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川端康成 「日本のふるさと」 / 都の系譜 沼尻真一


京都を「日本のふるさと」として捉えたのは
ノーベル文学賞を貰った川端康成である。

ふるさととは精神の拠り所であり、
ご飯の食べ方、箸の持ち方から、言葉の使い方、冠婚葬祭の
方法まで規範を学ぶ場でもある。

川端だけでなく、鋭い感性を持った作家が、京都の中に
日本のふるさとを見るのも、京都という都が、唯一日本独自の
文化を編み出した原点の地であることを、認識するからである。
つまり、京都には「日本」の古典が、今なおつづいているのである。

「古典」とは、長い年月にわたって多くの人々の規範となり、
さまざまな批判に耐えた文化的価値の高いもののことをいう。

吉田兼好は、藤原道長 966−1028年
平安時代中期、全盛期に「枕草子」を書いた清少納言、
「源氏物語」を執筆した紫式部などが活躍していた
平安時代の京都を、理想のふるさととしている。

中国大陸の影響が強い日本において、平安時代の貴族である
菅原道真845−903年等により
894年に遣唐使が廃止されてから、日本独自の文化が創り出された時代。

文学では平仮名の和文体、仏教では個人救済のための浄土教、
美術では和歌の鑑賞とともに大和絵が隆盛した時代である。

京都という街は、北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎の
四神が棲んでいると陰陽師が占った地。
京都人は自然の中に神を観、旬や節目を大事にする。
自ずと祭りや行事も多くなる。

つまり、京都の四季の美は自然の美ではない。
文化人の手が加わった美なのであり、自然と人間の生活が
見事に融合している美といってもいい。

引用:淡交社


川端康成が京都をテーマとした作品『古都』は、
朝日新聞の連載小説として1961年〜62年に掲載されました。
その頃、康成は、複数の小説を同時並行に執筆していました。
『千羽鶴』と『山の音』がそれであり、また、『古都』と『美しさと哀しみと』もそうで
した。驚くべき筆力と言わざるを得ません。
 康成の戦後の文学に係わる活動を述べます。

まず、日本ペンクラブの活動です。日本は戦争に負けましたが、
日本に対しては批判ばかりで、誰も日本の良さを評価しませんでした。
そこで、康成は、文学という手段で平和に貢献したいと考え、熱心に活動しました。

 また、康成は美術品の収集にも熱心でした。
戦争直後の物の無い時代ですから、没落旧家の持つ美術品を買い集め、
川端コレクションを作りました、このため、多額の借金を抱え、
一生借金だらけの人生でしたが、この借金を執筆の
エネルギーに変えていた節が窺えます。

 『古都』は、康成が下鴨に家を借り、そこで生活をしつつ仕上げた作品です。
この作品の解釈ですが、日本での評価は芳しいものではありませんでした。
ノーベル賞の対象となったのは、実はこの作品でした。

 康成は、ノーベル賞受賞スピーチ「美しい日本の私」で良寛の辞世の句を引用し、
人は死んだら何も残せないが、自然はあるがまま残ると語りました。
この美しい日本の自然を残し、守り、後世に、いかにして引き継ぐことができるのか、
これが川端康成の課題であったと考えるところです。

引用:川端香男里先生 (財)川端記康成念會理事長


冷えた石畳を抜け、門から門へ釈迦の手の中を、
葉の擦れ合う音に急き立てられるように歩かされる。

大通りでは、タクシーが我先にと猛スピードで走って
いても、路地に入れば午後3時からふと読経が
聞こえてきたり、あるいは別の家のガラス越しに
年代ものの茶碗が飾ってあったりするのは、
時空が歪んでいるようで、またあるいは
こちら側の感覚が歪んでいるのだろうと思え、
根底に流れる時間軸や、信仰が明らかに違う。

