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美濃焼熱湯甲子園/美濃焼・美濃桃山陶の歴史は茶の湯の歴史と共に/沼尻真一

 
●美濃桃山陶ブームのはじまりは、唐物茶碗から和物茶碗へ
 
唐物茶碗から和物茶碗へ移る歴史は
唐物の天目茶碗の写しから始まりました。
 
愛知県瀬戸市の瀬戸窯が鎌倉時代後期から室町時代
初期頃に茶陶の生産を始めたのを起点として、
桃山時代には日本でしか生まれない、独自の茶碗が
焼かれるようになります。
 
それが美濃焼の瀬戸黒茶碗、楽茶碗に見られる
天目形を脱した「半筒形」の茶碗でした。
 
和物茶碗最大の特徴となる半筒形がどのように生まれたかは
判然としませんが、16世紀から17世紀初頭にかけてをピークとして
美濃焼の黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部と楽焼という和物茶碗が
盛んに作られ、茶人の間で大いに用いられたのです。
 
それは必ずしも関白秀吉や武将たちの上流階級ばかりでなく、
特別富裕でない一般の町衆たちにも支えられた美意識だったはずです。
 
・武者小路千家 千宗屋氏
 
 
●織田信長と美濃桃山陶

織田信長は 「天下布武」(てんかふぶ)を目指し、
人生のすべてを、戦闘に費やしたといっても過言ではないでしょう。
ひらめきの天才、先取の気性とハイカラ趣味、
そして、独創的で合理的な戦略家というイメージが強く、
その生きざまには「颯爽感」が漂います。
 
織田信長は、1534年(天文3年)に、
「尾張」(現在の愛知県)で生まれました。
23歳の頃から、「美濃」地方の攻略をはじめました。

当時、「美濃を制する者は天下を制する」といわれていたからです。
 
1567年(永禄10年)、34歳になった織田信長は、
稲葉山城の陥落に成功しました。
1576年(天正4年)、信長は、安土城を築きました。
この前後、信長は、千利休、今井宗久、津田宗及らを茶堂として
召しかかえ、しばしば大規模な茶会を催しました。
また、特定の家臣に茶の湯を許可するなどし、茶の湯を政治の一助としました。

1582年(天正10年)、京都で起きた「本能寺の変」で、
信長は自刃しました。享年49歳。 

織田信長が活躍しはじめた頃から、「美濃焼」は、
日本のやきものの歴史に、
燦然(さんぜん)とした光を放ちはじめます。
それらは、「美濃桃山陶」とよばれる、
茶の湯でつかわれる陶器群です。
茶の湯は、客人を招いて交流を楽しむお作法ですが、
食事もしますので、お茶碗だけでなく、
向付(むこうづけ)などの器にも
気を配りました。

上記のように、織田信長は、特定の家臣に茶の湯を許可しました。
茶の湯は、信長により「正式な武家儀礼」となったのです。
その後、「茶の湯」は、ますます隆盛を誇り
人々の、茶碗や茶器への関心もエスカレートしていきます。
信長の家臣のなかには、 戦功として、一国の領地をもらうよりも、
小さな「名物茶入れ」を一つもらうほうがいいと思う人も現れました。
美濃桃山陶が開花したのは、まさにこの時です。
信長の大きな庇護により、美濃地方の窯は活況を呈しはじめます。
 

※土岐市に「五斗蒔街道」とありますが、
五斗蒔(ごとまき)という地名は、このあたりが、
「稲を育てても一反に五斗の米しかとれない」ほどの
やせた土地だったことに由来します。
(参考までに、1反は、約300坪、5斗は、約15キログラムです)
しかし、この街道沿いは、米はとれなくても、
志野に不可欠の「もぐさ土」と、白い釉薬のもとになる長石、
そして、燃料の赤松が豊富にあり、
美濃焼には、最適の場所だったようです。
 

