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作られたのではなく、生まれたもの

JUGEMテーマ:アート・デザイン
 
何ものも永久にとは建てられない地震国で、
自然と不規則、鋭厳、簡潔とが支配する岩の庭の、
厳しい完璧さの平常素直な佇まいに、
このつつましい美しさが認められるのである。

                             *
意図的でないどうしようもなくつくられた形は
単なる偶然ではなく、意思があってそこに
生まれたものだろう。

結局手前の生き様から生まれたものだけが、
他の心をも動かすことになるのだ。

生き様はスーッと、今の自分へと線が引かれている
どんなに今を繕ったところで、その線を
切ることは一生できないし、消すこともできない。

最終学歴がどうだこうだとそんな履歴書はクズだし、
それが生きることだと思っているのは余りに貧しい
むしろ自分の生き様年表が納得して
書けるかどうかそれだけだろう。





















































濱田庄司展 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン



それは幼きころに見た美と

さまざまな国や地域の美を

ひとつのヒモのように

祈りを込めて編んだ業である。



型や思想よりはみださぬ事は、こちら側には頑なに
感じるが、その不自由な抑制された中で、もんどりうって
格闘する美は、さらに深さが増しているように思える。
 
不偏であったはずの思想が時代の影響を受けた際の
心の強弱の変化が読みとれる。
勲章が作風を固定してしまうことは
自由奔放な作陶精神に影響をあたえることも事実のようだ。

この堂々とした用の美はもはや凡人や小人の
ものでなく巨人のための用の美ではなかろうか。
それも一向に構わぬ。

紋様は祈りであり、姿は堂々として
自然から生まれた土に
施す釉は偶然性の美の追求である。

いやそれは偶然性の美の追究ではなく、
濱田が言っているように
「作ったのではなく、生まれた。」生むための業なのであろう。

意識の中に潜在した美と、
自然という意識を超越した気配との調和を作者が意識したときに
もはやそれは誰のものでもなく、
自然に帰依するべきものであったのだろう。
 
「どこから生まれ、それがどこへ帰るべきなのか」

それを知れば
濱田庄司の目指した場所が私にも見えてくるのではなかろうか。


沼尻真一















心の文 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


600年(推古8年)〜618年(推古26年)推古朝の俀國(倭国)が
18年間に5回以上派遣派遣した遣隋使。

遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、20年に一回派遣。

遣隋使、遣唐使を通じ、飛鳥、奈良、平安そして鎌倉、室町時代から
「遠い国の宝へのあこがれ」、唐物崇拝が
日本国内で脈々と育まれていた事が
今の日本の文化の礎となっていると思います。

しかし、文化というたいそうなものだけが特別なわけではなく、
万物熟成されれば腐らせるか、ミイラにするかの選択になるでしょうから、
唐物崇拝が熟成されるなかから、唐物から和物への転換期が
必然的に訪れる事になったのだと思います。

流行しすぎれば、また人と違ったものを持ちたくなるのも人情。
先日、ディーラーの方から聞いたように、、メルセデスが
日本で売れなくなったのも希少価値の低迷ではないでしょうか。
このように、500年後のいまも日常的にどこにもある輪廻です。

室町時代の茶人。わび茶の始祖村田珠光
応永29年1422年 - 文亀2年(1502年)が、
弟子の古市播磨法師 (
古市澄胤のこと) に宛てた手紙は
日本人が唐物崇拝から明らかに意識が変化した事を
表していると思います。

この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。
功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。

功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。
この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。

また、当時、ひえかる(冷え枯る)ると申して、初心の人体が、備前物、
信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。
かるる(枯るる)ということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、
心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。
また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。
いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。
ただ、我慢我執が悪きことにて候。
または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、
心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。


◆訳文

この道において、まず忌むべきは、自慢・執着の心である。
達人をそねみ、初心者を見下そうとする心。もっての他ではないか。
本来、達人には近づき一言の教えをも乞い、また初心者を目にかけ
育ててやるべきであろう。  そしてこの道でもっとも大事なことは、
唐物と和物の境界を取り払うこと。
(異文化を吸収し、己の独自の展開をする。)これを肝に銘じ、用心せねばならぬ。

さて昨今、「冷え枯れる」と申して、初心の者が
備前・信楽焼などをもち、目利きが眉をひそめるような、
名人ぶりを気取っているが、言語道断の沙汰である。

「枯れる」ということは、良き道具をもち、その味わいを知り、
心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。

