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抹茶茶碗 2 − 沼尻真一の陶棲

JUGEMテーマ:アート・デザイン


 
img_00532.JPG

 
黄瀬戸の茶碗を見よう見まねで水引きすれば、
切立の湯飲みの大きいものを、構造的にも作ることになる。
それは結局、
軽くしようとして、薄っぺらに引いて終わりということではなく
ある部分には肉を残し、またある部分は
ごく薄く引く、という断面図あるいは、
削りを意識した重心バランスから逆算したロクロ引きが
必要となるということがわかる。
だから、古典をそのまま寸法どおり写したとしても
同じものは、水引きの過程から違うわけで、
エックス線解析でもしなければ、結局は
外見だけでなく、もっと重要な断面図つまりは
重心バランスや削りによる完成形を考えながら、
水引しておくという事まで気づくようになるだろう。
陶芸が良くなる順番は、外→中→断面
外側、中側 断面図
なのです。
つまり、中身、肉を意識して轆轤がひけるということです
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今や、桃山の茶碗を削りも焼きも含めて
完璧に写したものができても、誰も関心しない
しかし、写さなければ掴めないものが
あるのも事実だと思います。
瀬戸の林邦佳先生が話していた言葉を
聞いたのですが、

修行は、単なる模倣ではなく、古いものを真似するということでもある。
彼はこれを模古と言っている。あのモーツァルトも、
「模倣は創造の唯一の母である」と言っているらしいが、
感性を養う訓練として有効な手立てなのだ。例えば東洋医学の世界でも、
人間の形を写すことによって、
形の乱れから病状を知るという訓練があるが、それと合い通じるものがある。
林先生の言葉を借りれば、
模古をするとなぜそうなのか?そうすることで何が生まれているのか
わかる。



img_00541.JPG


結局面倒でも、写しには、桃山の陶工たちが、
何も考えずに
作ったのではなく、いかに効率よくそして
いかに美しく実用的にも作れるかという
作り方の手順や手際のDNAがそこに詰まっているという
意味も兼ねていると感じる。
img_00542.JPG

□桃山時代の黄瀬戸の陶片(左側:碁笥底高台まわり、右が玉縁)
  古窯出土品:大島先生蔵品(先生は常に古典を手本にさせてくれる)


現に、外見は切立湯のみを引くように
軽量化するためにもペラペラに胴を引き上げた
所で、そこには 薄くて持てば熱い茶碗で
しかも、もち手の部分が薄いというだけで
重厚感、高級感がまったくなくなってしまうのだ。
模古は遠回りである。
しかし、この違いを理解して進めるかどうかは、
明らかに自分の眼を自分の手、つまり持った感覚や触覚を
どう養うことができるのではないだろうか。


 
img_00546.JPG
 
伝統に限らず、どんな何をつくろうとしても、
自分の眼と手の触覚に、どこか何かの拠り所があれば
自分が自分で読み取り理解し、納得できるという部分で、
何も躊躇することがなくなるのだと思う。

自分の規格化というのが、答えだろう。









 

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