加藤孝造先生に久しぶりに話を伺う。
茶でも陶芸でも目新しいものが良いというのでは
ないのではないだろうか。
やはり本質的な所を通って行かなければ、
これからの人たちは、いけないのではないだろうか。
茶碗も自分が全てやりたいことをした時、
あるいはこの場所にこんな景色が欲しいと作為を
して、それが完成したとしてもそれはとても窮屈になる。
だから物足りないぐらいで良いのではないだろうか。
※秋には大阪高島屋で個展を開催される。
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志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒と他の産地にはない
桃山陶の歴史が美濃にはある。
歴史を知っている作り手は、その先をつくり
歴史を知らない買い手は、写しを欲しがり
自分の眼を信じない
これでは、
いつの時代もバランスが悪いように思う。
この状況はどこの産地でもまったく同じだろう。
日本六古窯や一楽二萩三唐津のような
間違いを信じているのも原因だと思う。
素人は薪窯信仰で
玄人は結果が全てである
薪窯信仰は、火サスに出てくる陶芸家のイメージ
だろうし、なにより無釉焼締ほど
簡単に分かり易いものはないから。
しかし、土と釉薬の肌質がわかるようになれば
それが本当に焼き物がわかるという事だと思う。
だから結局最後は産地も何も飛び越して
その作家に付く事になる。
陶磁器を作家から買うという行為は、
作家のその時代を切り取り、保存するという事であるし、
作家がそれに値するということである。
沼尻真一