●安土桃山時代−茶の湯は千利休、古田織部、小堀遠州へ

そのころ焼かれた陶器を古瀬戸と区別して、古瀬戸系施釉陶器と呼ばれています。
そして、
天正2年頃瀬戸で陶芸の奥義を極め、織田信長の朱印状を
与えられた加藤与三衛景光が、土岐の久尻に移り住み、
またこの地の土(もぐさ土)が製陶に適することを発見し、
窯を築き陶業を始めたといわれています。
そして天正年間から文禄、慶長、元和(16世紀から17世紀)にかけての
安土桃山時代には、唐物から和物へと改革された茶の湯の世界の
流行とともに芸術性を高め、美濃焼を代表する瀬戸黒(引出黒)、
黄瀬戸、志野、織部が、織田信長の保護のもとに数々の名工や、
千利休や古田織部の指導により美意識の頂点まで登りつめ、
茶人好みの数々の名陶が創り出される旬欄たる時代を迎えました。
その約40年間たらずの期間(西暦1600年をはさんで前後)に
独創的な釉薬の開発と日本独特の茶陶というやきものの世界を創りだしました。
しかし、桃山から江戸時代にかけて他の追従を許さず、
一気に隆盛をきわめた千利休、古田織部好みの美濃の茶陶は、
後を継いだ小堀遠州のわび、さびの提唱により京都の
楽、仁清、乾山のきれいにまとまった遠州好みにその座を譲らざる得なくなりました。


●古田織部−へうげもの誕生!

室町末期から安土桃山時代、天正、文禄、慶長(1573〜1615)の
40〜50年間にかけて、天下一宗匠の位を獲得した、武野紹鴎、
千利休、古田織部の三茶人がおり、
夫々師弟関係にもなっていた。
 なかでも、古田織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(秀忠)の
三英傑のもとで、武人と茶人の道を立派に使い分けながら、自由、奔放、斬新、
独創の精神で茶陶、食器などに限らず、桃山時代の産業文化に大改革を齎した
特異な才能の持ち主であった。

織部は、天文13年(1544)、岐阜県本巣町で生まれた。
ときは室町幕府の末期で、世界は、中世も終焉を迎えようとしていた。
長じて17才の頃、当時左介と呼ばれていた織部は、
元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、
永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共に
その家臣として仕え天下人となった
織田信長のもとへ仕官をする。
進取の気性に富む信長の影響を受けて、
織部39才の時に、本能寺の変で信長が自刃するまで、
その精神形成は信長のもとで培われたといえよう。

室町時代の流行語で「バサラ」(婆娑羅─華美で派手な服装をしたり、
勝手きままな振る舞いをすること)と言う言葉があったが、織田信長は
正にバサラな人物であったと思われる。
織部はその芸術の展開において、バサラが遺憾なく発揮されたといって
よいのではなかろうか。その不均衡な「ゆがみ」「ひずみ」「へうげ」
「アンバランス」といった意外なる美。そして反面「いき」「あそび」といった
これまでの美の概念を変えてしまう。それがバサラである。

博多の豪商で茶人でもあった神谷宗湛が記す「宗湛日記」に、
古田織部の茶会の様子がみられる。客は安芸宰相毛利輝元、
毛利秀包、宗湛の三人。
「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」とあり、新趣向の茶碗が登場した
有名な茶会であった。
 ※ヒズミ候也(大辞林─ひずむ→力が加わったため形が歪む。いびつになる。)
 ※ヘウケモノ也 俳人の言、おどけもの
 (大辞林─剽軽もの→気軽明朗であって滑稽なこと。おどけもの。)

日本の茶の湯は、冷、凍、寂、枯を基本として日本人特有の
審美眼に支えられ、唐物一辺倒を脱却した日本独自の茶道であり、
千利休はこの美学を最も正確に理解し、そのスローガンを基幹に
据えて創造を行い、茶の湯の道を大きく前進させた人である。
然し、それはある意味では頑なな古風な茶の湯だったのである。

そこにこの美学に何とも無頓着な茶好きの天下人が現れた。
豊臣秀吉である。
秀吉の茶好きは有名であり、彼が収集した名物の数の多さと、
催した茶席の数と言い、茶の湯の大衆化、発展の功労者として
空前絶後の武将と言わざるを得ない。
そして千利休に全幅の信頼を置き、一位の宗匠であり、
何事についても相談役でもあった。従って、冷、凍、寂、枯の
美学に忠実な茶人でもあったが、一方では自由気侭に
茶の湯のマニアルに従うことなく、破格を楽しむ茶人でもあった。
又、天下人としての勢力を天下に示す絶好の道具にも使った。