これこそ茶の湯の面白さなのだ。
とはいうものの、それほどまでに至り得ぬ者は、道具へのこだわりを捨てよ。
たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。

それには、自慢・執着の心が何より妨げとなろう。
しかしまた、自ら誇りをもたねば成り立ち難い道でもあるのだが。
この道の至言として、

わが心の師となれ 心を師とするな
(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな) と古人もいう。

(現代語訳 能文社 2009)

高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、珠光は粗製の
中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれる安価な青磁が代表的)などの
粗末な道具を使用し、珠光の弟子の宗珠武野紹鴎らがわび茶を発展させ、
千利休がこれを完成させたと考えられています。


珠光が行った事は、一説には唐物が無い事を憂うことにより
わびる、さびるという精神が生まれるという話を聞いたことがありますが、
僕が思うにはそれは

「無いが心にある」  「心の目にはそれが映る」

つまり

心と物がイコールのような関係になれる方が、むしろ健やかなり。
だから清々しい。

という見立てなのではないかと感じています。


○心の成長に合わせ位を得、やがてたどり着く「冷えて」「痩せた」境地をいう。
(現代語訳 能文社 2009)


初心者だけが核心を突くことができる世界があります。
知りすぎて一生外周を回る人生があります。
僕はやはりどこかに意図的に欠けをつくって、
伸び代や無邪気な子供心が必要なのではないかと思います。


○たとえ人に「上手」と目されるようになろうとも、
人に教えを乞う姿勢が大事である。(現代語訳 能文社 2009)

以前話したように、今から100年近くも前に柳宋悦さんが
なぜ日本の茶道に警鐘をならしたのか?
その答えの鍵が、今回の日本の文化の流れにあるように
現時点では思います。


本来は高価な唐物名物を用いた茶の湯への反抗であり、
楽茶碗や竹製の花生、量産の漆塗り茶入であるといった
安価な道具を用いるものであったが、江戸時代に家元が権威化すると、
箱書や伝来、命銘などによってこれらの道具も名物へと転化してしまった。

また近代以降は大寄せの茶会の普及によって、
本来草体である小間の格式が上がってしまい、
真体である唐銅の花生や唐物茶入を好んで小間に用いるという
逆転現象も発生している。

僕てきに言えば「侘びがさびれば華が咲く。」
流行追う事は無意味でしょう。

茶、華、能などなどさらに細分化され形骸化されつくした
日本文化が村田珠光の室町時代と
同じように、いま臨界点に達していると思います。

形骸化したミイラで永久保存し崇拝するか、
とことん腐らせてこぼれ種からその土になじんだ
自己流の作物を作るか。

それがこれからの日本文化の見所なのではないかと思います。


沼尻真一

















勅使河原三郎・高山宏・川瀬敏郎の美学それは「記憶の中の京都」 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン


清少納言も芭蕉も「変化の小ささ」、葉っぱの色づきのような
季節の変化のちょっとした「うつろひ」「しをり」「ほそみ」に
感じる微妙な変化を一瞬で掬い上げる言葉を表現しています。

それはポップで分かりやすいものではなく、
ごく薄味の中にあるトップ、ミドル、ベースノートのように
重なり合うコクと、バランスを外すスパイスが
三人の共通点であると感じました。

誰の中にもある「記憶の京都」、
それは高山さんや川瀬さんの話を聞いて、
もはやその見立ては、日本人よりも
フランス人やイギリス人の方ができる時代に
なってしまったのかもしれません。

「食と農」、「着物と日本人」、「日本文化と日本人」などが
今や日本人にとって、外国人以上に遠く離れてきているように思います。
その原因は、農や着物も、茶も華も日本では
もはやその世界に生きる特別な人のものであって、
触れてはならないアンタッチャブルな存在になってしまった事が
原因だろうと思います。

しかしそれも建築の垂直を信じない勅使河原さん的に言えば、
信じてはいけないのだと思います。

勅使河原さん、高山さん、川瀬さん三人に共通しているのは、
どの事柄にしても、原点や始祖に立ち返った視点だと思います。
はじめの一歩から、形骸化された型などあるはずがなく、
そうすることで何も特別な事ではないと分かります。

内側で一緒に流されてしまった日本人よりも、
イギリス人やフランス人のように、「記憶の京都、記憶の日本」
のイメージを持っている方が、
日本人以上に萎縮なく、スムーズに日本文化を
見立てることができる時代になったのかも知れません。

