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意図的でないどうしようもなくつくられた形は
単なる偶然ではなく、意思があってそこに
生まれたものだろう。
結局手前の生き様から生まれたものだけが、
他の心をも動かすことになるのだ。
生き様はスーッと、今の自分へと線が引かれている
どんなに今を繕ったところで、その線を
切ることは一生できないし、消すこともできない。
最終学歴がどうだこうだとそんな履歴書はクズだし、
それが生きることだと思っているのは余りに貧しい
むしろ自分の生き様年表が納得して
書けるかどうかそれだけだろう。
◆訳文
この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。
達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての他ではないか。
本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ
育ててやるべきであろう。 そしてこの道でもっとも大事なことは、
唐物と和物の境界を取り払うこと。
(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。
さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が
備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、
名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。
「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、
心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
これこそ茶の湯の面白さなのだ。
とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。
たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。
それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。
しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、
わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな) と古人もいう。
(現代語訳 能文社 2009)
高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の
中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれる安価な青磁が代表的)などの
粗末な道具を使用し、珠光の弟子の宗珠、武野紹鴎らがわび茶を発展させ、
千利休がこれを完成させたと考えられています。
珠光が行った事は、一説には唐物が無い事を憂うことにより
わびる、さびるという精神が生まれるという話を聞いたことがありますが、
僕が思うにはそれは
「無いが心にある」 「心の目にはそれが映る」
つまり
心と物がイコールのような関係になれる方が、むしろ健やかなり。
だから清々しい。
という見立てなのではないかと感じています。
○心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
(現代語訳 能文社 2009)
初心者だけが核心を突くことができる世界があります。
知りすぎて一生外周を回る人生があります。
僕はやはりどこかに意図的に欠けをつくって、
伸び代や無邪気な子供心が必要なのではないかと思います。
○たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。(現代語訳 能文社 2009)
以前話したように、今から100年近くも前に柳宋悦さんが
なぜ日本の茶道に警鐘をならしたのか?
その答えの鍵が、今回の日本の文化の流れにあるように
現時点では思います。
本来は高価な唐物名物を用いた茶の湯への反抗であり、
楽茶碗や竹製の花生、量産の漆塗り茶入である棗といった
安価な道具を用いるものであったが、江戸時代に家元が権威化すると、
箱書や伝来、命銘などによってこれらの道具も名物へと転化してしまった。
また近代以降は大寄せの茶会の普及によって、
本来草体である小間の格式が上がってしまい、
真体である唐銅の花生や唐物茶入を好んで小間に用いるという
逆転現象も発生している。
僕てきに言えば「侘びがさびれば華が咲く。」
流行追う事は無意味でしょう。
茶、華、能などなどさらに細分化され形骸化されつくした
日本文化が村田珠光の室町時代と
同じように、いま臨界点に達していると思います。
形骸化したミイラで永久保存し崇拝するか、
とことん腐らせてこぼれ種からその土になじんだ
自己流の作物を作るか。
それがこれからの日本文化の見所なのではないかと思います。
沼尻真一
清少納言も芭蕉も「変化の小ささ」、葉っぱの色づきのような
季節の変化のちょっとした「うつろひ」「しをり」「ほそみ」に