あたり前に歪んでいるし、あたり前に多様であり
違っていて当然という感覚は、残念ながら
全員が平等で、何をしているかちゃんとわかるという
日本の多くの農村社会には脅威であり、まったく無い。

成熟した都市ではあるが、人に無関心なだけでなく、
どこかに共通の信仰を持っているという
内輪の感覚が違うのだろう。
都市が信仰とともに成熟すれば、このような都市になるのだろうと思う。

天皇がいて祭りがあっても、神や仏への信仰が暮らしの中にない
東京がこれから1000年2000年たっても京都にはならないだろう。

江戸の三大祭りにどれだけ多くの東京都民が関心を持って
参加したことがあるだろうか?むしろ京都三大祭りに
参加したことがある東京都民の方が多いのではないだろうか?
それほどその界隈一部の祭りになっているのが江戸三大祭りにだと思う。

徳川が創り出した江戸が、唯一創り出すことの
出来なかったものは、神が徳川家そのものというのは
その祭りや行事が江戸を中心に関東から外へ
派生していかなかった結果をみても
やはり無理があったのではないかと思う。

それは既に、江戸になる以前から民衆の信仰や文化(建築も含め)が
確立されてきたからであり、今で言えば総理大臣が誰になろうと
伊勢神宮信仰が変わらないのと一緒で、信仰的には
相当に自立していたと思われる。
関東の地方の村々を見ても、徳川をどうのこうのという
崇める風習は、茨城でも水戸近辺でしかみられない。
 
唯一は小学校の修学旅行が日光であるという事だけだろう。
 
しかし、最近は鎌倉になっているところを見ると
徳川の世が残したものが皇居や日光ぐらいでは
観光産業でも難しいのだろう。
 
ドイツの有名な小説家が日本の古典建築というものに
いったい何があるのかと思ったら、それは「納屋」でしか
なかった。

むしろそれが伊勢神宮の純真な形式、清新な材料
簡素の極地に達した明朗開豁な構造という伊勢神宮に
通じているとしたタウトの見方からすれば、
建築的にも、今の関東の町々が東京を目指し
駅前がまるで同じようになっているのは、やはり不自然であり
元々は、徳川の世が続いていた時期でさえも、
江戸を取り入れよう、ものまねしようというのではく、
元々あった形を、それは屋根の形や反りなどその地域地域の
大工が学び繋いできた形というものがあったのだと思う。
 
もともと今のようにパラサイトしているのではなく、
独立していた地域というものが実はあり、それはすでに
無意識に純粋に国風文化を実は踏襲していたのだと思う。
 
その証拠には、関東の古い集落ごとに鎮守の神様が
いるが、それが八坂様であったり、八幡であったり、稲荷、鹿島、天神
であったりする。

事実、祖母の出はつくば市の中心部の古い地区であるが、
そこは八坂神社が鎮守の神社であり、
夏になると祇園祭りがあり、土産をもって線香を上げに築200年ぐらいの
藁葺き屋根の家に浴衣で帰っていった。

テレビでは京都で祇園祭りが放送されているのに
同じ祭りがあるのが小学生の自分にとっても不思議であった。

つまり、総本宮は京都八坂神社であり、京都祇園祭りを司る神社である。
八坂神社の歴史は、社伝によれば平安建都前、
斉明天皇2年(656)と伝えられています。都の発展とともに、
日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。

茨城の別の市町村でも、八坂神社が鎮守の村の場合は、
7月までに前半期の農業の収穫を終了させて
わざわざ京都同様に祇園祭りを開催していると確認できた。

またその社正面の方角は日の出の方角、つまり東ではなく
南西、つまり京都の方角に向いているのである。
おそらく、八坂神社系は全て京都の本宮を向いていると思われる。



タウトが見た、秋田の清新な納屋がなぜ伊勢神宮まで繋がるのか、それは
630年〜894年までの遣唐使による唐文化が影響を及ぼすより以前に
日本中の事細かな村々にまで、飛鳥奈良時代より神道信仰によって、
社の建築技術および儀式の執り行い方などが伝播されていたためである。

