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民藝運動と宗教 − 沼尻真一


民藝が公道なのです。
工藝の正史は民藝史なのです。

ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも
無心な信仰に在るのと同じなのです。
信仰史が宗教の正史なのです。

信仰の前に神学は二次なのです。

同じように無心の民藝の美に対して、
個人の意識的な作は二次なのです。

なぜなら無心は意識よりも、もっと深いものを
捕らえるからです。

・「手仕事の日本」柳宗悦 昭和18年

ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも
無心な信仰に在るのと同じなのです。
信仰史が宗教の正史なのです。

信仰の前に神学は二次なのです。


この言葉の持つ意味が、僕が柳さんを理解してみたかった
一つの重要な文章でした。

「宗教と美術」について以前僕が推測したのは、

まるで大学の学部や時間割を増やしたいがごとく
アカデミックな学問として、私たちの前に提示されていますが、
本来、宗教と美術なんてものは、今も昔も一緒のものだと
思って間違いないでしょう。

だから柳さんにはそこに違和感が無い。

そう考えるに、民藝館で収集された 木喰の彫った
といわれる木喰仏などをはじめとした、仏教美術の蒐集には
僕のような、罰当たりになりはしないかと言う発想が
生まれるわけがないのです。

これは柳さんの蒐集についてから見えた部分での意見でしたが、

やはり独創的な風習や文化が続いていくと
その分野に「論理」や「学問」が展開され、編集され
いつの間にか「型」ができ、そしてそこに「組織」ができ
システマチックに「情報処理」がされていきます。

そして、その時間が長いほど「伝統的」だという
とみられ、そこに「権威」が生まれてていくという事が
「茶道」や「大学の先生」などに見られるように思います。

ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも
無心な信仰に在る


大学生といえど、社会人といえど、
工藝や美術、宗教に限らず、
自分の頭で考えて見る事や直感を信じず、
これほど形骸化したものに、へつらい、崇拝してしまう
現代社会は、昭和18年の柳さんの時代よりもさらに、
エスカレートし、情報がある種の意向により
編集されリクルート、ナビゲートされ、まったくその本質を見失って
しまっている世の中になっていると思います。

ではどうしたら、本質が見えるようになるのでしょうか。

この部分をさらに深く理解するためには、
柳さんの「宗教観」からだけでなく、「茶道の世界観」から
学べることがあると思っています。















 


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