「華を自然界から切り器に入れることで、さらに命を引き立てる。」
という川瀬さんの言葉と作品を見たときに、
神々しい違和感を感じました。

自然をリスペクトすると言うことは、自然をそのまま表現する
事ではなく、つまり「似て非なるもの」よりは、
非日常性、つまり神々に捧げるための違和感が
作品の中に生まれているのだと思います。

それが川瀬さんの作品には、バックグラウンドに隠れているのに、
自然に見えてしまうというのは、川瀬さんが言っていたように
実は私たちの「錯覚」なんだと思います。

なぜ錯覚するのか、それが個々の中にある
「記憶の京都・日本」が働き出すからだと思います。

勅使河原さんは、不可解なもの、不確かなものに
かかわり合うことで学んでいると言っています。、

つまり「記憶の京都」は
花札や着物、陶器、漆器などあらゆる日本の工藝品の
絵の中に、反映されているといえますし、誰の中にも
それは存在しているものだと思います。





























遣唐使から、日宋貿易そして、宋代の白磁へ − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン

遣唐使は630年〜838年までの約200年以上にわたり、
20年に一回、当時の先進国であった
の文化や制度、
そして
仏教の日本への伝播に大いに貢献した事は
良く知られています。

唐が滅んだのちも、唐の後の宋(
960年 - 1279年)の
宋商船は三十数回も
肥前国大輪田泊(現在の神戸港の一部)へ
来航し、
日宋貿易を通じ、鎌倉時代には多くの宋人が住む
博多が拠点となり貿易が行われました。

宋側からは「唐物」といわれる
香料陶磁器書籍
南海産の鳥獣・医薬品・銅銭などが輸入され、
日本からは
刀剣・水銀・硫黄(いおう)・木材・
砂金などが輸出されていました。

僕の教科書でもある、宋代・白磁の杯も
おそらく
960年 - 1279年この辺りの輸入によって
日本に入ってきた可能性があります。

とくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、
最新の建築・
土木技術禅宗は日本の社会経済・
文化の諸分野に多大な影響を与えていました。
それにともなって、僧侶のなかには宋商船に便乗し
入宋する者もでてきたそうです。

1072年の入宋中の成仁(じょうじん)の日記
「参天台五大山記」には、神宗皇帝に謁見して
日本国が漢地のものを必要とする物貨は何か?との問いに
「香、薬、碗、錦、蘇芳(すほう)」なりと答え、日本における
唐物崇拝の実情が伺えます。
それ以降平安後期から、鎌倉時代も
唐物崇拝はまったく衰えることはなかったようです。

鎌倉時代(1185−1333)末期の元徳、元弘ごろに書かれた、
吉田兼好の「徒然草」にも記録が読み取れ、
吉田兼好にゆかりのある金沢文庫を発展させた
北条一族の武将で、金沢貞顕の墓石から発掘された骨壷が
宋の官窯で焼かれた、砧の青磁の壺であったという
エピソードも当時の唐物趣味が伺えます。

















































形見分けが、僕の教科書/宋代・白磁の杯 − 沼尻真一

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「宋代・白磁の杯」


これが僕が頂いた形見分けであり、教科書です。

人生の節目に杯とは縁起が良さそうで。

・宋という時代はいつでしょうか?

・白磁はどのように生まれたのでしょうか?

こんな小さな湧き水から出発ですが、

いつか長江に辿りつく日のために、

自分なりの方法で、1000年の歴史を

これから少しずつ遡っていきたいと思います。

沼尻41



















所の風儀 − 沼尻真一

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「離見の見にて、見所同見と成て、不及目の見所まで見智して、
五体相応の悠姿をなすべし 」

「離見の見」とは目前心後、目を前につけ心を後におく。
本来の仏教用語であった離見という語を
世阿弥が自己流に用いたものです。

自分で自分を見る目は我見であって、
そこでは真の自分の姿をみることができず、
見所より見た所の己の風姿を離見と言い、
この離見という境地に至って始めて
自分の前後左右もわかるようになり
真の演技をすることができると世阿弥は伝えています。

見所に置くことにより己を高めるという、
この見所は映画などの見所とは少し違うイメージを持っています。

見所とは視点でもあり、見立てでもあるでしょうが
人や大衆からどう見られたいか?という受け事ではなく
自分が追い求める、その視点や境地から、
つまりはそのような「自点」という場所こそが、
離見なのではないかと僕は解釈しています。