主にどのような人々が伝播したのかを知りたいと思う。

自分の家の古い建築を見ても、このような信仰サイクルが、
関東のその土地土地の暮らしに大きな影響を与えてきたのが事実であると思う。

ちなみに自分の部落のつくばの鎮守は稲荷神社なので、
総本宮は伏見稲荷ということになる。

今年は京都伏見稲荷大社では、2月9日初午の日が初午大祭となっているが、
同じ日に、自分の部落でも初午の祭りを行い春を迎える。
子供の頃から豆まきと初午は大事な家の行事となっていた。



川端康成が「京都は日本のふるさと」とした一つには
その村々の鎮守の神様のほとんどの総本宮が京都であり、
京都と時を同じくして、この関東の小さな500人足らずの村々が
数世紀にわたって祇園祭をおこない、五穀豊穣、家内安全を
祈願してきたDNAが一人ひとりに宿っているからだろう。



神道は日本固有の宗教で
その後、奈良時代に日本に仏教がもたらされ、
次第に神道と仏教は融合していくようになりました。
それが、神仏習合・神仏混淆(こんこう)といわれる状態となり
寺院に鎮守社が、神社に神宮寺が祀られていました。

明治政府になると、天皇制の象徴である神道を
国家宗教とすることが決められ、
神仏分離令が出され、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策から
神道と仏教は離されてしまいました。

第2次大戦後、国家神道は廃止されましたが、その後、
神道と仏教が融合はしていません。

よって、日本人のほとんどは、神道の氏子であり、
仏教の檀家であるわけで、比率はほぼ同数で、
人口の2倍いるといわれている。

仏教徒がクリスマスを祝い、一軒の家に神棚と仏壇がある
家で育った者どうしが結婚し、子供ができて、いつの間にか
引越しをする。
つまりこれが高度経済成長期世代だとしたら、その後は
受け継がれ語り継がれることもない。
だから何も分からなくなる。
そこへきてアポロだロックだビートルズだGSだ、オリンピックだ
バブルだと来れば、誰だってアメリカンナイズ、欧米最高と
なってしまうのは当たり前の時代だろう。

しかしそんな時代も落ち着き、引越しても墓があるから
人生に4〜5回会う檀家の住職のおかげで
うちは○○宗だと、やっと他の家族も把握することができても、
仏教よりも古い神道を持っていながら、
うちは○○神社の氏子であることを知らないことが
いまの日本の現実である。

鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地や
その土地の者を守る神のことである。
平安時代以降になると荘園領主達は荘園を鎮護する目的で
その土地の守護神を祀るようになる。
これが鎮守であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、
氏神に合祀され今日に至っていることが多い。

産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、
その者を一生守護すると考えられている。
生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、
ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。
ただし、現在は転居する者が多いため
産土神と鎮守神が異なる場合も多い。
この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、
子供のお宮参りは本来氏神にお参りして、
その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった。

儀式という響きが、一般庶民が身近にやらなければいけない事として
あるという感覚を想像したい。
儀式と聞いて、どの宗教のどこの国を想像するだろうか。

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織田信長
無口、神経質、果断即決、激烈、ユーモアを解すが自分からは表さない。
新しもの好き。創造力は高く奇抜で周りの者がついていけない。
人のマネをするのが、嫌いである。

豊臣秀吉
表面的にお調子者、実質は陰湿で根に持つ。
陽気で洒落は好きだが、冗談は通じない。
情愛は細やかであるが、冷たく突き放す事もある。
いろいろな事に興味を持ち、器用にこなす。派手好き。
あまり利づめで動かない。

徳川家康
小心者で吝嗇。
ただし、ここぞという時には気前よく使う。健康マニア。
無趣味で面白みがない。慎重、何よりも慎重。
無口で無愛想。
意外にせっかちである。
目新しいものは、好きではない。
 