感じる微妙な変化を一瞬で掬い上げる言葉を表現しています。
それはポップで分かりやすいものではなく、
ごく薄味の中にあるトップ、ミドル、ベースノートのように
重なり合うコクと、バランスを外すスパイスが
三人の共通点であると感じました。
誰の中にもある「記憶の京都」、
それは高山さんや川瀬さんの話を聞いて、
もはやその見立ては、日本人よりも
フランス人やイギリス人の方ができる時代に
なってしまったのかもしれません。
「食と農」、「着物と日本人」、「日本文化と日本人」などが
今や日本人にとって、外国人以上に遠く離れてきているように思います。
その原因は、農や着物も、茶も華も日本では
もはやその世界に生きる特別な人のものであって、
触れてはならないアンタッチャブルな存在になってしまった事が
原因だろうと思います。
しかしそれも建築の垂直を信じない勅使河原さん的に言えば、
信じてはいけないのだと思います。
勅使河原さん、高山さん、川瀬さん三人に共通しているのは、
どの事柄にしても、原点や始祖に立ち返った視点だと思います。
はじめの一歩から、形骸化された型などあるはずがなく、
そうすることで何も特別な事ではないと分かります。
内側で一緒に流されてしまった日本人よりも、
イギリス人やフランス人のように、「記憶の京都、記憶の日本」
のイメージを持っている方が、
日本人以上に萎縮なく、スムーズに日本文化を
見立てることができる時代になったのかも知れません。
「華を自然界から切り器に入れることで、さらに命を引き立てる。」
という川瀬さんの言葉と作品を見たときに、
神々しい違和感を感じました。
自然をリスペクトすると言うことは、自然をそのまま表現する
事ではなく、つまり「似て非なるもの」よりは、
非日常性、つまり神々に捧げるための違和感が
作品の中に生まれているのだと思います。
それが川瀬さんの作品には、バックグラウンドに隠れているのに、
自然に見えてしまうというのは、川瀬さんが言っていたように
実は私たちの「錯覚」なんだと思います。
なぜ錯覚するのか、それが個々の中にある
「記憶の京都・日本」が働き出すからだと思います。
勅使河原さんは、不可解なもの、不確かなものに
かかわり合うことで学んでいると言っています。、
つまり「記憶の京都」は
花札や着物、陶器、漆器などあらゆる日本の工藝品の
絵の中に、反映されているといえますし、誰の中にも
それは存在しているものだと思います。
遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、
20年に一回、当時の先進国であった唐の文化や制度、
そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した事は
良く知られています。
唐が滅んだのちも、唐の後の宋(960年 - 1279年)の
宋商船は三十数回も肥前国や大輪田泊(現在の神戸港の一部)へ
来航し、日宋貿易を通じ、鎌倉時代には多くの宋人が住む
博多が拠点となり貿易が行われました。
宋側からは「唐物」といわれる香料・陶磁器・書籍・
南海産の鳥獣・医薬品・銅銭などが輸入され、
日本からは刀剣・水銀・硫黄(いおう)・木材・
砂金などが輸出されていました。
僕の教科書でもある、宋代・白磁の杯も
おそらく960年 - 1279年この辺りの輸入によって
日本に入ってきた可能性があります。
とくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、
最新の建築・土木技術、禅宗は日本の社会経済・
文化の諸分野に多大な影響を与えていました。
それにともなって、僧侶のなかには宋商船に便乗し
入宋する者もでてきたそうです。
1072年の入宋中の成仁(じょうじん)の日記
「参天台五大山記」には、神宗皇帝に謁見して
日本国が漢地のものを必要とする物貨は何か?との問いに
「香、薬、碗、錦、蘇芳(すほう)」なりと答え、日本における
唐物崇拝の実情が伺えます。
それ以降平安後期から、鎌倉時代も
唐物崇拝はまったく衰えることはなかったようです。
鎌倉時代(1185−1333)末期の元徳、元弘ごろに書かれた、
吉田兼好の「徒然草」にも記録が読み取れ、
吉田兼好にゆかりのある金沢文庫を発展させた
北条一族の武将で、金沢貞顕の墓石から発掘された骨壷が
宋の官窯で焼かれた、砧の青磁の壺であったという
エピソードも当時の唐物趣味が伺えます。
風土と素材と制作と、凡てのものは離れてはならぬ。
一体であるとき、品物は素直である。
自然が味方するからである。
凡ての形も、模様も、原料に招かれるのだというべきであろう。
原料をただの物質のみと思ってはならぬ。
そこには自然の意思の表れがある。
・引用/柳宗悦「雑器の美」より
今までもそうでしたが、どのような作品をみても
良いと思うものには、奇をてらう部分が無いことがわかります。
まるで自然に降りてきたように。
力技でねじ伏せるような事無く、
自然の一部に謙虚に参加させてもらうように、調和している。
もし違和感を感じてしまうのは、まだ自然に溶け込もうと
しているからだろうと思いますし、自然というと
何か有機的な様相をイメージしますが、
実は意外にモダンな様相を持ち得ているのです。
それは品物であってももちろん、
言葉や漢字であってもそうでしょう。
だから、羽遇 (ハグ) しましょう。
沼尻真一