沼尻真一




















万物照応 − 沼尻真一

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 夜のごと、光のごとく、底ひなき、
 
  暗くも深き冥合の奥所なる、
 
  聲長き遠つ木魂の、とけ合ふとさながらに、
 
  匂ひと、色と、ものの音と、相呼び合ふよ















漢字ること − 沼尻真一

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風土と素材と制作と、凡てのものは離れてはならぬ。
一体であるとき、品物は素直である。
自然が味方するからである。

凡ての形も、模様も、原料に招かれるのだというべきであろう。
原料をただの物質のみと思ってはならぬ。
そこには自然の意思の表れがある。

・引用/柳宗悦「雑器の美」より 

今までもそうでしたが、どのような作品をみても
良いと思うものには、奇をてらう部分が無いことがわかります。
まるで自然に降りてきたように。

力技でねじ伏せるような事無く、
自然の一部に謙虚に参加させてもらうように、調和している。

もし違和感を感じてしまうのは、まだ自然に溶け込もうと
しているからだろうと思いますし、自然というと
何か有機的な様相をイメージしますが、
実は意外にモダンな様相を持ち得ているのです。

それは品物であってももちろん、
言葉や漢字であってもそうでしょう。

だから、羽遇 (ハグ) しましょう。


沼尻真一




















 

 

 

 


清貧の思想 − 沼尻真一

JUGEMテーマ:アート・デザイン

儲けたい、作品を売りたいという欲を持たない、
半農半工の職人の、清貧の思想の中でのみ
健康的な美しさのある品物が生まれるのだ
というように、柳宗悦さんが指摘していました。

しかし、現代には精神の持ち方としては、
清貧であったとしても、それを作る作り手においてこそ、
続けるために、残るために
経済的な豊かさが必要なのではないかと思うのです。

それは民藝運動が、クラボウのオーナーである
大原さんの支援を受け、蒐集活動や日本民藝館の建築、
出版活動を続けることができたのではないかと思うからです。

そのおかげで現代に生きる私たちも、日本民藝館を見学し
学ぶことができています。

しかし現実に目をうつせば、柳さんが光をあて蒐集したような
手仕事の品物は、わずかこの50年で日本から
影も形も無くなってしまったものが大多数です。

柳さんも言っているように、一度すたれた文化や手仕事は
元には戻らないだろうと思います。
それは一度耕作を放棄した畑や田んぼが元に戻らないのと
同じです。

つまり今から100年近く前から、柳さんのような方が
光をあてていても、それで飯が食っていけなければ、
それはやはり農業と同じように、衰退してしまうのだろうと思います。

蒐集した品物を見るときに、これで飯が食っていけなくなるような
品物は私にはありませんでした。
むしろ現代にも同じものがあれば、柳さんが紹介したしないに関わらず
こぞって購入されていくのではないかと思うものばかりです。

このような日本古来の手仕事の品物が失われていった背景には、

1、その品物に代わるもっと安価な外国製の品物が
  流通されるようになってしまったため。

2、欧米化されたライフスタイルになり、必要とされなくなったため。

3、後継者がなく、その技術が途絶えたため。

このような理由があると考えられます。

1、2は買い手側の意識、3は1、2に比例していると思います。

私は、柳さんが提唱したような日本の手仕事の現場が
全国のどこかにまだ残っているのだとすれば、
細く長くでも残っていってほしいと願います。

それは、日本民藝協会が調査したような、趣味の延長線上
でも大いに良いと思っています。
それは私の曾祖母や祖父が、農業の閑散期にわらでムシロや
わら草履を編んでおりましたがそれは、
どこで売られているものよりも
たいへん良いものだったと記憶しているからです。

故に、財閥もなく柳さんのような活動をする方もいない
現代にあてはめれば、いくら手仕事の良い品物があったとしても
作り手自身でもそれに光をあてなければ、残るための
経済的な豊かさにも繋がらないというのは現実ではないでしょうか。

だからといって、それがどのような場所で認知されても構わないという
事ではないのが確かです。
その品物にふさわしい場所で人に知ってもらう事も大切でしょうし、
自分自身で告知できるという場所という点でインターネットも
その一つであると考えます。

国内でも様々な場所にいき、話を聞かせて頂くたびに、
手仕事に関する状況は疲弊しているように感じています。

私は今という時代では、手仕事の良い品物をつくるだけでなくて、
事実として等身大の希少性を伝える事が、大切になってきていると思うのです。

そのためには作り手が自分の行為を良く理解するという事も
大切なことなのかもしれません。