江戸では町人文化だけが栄えたのも、
数奇者ではない、徳川家康の性格による所が大きいと思う。
 
 
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「行動文化」が盛んであった江戸では、信仰を名目上の目的として
行動することも少なくありませんでした。
まず、伊勢参りや大山講などの旅行型、江戸各地に設置されていた
富士山のミニチュアである「富士塚」への登山や、
江戸にいながらにして各地の秘仏を拝める開帳、
一時期には人びとの信仰を集めたものの一定期間を過ぎると
忘れられてしまう「流行神」への参詣など、物見遊山型の行楽も広く行われていました。

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明治維新は表面上は京都の朝廷 対 江戸の幕府、という形で進行し、
京都の朝廷側が勝ったことになります。

首都を京都にすると、江戸という日本最大の都市を「元敵」のまま残すことになります。
そこで「京都の朝廷」が江戸に乗り込み、江戸を東京に書き換えて丸ごと見方にしてしまったのです。元々の江戸の住民も簡単に新政権への敵対意識を捨てませんでしたが、「日本の首都」という誇らしさでなだめられたわけです。

徳川慶喜は天皇御親政ということを否定せず、穏健に対応したので尊王攘夷派によって殺されたり流刑にされたりすることもなく平和裏に大政奉還を実現しました。

これは英国の名誉革命をも凌ぐ誇り高い無血革命であり、明治政府も幕府への敬意を表して江戸を引き継ぎ、東京を首都としたということです。
それでも江戸城からの退去を迫り、城跡を皇居としたのは徳川家が江戸城に残ることによる親幕府派の残党による反乱を防ぐためです。

もう1つは、開国が横浜、横須賀を中心に展開したことです。
米国使節の浦賀入港以来、日米の条約の締結に関わる多くの政治交渉が横浜で行われていました。開国派はまだ江戸で権力を得ていなかったわけですから討幕のために江戸へ進攻することはあっても実質的に横浜止まりで政治行動をしていたわけです。最終的に新政府を立てる際、そこから程近い旧江戸を首都とすることが妥当だったのでそのまま江戸は東京となったのです。
 
明治天皇の墓が、明治神宮にないのも
その御神体がなんなのかも疑問だが、一応青山界隈のお洒落な
結婚式といえば、とりあえず明治神宮と思っているようだが、
やはりその墓は長年過ごした京都がふさわしいと考えられたのだろう。


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江戸三大祭り
 
●神田祭り(神田明神) 徳川の祭り

江戸時代の『神田大明神御由緒書』によると、江戸幕府開府以前の慶長5年(1600年)に徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時、また関ヶ原の合戦においても神田大明神に戦勝の祈祷を命じた。神社では家康の命による毎日の祈祷を行っていたところ、9月15日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たした。それにより家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿・祭器が寄進され、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることとなったという。
 
●山王祭り(日枝神社) 徳川の祭り

日枝神社は既に南北朝時代から存在したともいわれているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった。
元和元年(1615年)には祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった(寛永12年〈1635年〉とする異説もある)。
 
●深川祭り(富岡八幡宮) 徳川の祭り
1642年 江戸幕府の命により徳川家光が長男家綱の世継ぎ祝賀を行う。
約370年の歴史を誇る。
「深川八幡祭」や「水掛け祭」とも呼ばれている。

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京都三大祭り
 
●葵祭(5月)
平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる祭り。

●祇園祭(7月)
869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるという。
八坂神社で行われる祭り。山鉾巡行や宵山が中心となっている。

●時代祭(10月)
1895年(明治28年)に平安神宮が創建されたのち、神宮の管理と保存のための市民組織として平安講社が作られ、その記念事業として「祭り」が始められた。祭りを盛大にするため、東京奠都以前の京都の風俗を遡る時代行列が提案され、「時代祭り」と呼ばれるようになった。
平安神宮で行われる祭り。