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legend of 311 − 「真理」 沼尻真一



自分が実はどんな使命を持ち、
実は誰なのかを知ることはとても重要だろう。
宗教を振興しているわけではない、
祈りや信仰が生まれるのは、自分が誰だか知っているからだ。

それは、祖祖父母、祖父母、父母、子、孫へと口伝で伝えられる、
その家の文化、家風、イズム、アイデンティティである

親から子へ子から孫へというこの行為は
何も特別なセレモニーの一日として人生の中には存在しない。
しかし、いつか静かに語られる戦争の話や、祖祖父母、
祖父母の話や古い家屋の陰影の中から
あるいは、残され使い続けられてきたすり減った農具の中から
あるいは、代々の嫁入りの桐の箪笥の中から
黙ってそしてじっと 心の中に入って
芽生えてくるものなのだろう

 
これから日本はお盆を迎える。

 
新盆を迎えた家々を回れば、仏壇の周りには
軍服を着た凛々しい姿の遺影や、先祖の遺影が
飾られているのを眺める度に、自分は日本を感じる。
古い家は冬寒くとても暮らしやすいものではない。
しかし、障子の桟にたけくらべの後が残っていたりする。

先日の、建築家 山本理顕先生の話ではないが
そんな家には、確かに
 
「人がどこで生まれて、どこで死んでいったか」
 
確実に記憶されている。
またランドスケープデザイナーの田瀬先生の話を借りれば、
 
「何かをしようとすれば、死者に聞け」と言われる。
 
この二人の日本の時代を作ってきた著名なクリエイターが
自分には共通の事を語っているようにしか思えなかった。
 
 
それは、すべては「歴史の必然性」である。
生まれた事の必然性、生きていく事の必然性
その人間がこの世の使命としての必然性が、
一人ひとりに必ずあるのだろう
 
その自分の必然性を導き出すための鍵を握っているのが、
つまり自分を知ること、自分のルーツを知る事なのだと思う。
 
こんな風に言うと、別にたいそうな何かを成し遂げる偉人になる
必要性を説いているようになってしまうが、
ごく普通の生活をする上で、
ただ自分を大切にしながら生きるうえで、自分が誰かを知っていて損はない。
 
親しかいないで、急に自分が生まれたわけではなく、
その親の前のルーツがあるから自分が生まれたわけである。
もしその親から子へ子から孫へと口伝されなければ
本人の知っていることは、自動販売機から出てきた
真新しい自分の本名ぐらいになる。
 
それはとても大切な情報が伝えられない事で、
自分が本当は誰か、自分がどんな生き様をしていかなくては
いけないのかという、思春期に沸き起こる自問自答の葛藤を妨げ、
ただ周りの誘惑としての低俗な快楽へと、人格を形成する
大事な鍛錬の時期に、単に人間を逃避堕落させてしまうだけだ。
そしてまた、信仰や祈りをも生むこともなくなり、
すべての起こりうる問題は、自分ではなく他人のせいとなる。
 
日本の神仏はどうだろう、教会のように日曜日に説法するだろうか。
檀家制度もあるし、神棚もあるが、説法しなければいけないのは、
一生のうちに5回会うか会わないかの檀家の住職ではなく
実は親なのだろう。
 
仏壇も神棚も無くとも、自分のルーツに対しての畏敬の念が
生まれない人間はいないはずである。
つまり誰もが、自分を生み出したルーツに対して、興味があり
信仰でき、祈ることができるはずだろう。
そしていつか仏像に神がいるのではなく、
自分の中に神がいる事に気づく事がある。
 
つまり、本人のルーツを伝える事と、
そして自分ルーツに対して祈りを捧げる事は
セットであり、この過程は小学生以下の時代に
心の中に確かに静かに芽生えさせ、身に着けなければ
いけない、算数や国語よりも日本人として
一番重要な教育過程なのである。
 
自分は祖祖父母の遺影のある中で暮らしたが、
まったくリアリティが無かった。
しかし、大正生まれの祖父母は必ず
毎朝ランドセルをしょった自分に線香を上げ
祈りをあげるように躾された。
毎朝の仏壇や神棚へのご飯もお茶もお水も
もったいないと思っていた自分が
今はもう故人となった祖父を思えば
パリだろうがニューヨークだろうが世界中どこにいたって、
イスラムでなくとも、毎日ご飯を食べれるだけの事に
感謝の祈りを捧げたくなる。
 

3.11以降の価値の転換として、
グローバル経済と反対の方へと、西洋人の価値観としての
幸福のものまねでなく
日本人としての価値のあり方を考えるべきだろう。
 
しかしどうだろう、キリスト教、イスラム教、仏教が世界三大宗教
と言われるが、その仏教国である日本が
一番実は、信仰や祈りという行為が希薄で、
よっぽど、モダンで日本よりもお洒落でファッショナブルで進んでいる
バービー人形のような西洋の方が、信仰や祈りという行為が
毎日、毎週 その時間が取られていたりして
原理主義的ではないだろうか。
 
グローバルに見える国々の方がよほどプリミティブであり
実は日本の方が表層的に自分のルーツに対しての信仰や祈りという
真の教育や軸がなく、よほどグローバル化してしまっている危険がある。
 
欧米の個人主義をまねて個人主義とは
男性一人、女性一人という単位を個人であると考えて行動するのは
あまりに短絡的である。
 
神は男性と女性をその役割からつくっている、
つまり男性一人は0.5であり、女性一人も0.5であり
つまり、男女一対で初めて一人という単位になると考えるのが自然である。
 
例えば、映画を見るときに一緒に座って映画を見るのと
個人主義だからと行って、離れて映画を見るのとでは
どちらがこの国にある掛け算としての阿吽が生まれるのだろうか。
 
また美術館で一緒に絵画を見るのと、 別々のルートで絵画を見るのと
はどうだろうか。
 
欧米の個人主義は、0.5と0.5はどこまで行っても0.5と0.5なのである。
掛け算もしなければ、足し算もない。
しかし、その個人主義である0.5同士を緩やかにつなぐシステムが
欧米にはある。それが「宗教システム」である。
 
日曜学校や礼拝により、この個人主義同士をある方向へと導き
結びつけているのだ。
 
まとめれば、
欧米の個人主義とは、信仰とや祈りとともにあって
初めてできる個人主義行動である。
ちゃんとそこには、保険が利いている。
 
つまり、日本に生まれた日本人が個人主義と言う言い訳や
自己催眠で行動したとしても、実はその信仰や祈りという
システムが破綻している日本において成立することはなく、フェイスブックや
出会い系サイトで人としての絆や慰めを確認する低俗な行為に走るに過ぎない。
 
つまり一見憧れてしまっている西洋のブランドやファッションは、
実は、修道服から生まれたココシャネルの服のように
信仰と祈りの結果としての産物でしかないのだ。
 
だから上辺を物まねしても、ハーバードの学歴や肩書きがあっても
いつも自分たちは西洋のペット、猿にしかなれない。
 
 
日本人には、日本の神仏に対しての信仰や祈りがあるし、
自分のルーツに対しての祈りの精神はきっとある。
日本の文化を巧みに使った上納金制度になっていない場所へ
そこにちゃんとフォーカスしていくことにより、
西洋のファッションの物まね、バービー人形になりたい整形人間ではない
3.11以降の日本人としての新しい価値感やファッションも生まれると思う。