川八幡宮への来訪が
決定しました。

自宅に宿泊してもらう事になり
三玲は急遽、自宅の庭を改修します。

官僚に連絡して、ちゃんと官僚も
呼応したなんて素晴らしいですね。
また庭も急遽改修する
エネルギーは常人ではありません。

茶事で四つ目垣を新調するように
さすが、叩き上げの 茶人です。


この庭をみた田村さんが感銘を受け、
会報誌に紹介したことで
一躍 重森三玲の名前と庭は有名になります。

これをきっかけに本格的な作庭をするべく
三玲は日本庭園の実測調査を開始しました。

いきなり、古を稽える!
そして行動する。
なんという行動力。

昭和2年〜8年までは、
個人住宅の庭などを手がけ

昭和8年に奈良県春日大社社務所の
庭園を手がけます。

七五三の岩にこだわり、石で神々を表します。
また磐座(いわくら)の要素をもたせます。

室戸台風(むろとたいふう)は
1934年(昭和9年)9月21日に
西日本を中心に大きな被害をもたらし、
多くの庭園が甚大な被害を受けました。

その状況をみて

三玲は仲間とともに、
日本全国の庭園の調査隊を編成し、
北は弘前〜九州までの
延べ300〜400ほどの
庭園調査を実施しました。

そして
昭和15年に徳島を調査し、
阿波国分寺庭園と出合いが
重森三玲の大きなターニングポイントと
なりました。

「青石が立っている鋭い姿に感激した。」

その後昭和15年に手がけた
西の宮の個人住宅の庭などは、
ほぼ立石です。
その後しばらく立石の時代がつづく、

昭和17年戦争

昭和25年〜昭和50年まで作庭をおこない。
晩年は色使いの庭を手がけられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

重森三玲さんの代表的な庭

・東福寺 本坊庭園

本坊を中心に東西南北に庭がつくられる。


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東庭
礎石としてあまった円柱を利用。
誰もやったことのない表現として、
北斗七星を表現する。

キトラ古墳、四神相応との
関わりから発想する。

東庭には、実はもう一つ
自然石で作った北斗七星の
秘密の庭が存在します。


img_03640.JPG


南庭
横たわる長さ6mの石はそれまでの日本庭園に存在しないものです。
寄贈された2つの石をどのように取り込むことができるかが試されました。

「石は組み合わせる美しさで、
   日本の美を表現ができる。」

手前の青石以外は、すべて京都産の石。

奥の山は京都の五山を表現しています。

それぞれの石組みを一つと数え、
4つの山と京都五山で
九つの山仏教の須弥山を表現しています。

そして枯山水の8つの海で
仏教の世界観では、
須弥山をとりまいて七つの金の山と
鉄囲山(てっちさん)があり、
その間に八つの海がある。
これを九山八海という。

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西庭へ伸びる線を、縁石を斜め使いすることで、シャープなラインを表現することが
できています。


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西庭
方丈の庭は本来サツキと石の大市松模様を表現。


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北庭
西側からの市松模様がより細かく、
敷石で表現され

そしてやがて、粗くなり
だんだんと谷に向かって
フェードアウトしていく。
グラデーションのイメージ。


桂離宮の飛び石の面白さや、
松琴亭の市松模様などから
ヒントを得ているそうです。

・東福寺芬陀院(ぶんだいん)

一条家の菩提寺。
南側の庭は明らかに室町時代の庭であり、
三玲が改修をしています。
南側を受けて、東側に室町時代に則った方法で
鶴亀の庭を築くが、右側の亀石組の石では
渦巻き状を表現し、誰もやっていない
新しい方法を表現しています。

img_03672.JPG


img_03671.JPG



・東福寺光明院・蘿月庵

昭和14年、31年

三玲が気に入っていた庭園。
光明院という名前と、
雲無生嶺上月有波心落
(雲の嶺上に生ずることなく、
月の波心に落つること有り)」 

(煩悩がなければ、仏心という月は波に映る)という語にちなんで「波心庭(はしんてい)」と名付けられる 、雲嶺庭(うんれいてい)

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光の庭造りを中心に、
三方の三尊石組から光明が発するがごとく、
直線状に石が配置されています。

中央の池を模した白砂の中には
当初栗石が無数に入れられ
荒々しい磯の波を表現していたが、
今は撤去され
穏やかな海になっています。


・重森三玲とイサム・ノグチの共鳴


すぐさま一緒に四国に渡り
愛媛県保国寺、阿波国分寺庭園などを視察し
吉野川支流へ行き、
徳島の美しい青石に感銘を受けます。

イサムノグチはすぐさま、
パリユネスコの庭を当初の36個の石から
57個の石(青石含む)にまで大
幅に変更しました。

またその際に、
それまで加工し使用していた石を
一切加工せずに三玲と同じように、
そのまま見立てで使用しました。

その後のIBMの
庭青石も同じように見立てで使い
一切加工しなかったそうです。

イサムが京都の定宿にしていた
菊屋旅館の女将は

三玲に合った時のイサムの興奮した様子を
何度も垣間見ていたといいます。
イサムの作品にはそれほど
三玲は影響したようです。





1956年、初めて
庵治石の産地である香川県の牟礼町を
訪れたノグチは、1969年からは五剣山と屋島の間にあるこの地にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、
NYを往き来しながら
石の作家である和泉正敏をパートナーに
制作に励みました。

※イサムノグチ庭園美術館より抜粋

つまりイサムと三玲が出会って、
三玲に随行し四国に始めて
石を探しに行った時に、
香川県の牟礼町を訪れたのだと
推測できます。

三玲の存在がなければ、
イサムが四国にアトリエを持つこともなく
また、日本とアメリカの
架け橋となるような活動も
減ってしまったと思います。

またイサムノグチの有名な
岐阜提灯AKARIシリーズも、

人と人
あるいは人と工芸が
出会う事によって

作品や人生まで変わります。

沼尻宗真









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