古田織部の茶の湯は、秀吉の茶の湯をバックとした
わけではなかったが、利休の古典的で厳格な茶の湯より
秀吉好みに近かったし、又一般大衆に受け易い、
開放的な茶の湯の道を推し進めるのにそう時間はかからなかった。

天正13年、秀吉が関白に任ぜられ、豊臣の姓が勅許される。
同年、古田左介は、古田織部正(従五位下)山城国西の岡、
3万5千石の大名に列せられることとなった。
天正19年、利休は、秀吉の勘気にふれ、切腹させられる(70才)。
利休亡き後、秀吉のもとで織部は、天下一の宗匠を引き継ぎ、
「織部十作」とも伝えられるクラフトデザイナーをえらび、自由奔放に各地の
陶工に新しい茶器に限らず、やきもの全般を創造させた。
名物でない無名の茶道具が、古田織部のお墨付きを得ると高い評価になった。

これは日本各地の陶工を奮い立たせ、日本文化産業の興隆への
偉大なる貢献と言えよう。
織部は、美濃焼、瀬戸焼、唐津焼、伊賀焼、信楽焼、丹波焼、
備前焼、常滑焼などと連絡をとり、各地の陶工は、織部の作風を
とりいれながら、夫々その独自の作品を創製し、その個性美を
強調していった事が伝世品からも確かめられる。

且つ、それらの作品は、織部の茶席の中でみごとに取り合わされ、
次々と新しい数奇を演出し、数奇者達にも受け入れられ、
そして各陶工の関心を高め、桃山文化の演出者としての
織部の地位は不動のものとなった。
中でも、織部が最も深く交流したのは唐津である。
秀吉は、文禄、慶長の役に当って佐賀鎮西町の地に、朝鮮進攻の拠点とする
名護屋城を築城する。古田織部は、秀吉の本隊に随行する後備衆となった。
唐津は、この地である。

さらに織部は、美濃の窯大将加藤景延をして、唐津焼の窯を研究させる。
景延は、唐津の連房式登り窯を学び、美濃で初めて現在の元屋敷窯跡に
みられる登り窯を築窯する。
その大量生産方式で美濃は他を圧倒する生産地になり、
黄瀬戸、志野で始まった桃山陶器は、美濃黒織部、
美濃唐津織部、美濃伊賀など、茶入、香合、向付、鉢、水滴など織部焼は
完成に近づくのである。

かくして、加藤四郎左衛門景延は、土岐の陶祖(織部)とされ、
織部は唐津から築窯技術を、唐津は織部の新陶芸様式を学び、
互いにギブアンドテイクの交流により共に盛業を齎すのである。
前述の信楽、丹波、備前、常滑も夫々その個性を打ち出すとともに、
古田織部に学ぶところ多く、桃山陶器は特異な一時期を
形成していったのである。

又、当時京都や大坂で大流行し、町人も武士も快楽桃山を
謳歌して着用した「辻ヶ花」染の衣装の文様と織部の文様には、
共通点が多く指摘されている。織部正という役職は、
染織関係の長官でもあったらしく、織部は京都に邸宅を持ち、
京都を中心とした織物、染色関係のデザイナー達と、「織部十作」の
陶画工との間で何等かの助言、資料の提供などの交流が
あったことは推察出来る。「四方蓋物」「扇面蓋物」「手付四方鉢」などと、
「辻ヶ花」染の文様は、同根と思われるものが多い。
・金野善五郎著



■前期の美濃桃山陶

室町時代後期〜安土桃山時代中期
(天正・文禄・慶長)


●瀬戸黒
桃山時代に入り、「わび・さび」の価値観が形成されていく中で、
京都の「黒楽」(くろらく)と、美濃の「瀬戸黒」(せとぐろ)という、
2種類の黒い茶碗が生まれました。ともに、焼成中の窯から引き出し、
急冷させることで、鉄釉を漆黒色に発色させる技法を用います。しかし、
京都の黒楽が、手捻り成形の低火度焼成であるのに対して、美濃の
瀬戸黒は轆轤(ろくろ)成形で高火度焼成という違いがありました。
瀬戸黒は、時代が下るにしたがって、歪みのある織部黒へと移行しました。


