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祈る場所はありますか? − 沼尻真一

JUGEMテーマ:小説/詩
 
今日、宗教は音楽、絵画、詩、建築など藝術すべての
「幹」として存在してきました。

ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも
無心な信仰に在るのと同じなのです。
信仰史が宗教の正史なのです。

信仰の前に神学は二次なのです。

と柳さんが言われたように、
もはや宗教こそ完成されてからの年月が最も長いアートとして、
茶道などよりも著しく形骸化されていると思います。

しかし、キリストもブッタもいない時代の
われわれの多くの祖先を考えた時に、
星や月、太陽、山や滝、四季のうつろい、自然現象
など身の回りで起こる、さまざまな変化の中に、
人間とは違う存在を認め出してきたのではないでしょうか。

シンプルに考えるとき、
宗教の発生とはこのような
無心の信仰だけだったのだと思います。

しかし、形骸化されたとはいえ宗教が幹となり、
様々な藝術を生み出す原動力となっているのは明らかです。

ではこのような信仰が、ものづくりをする上で
必要であるとするならば
形骸化した宗教しかない、今という時代において私たちの
できることは、

「一人ひとりが、パーソナルな宗教をつくる」ことではないかと思います。

宗教の発生、信仰の発生を見るときに、
私たち一人ひとりが、古のごとく
「信仰」をつくればよいのだと思います。

おおざっぱに言えば、
宗教をなすものにどんなツールがありますでしょうか?

教祖、祭壇、バイブル、お経、仏像、教会、お寺
お線香、ミサ、賛美歌、位牌、仏壇などなど

人々がまだ野山や自然を神として自由に信仰し
そこに、統治も国も、確立されていない時代から
つまり発展途上の場所から、これらのツールにより
統治され、一つの秩序がうまれ政治的にも利用されて
きました。

そんな大それたものに対して、「マイ宗教」では

気に入った写真、自分や友人、先祖、両親、
言葉、音楽、本、品物を本棚の一角や
机の空いたスペースにまとめることで、

祈り、見、喜ぶため、そして信仰するための
マイ祭壇、マイ仏壇をつくり、それを信仰するのです。

でも実は、意識していなくても
部屋の一角やどこかに必ず、何となくそんなスペース
心の拠り所のようなスペースが以外に誰にもあるのです。

私たちの祖先が、神聖だと思った川原や海から
石ころを拾ってきて、洞窟においたように、
ただそのスペースをもっと意識してつくってみても
おもしろいと思うのです。













コメント
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  • 2011/03/28 9:45 PM
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  • -
  • 2011/03/25 11:53 PM
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