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勅使河原三郎・高山宏・川瀬敏郎の美学それは「記憶の中の京都」 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


清少納言も芭蕉も「変化の小ささ」、葉っぱの色づきのような
季節の変化のちょっとした「うつろひ」「しをり」「ほそみ」に
感じる微妙な変化を一瞬で掬い上げる言葉を表現しています。

それはポップで分かりやすいものではなく、
ごく薄味の中にあるトップ、ミドル、ベースノートのように
重なり合うコクと、バランスを外すスパイスが
三人の共通点であると感じました。

誰の中にもある「記憶の京都」、
それは高山さんや川瀬さんの話を聞いて、
もはやその見立ては、日本人よりも
フランス人やイギリス人の方ができる時代に
なってしまったのかもしれません。

「食と農」、「着物と日本人」、「日本文化と日本人」などが
今や日本人にとって、外国人以上に遠く離れてきているように思います。
その原因は、農や着物も、茶も華も日本では
もはやその世界に生きる特別な人のものであって、
触れてはならないアンタッチャブルな存在になってしまった事が
原因だろうと思います。

しかしそれも建築の垂直を信じない勅使河原さん的に言えば、
信じてはいけないのだと思います。

勅使河原さん、高山さん、川瀬さん三人に共通しているのは、
どの事柄にしても、原点や始祖に立ち返った視点だと思います。
はじめの一歩から、形骸化された型などあるはずがなく、
そうすることで何も特別な事ではないと分かります。

内側で一緒に流されてしまった日本人よりも、
イギリス人やフランス人のように、「記憶の京都、記憶の日本」
のイメージを持っている方が、
日本人以上に萎縮なく、スムーズに日本文化を
見立てることができる時代になったのかも知れません。

「華を自然界から切り器に入れることで、さらに命を引き立てる。」
という川瀬さんの言葉と作品を見たときに、
神々しい違和感を感じました。

自然をリスペクトすると言うことは、自然をそのまま表現する
事ではなく、つまり「似て非なるもの」よりは、
非日常性、つまり神々に捧げるための違和感が
作品の中に生まれているのだと思います。

それが川瀬さんの作品には、バックグラウンドに隠れているのに、
自然に見えてしまうというのは、川瀬さんが言っていたように
実は私たちの「錯覚」なんだと思います。

なぜ錯覚するのか、それが個々の中にある
「記憶の京都・日本」が働き出すからだと思います。

勅使河原さんは、不可解なもの、不確かなものに
かかわり合うことで学んでいると言っています。、

つまり「記憶の京都」は
花札や着物、陶器、漆器などあらゆる日本の工藝品の
絵の中に、反映されているといえますし、誰の中にも
それは存在しているものだと思います。





























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