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納屋で生まれたのは、キリストだけじゃない。ブルーノ・タウト/沼尻真一

日本の古典建築というものに、いったい何があるのかと思ったら、
それは「納屋」でしかなかった。
 
実際に日本の農家には、こういう国際的特性を今に
いたるまで保存しているものがある。
かかる農家の輪郭は、特殊の地方的風土にもとづく
差異を度外視するならば、ヨーロッパの諸地方と
著しく類似しているばかりでなく、時には完全に
一致をさえ示している。
 
しかしヨーロッパの建築家の心をとらえたのは、
茶室に用いられている自然木の奇妙な形でもなければ、
時代の匂い(侘び)に対する愛好でもなかった。
 
またはなはなだしく非対称的な形姿でもなければ矮小精緻な
形式でもなく、まして日光廟の浮華を極めた過剰な装飾では
なかった。
 
彼等が日本から学びとったのは、実に
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
の理想化された観念であった、
そして今日といえどもおおむねこれにほかならないのである。
 
田圃のなかに建っているきわめて素朴な藁葺の作事小屋などを
見ると
それはこの国土、この日本の土壌から生い立ったもの、
いわば稲田のなかの農家の結晶であり、この国とその土壌との
力を納めた聖櫃、すなわち真の「神殿」だからである。

ブルーノタウト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
豪華な家や建物に感動することがないので、なぜだろうと思う。
それよりも家の大きさとか豪華さではなく、どのように
暮らしているか、
もっといえばその場所、その家を
あるいはその町で、どう心地よい部分を
「トリミングして住みきっている」かという事に
関心があるし
その住みきっている部分で心地よいと感じるのだと思う。
 
たとえば、イサムノグチ庭園美術館を訪れた際に

先に述べた
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
という感覚を感じた。

もちろんすでに美術館となっているものだから
綺麗なのはあたりまえではあるが、
それを差し引いたとしても、イサムノグチの作品
からも、やはり生前でも同じ空気が
流れていたのだろうと感じずにはいられなかった。
 
掃ききられた土のうえを歩く心地よさ。
 
恐らく、どんなに建物が豪華であっても
このように掃ききられた感覚というものが存在しなくては
清々しさは生まれてこないのだろう。
 
建物+場所+掃き清める
 
という感覚は建物だけでなく
人間の中にも同じものを持てるのだろう。
 
清楚な者、清楚な物が日々無くなっている
今だからこそ
いつも見れるように、感じれるようにしたい思う。


沼尻真一






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