●志野
「志野」(しの)は、日本で最初に生まれた白いやきものです。
美濃地方特有の「もぐさ土」と呼ばれる白い土の上に、長石釉を施し、
大窯で焼成します。多くは長石釉の下に「鬼板」(おにいた)と呼ばれる
酸化鉄の顔料で文様が描かれています。志野は、筆によって絵つけされた、
日本で最初のやきものです。その穏やかな風合いに「もっとも日本的なやきもの」
だともいわれます。茶碗、花入、水指など、多くの名品が残されています。


●黄瀬戸
中国伝来の「青磁」(せいじ)は、還元焔(かんげんえん)焼成によってつくられますが、
これが酸化焔(さんかえん)焼成で終わると、灰釉(かいゆう)が青色にならず、
黄色に発色したやきものになります。「黄瀬戸」(きせと)は、
いわば青磁の失敗例から始まりましたが、表面に、菖蒲(しょうぶ)や
菊などの文様を印花したり、「タンパン」と呼ばれる銅緑釉が施されて、
味わい深い独特のやきものに脱皮しました。鉢や向付(むこうづけ)、
香合などが多くつくられました。


■後期 美濃桃山陶

安土桃山時代後期〜江戸時代初期
(慶長・元和・寛永)


 
●織部
「織部」(おりべ)には、いろんな種類がありますが、一般に、
鮮やかな緑色のやきものとして知られているのが「青織部」です。
形状はさまざまですが、部分的に銅緑釉がかけられ、余白には
鉄で文様が描かれています。このように、2種類の釉薬によって
器面を分割する意匠は独特で、桃山時代以降、織部は、
たいへんな人気を博したようです。これを創始した古田織部という人の
デザイン能力と、プロデュース能力には、ただただ驚嘆するばかりです。
青織部には、茶道具のほかに食器類も多く、とくに向付(むこうづけ)の形は
バラエティーに富んでいます。

●織部黒
 「瀬戸黒」(せとぐろ)は、端正な半筒形で、利休好みでしたが、
「織部黒」(おりべぐろ)は、これが伸びやかに展開して、「ひずみ」と
「瓢軽(ひようげ・ひょうきん)」をあわせもつ、織部好みのものとなりました。
歪んだ形を、平安時代の木沓(きぐつ)に例えて「沓茶碗」(くつぢゃわん)とも
呼びます。写真のように、織部黒に似ているのですが、黒釉をかけ分けて間取りし、
余白に黒で文様を描いたものを黒織部(くろおりべ)といって区別します。


江戸時代に入り、慶長年間をすぎると、
それまで指導的立場にあった京都の数寄者(お茶人たち)の
美濃に対する影響力がなくなりました。
美濃の出身でもあり、織田信長亡き後「織部十作」として
美濃の陶工を支援してきた古田織部も、
大坂冬の陣のあと、切腹ということになってしまいました。
また、徳川幕府により、美濃地方は、
小さな天領や旗本領に細分化されて、
有力な保護者がいなくなってしまったのです。

やがて、鍋島藩の磁器や、加賀藩の九谷など、
大きな藩の庇護を得たやきものが発展し、
さらに、仁清(にんせい)や、乾山(けんざん)など、
京都の新しいやきものの隆盛が、追い打ちをかけました。
パトロンを失った美濃焼の窯は、その後、長い期間にわたって
深く土に埋もれてしまうことになります。

いつの間にか、「志野や織部は、瀬戸で焼かれていた」という
間違った考えが広まっていたのです。
1930年(昭和5年)に、荒川豊蔵は、
可児市の大萱牟田洞(おおがやむたぼら)の古窯跡を調査して
伝世の名品と同種の、志野の陶片を発掘しました。
このことにより、桃山時代の志野は、 美濃で作られていた事が
実証されました。


●人間国宝 荒川豊蔵先生により再興した美濃陶

この美濃地方で、明治から昭和にかけて
活躍した陶芸家に、荒川豊蔵先生がいます。
1894年(明治27年)に、岐阜県多治見市に生まれました。
大正時代は、京都で東山窯の工場長としてはたらきました。

魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。

・古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日〜10日 - 魯山人が名古屋の松阪屋で
「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から
名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。
茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする
通説に疑問を持つ。
 
※魯山人は東京での個展よりも、売り上げの多かった
  名古屋の個展での成功を大いに喜んだという。それは売りあげではなく、
  関東の人間にはわからない感覚だと思うが、名古屋は
  尾張100万石として芸事の盛んな場所であり、
  美濃・瀬戸など陶器の産地もあって、目利きが多い。
  陶磁器の目利きの多い名古屋で成功したことが嬉しかったと記している。
 
