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重森三玲とイサム・ノグチの共鳴 − 沼尻真一

 
重森三玲とイサム・ノグチの共鳴

明治29年 岡山県吉備中央町吉川に生まれる
三玲は子供の頃から、茶道は不昧流、華道は池坊を
学んでいた。

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当初の庭


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現在の庭


大正13年に父親の作った庭に茶道を深めたい
という理由から、その庭に茶室をつくる
同時に改造を手伝う。


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日本美術学校へ進学し、日本画の技法で抽象画を
描いていたが、大学2年ほどで挫折し、
茶道、華道、建築等を独学で勉強し模索する。

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家の近くの豪渓(ごうけい)岡山県総社市北端から
吉備中央町の景勝地を原始林公園として残そうと活動する。


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同じ岡山県出身の造園家・造園学者で著名な 田村剛
(日本の国定公園制度などを作った人物)に嘆願する。
しかし関東大震災が発生し、岡山に帰郷した際に
家の近くの吉川八幡宮を独学で調査し、文化庁に
報告書を提出。
その際に建築史家で著名な関野貞の目にとまり、
関野、田村両氏が当時まだ無名な
吉川八幡宮来訪が決定し、自宅に宿泊してもらう事になり
三玲は急遽、自宅の庭を改修する。

この庭をみた田村が感銘を受け、会報誌に紹介し
一躍 重森三玲の名前と庭は有名になる。
これをきっかけに本格的な作庭をするべく
三玲は日本庭園の実測調査を開始した。

昭和2年〜8年までは、個人住宅の庭などを手がけ
昭和8年に奈良県春日大社社務所の庭園を手がける。
七五三の岩にこだわり、石で神々を表す。
また磐座(いわくら)の要素をもたせた。

室戸台風(むろとたいふう)は1934年(昭和9年)9月21日に
西日本を中心に大きな被害をもたらし、多くの庭園が甚大な
被害を受けた状況をみて
三玲は仲間とともに、日本全国の庭園の調査隊を編成し、
北は弘前〜九州までの延べ300〜400ほどの庭園を調査した。

昭和15年に徳島を調査し、阿波国分寺庭園と出合いによって
重森三玲の大きなターニングポイントとなった。

青石が立っている鋭い姿に感激した。

その後昭和15年に手がけた西の宮の個人住宅の
庭などは、ほぼ立石である。
その後しばらく立石の時代がつづく、

昭和17年戦争

昭和25年〜昭和50年まで作庭をおこない。晩年は
色使いの庭を手がける。

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重森三玲の代表的な庭

・東福寺 本坊庭園

本坊を中心に東西南北に庭がつくられる。


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東庭
礎石としてあまった円柱を利用した。
誰もやったことのない表現として、北斗七星を
表現する。
キトラ古墳、四神相応との関わりから発想する。

東庭には、実はもう一つ自然石で作った北斗七星の
秘密の庭が存在する。


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南庭
横たわる長さ6mの石はそれまでの日本庭園に存在しないもの。
寄贈された2つの石をどのように取り込むことができるかが
試された。

「石は組み合わせる美しさで、日本の美の表現ができる。」

手前の青石以外は、すべて京都産の石。

奥の山は京都の五山を表現している。

それぞれの石組みを一つと数え、
4つの山と京都五山で九つの山仏教の須弥山を表現した。
そして枯山水の8つの海で
仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と
鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。
これを九山八海という。

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西庭へ伸びる線を、縁石を斜め使いすることで、
シャープなラインを表現することができている。


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西庭
方丈の庭は本来サツキと石の大市松模様を表現。


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北庭
西側からの市松模様がより細かく、敷石で表現され
そしてやがて、粗くなりだんだんと谷に向かって
フェードアウトしていく。グラデーションのイメージ。
桂離宮の飛び石の面白さや、松琴亭の市松模様などから
ヒントを得ている。

・東福寺芬陀院(ぶんだいん)

一条家の菩提寺。
南側の庭は明らかに室町時代の庭であり、三玲が
改修をしている。
南側を受けて、東側に室町時代に則った方法で
鶴亀の庭を築くが、右側の亀石組の石では
渦巻き状を表現し、誰もやっていない
新しい方法を表現している。

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・東福寺光明院・蘿月庵

昭和14年、31年

三玲が気に入っていた庭園。
光明院という名前と、
雲無生嶺上月有波心落(雲の嶺上に生ずることなく、
月の波心に落つること有り)」 (煩悩がなければ、仏心という
月は波に映る)という語にちなんで「波心庭(はしんてい)」と
名付けられる 、雲嶺庭(うんれいてい)

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光の庭造りを中心に、三方の三尊石組から
光明が発するがごとく、直線状に石が配置されている。
中央の池を模した白砂の中には当初栗石が無数に入れられ
荒々しい磯の波を表現していたが、今は撤去され
穏やかな海になっている。

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孫でご自身も作庭家の重森千悄覆靴欧發蠅舛気髻砲気

・重森三玲とイサム・ノグチの共鳴

1956年昭和31年 重森三玲のもとをイサムノグチが訪ねる。
それはちょうどパリユネスコの庭を手がけるためであった。
石を扱う者どうしはすぐさま共鳴しあい、
イサムノグチはすぐさま三玲のカリスマ性ある世界に
引き込まれていった。


三玲が四国の青石を薦めるとすぐさま一緒に四国に渡り
愛媛県保国寺、阿波国分寺庭園などを視察し
吉野川支流へ行き、徳島の美しい青石に感銘を受ける。

イサムノグチはすぐさま、パリユネスコの庭を当初の36個の石から
57個の石(青石含む)にまで大幅に変更した。

またその際に、それまで加工し使用していた石を
一切加工せずに三玲と同じように、そのまま見立てで使用した。
その後のIBMの庭青石も同じように見立てで使い
一切加工しなかった。

イサムが京都の定宿にしていた、菊屋旅館の女将は
三玲に合った時のイサムの興奮した様子を
何度も垣間見ていたという。
イサムの作品にはそれほど三玲は影響したのである。




1956年、初めて庵治石の産地である香川県の牟礼町を
訪れたノグチは、1969年からは五剣山と屋島の間にある
この地にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、
NYを往き来しながら石の作家である和泉正敏をパートナーに
制作に励みました。イサムノグチ庭園美術館より抜粋

つまりイサムと三玲が出会って、三玲に随行し四国に始めて
石を探しに行った時に、香川県の牟礼町を訪れたのだと
推測できる。

三玲の存在がなければ、イサムが四国にアトリエを持つこともなく
また、日本とアメリカの架け橋となるような活動も
減ってしまったことだろう。


沼尻真一