その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の
古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、
志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の
全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。

※荒川豊蔵先生、北大路魯山人と共に、発掘調査を行った人物が
  昭和5年当時、多治見工業高校の高木先生である。
  小山富士夫先生著「徳利と酒盃・漁陶紀行
  高木先生は、発掘した陶片は全て美濃の財産であるという意思のもと
  陶片を私物化することなく、高木先生はその全てを
  多治見工業高校へと寄贈し、現在も多治見工業高校には
  多くの美濃桃山陶の重要な陶片が保管されている。

  ちなみに多治見工業高校は明治31年に、岐阜県陶磁器講習所として開設され
  明治33年(1900年)土岐郡立 陶器学校と改称
  創立114年を迎える歴史と伝統を誇る工業高校であり、
  卒業生は2万有余人を数え地元陶磁器産業をはじめ
  東海の企業多くの産業人を輩出しています。
  また、県下で唯一の専攻科陶磁科学芸術科を有する県立学校でもあり、
  人間国宝や文化功労者をはじめとする陶芸家等の著名な方々を
  輩出各界で有為な人材として活躍されています。

1932年(昭和7年)に、現在の岐阜県可児市に築窯し、
精力的に作陶をはじめました。
そして、1955年(昭和30年)に、
重要無形文化財の「志野」と「瀬戸黒」の
2つの保持者(人間国宝)に認定されました。
1971年(昭和46年)に、文化勲章を受章し、
1985年(昭和60年)に没しました。
現代の美濃陶の礎を築かれました。
 
 
・白州正子著「真贋のあいだ」
「…仕事場は蒲鉾兵舎を移したもので、まるで科学の研究所みたいだった。
魯山人や荒川豊蔵の工房を見慣れた私には意外でした。…あの人は、
役者で、窯出しした茶碗を叩き壊したり、演技なのか自然なのか、
テレビに出ても実にうまい。…『永仁の壺』なんか作っちゃうから
無冠のままだったけど、
かえって野人で良かったとおもいます。事件の起こる前、美濃の
白山神社に行って鎌倉時代作の『本歌』の方も私は見てましたが、
こりゃあ間違えてもしょうがないというようなものでした。
『本歌』と変わりないほどよくできているから。瀬戸ではみんな敵視してたけど、
ちょっと見方が狭いわね。いいものはいいと認めなきゃ。
やきものには人間が出る。魂があるっていうのね。
そういうものがないとやきものでないのよ。…唐九郎さんは本物の職人だった。
自分は作家だ、芸術家だと思ってやっている人はダメ。
唐九郎さんは芸術家だったけど、自分の心構えとしては職人なんです。…」


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戦国時代という切実な時代に、同時に茶の湯も
隆盛を極めるとは、どこか互いに繋がった要素が
あったのだろうと思う。
 
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国大名に
仕え、千利休の弟子でもあった美濃出身の
古田織部の存在は美濃陶においてとても重要な
意味を持っている。
 
織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、
利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、
それを一つの流派に育て上げた。
「織部十作」を組織し、美濃の陶工を支援し
和物の名茶碗を輩出していることや、
職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、
自らはいわば茶の湯のコーディネイター
として指導にあたった。
 
武士であり大名でありながら、千利休の弟子から
利休亡き後は、筆頭茶頭として時の権力者に
従事している事など。
 
千利休や古田織部などが作った数寄が、
500年後の今も、日本人のどこかいいなとか、
美しいと感じるポイントに影響していると思う。
 
侘び寂びや綺麗寂びと言われるが、
そこの解釈はさておき、
現代の美濃陶はもちろん、日本の陶芸、プロダクトデザイン、
建築すべてに影響している原点だと思う。
 
とにかく美しいものを作るということは、
ももちろん大切だが、
作った美しいもので、何をしたいのか。
 
それを見た人や買った人がどう使い、
どうなって行ってほしいのか?
 
ものを作ることと同時に、
それを考えて行く事が重要だと思う。
 
それは何のために作っているのか?という事だろうし、
一体自分は何者でどんなミッション(ささやかでも・
切実なる個人的事情)が
あるのか知るということなのだろうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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