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京都・桂離宮参観 八条宮智仁親王・八条宮智忠親王造営 源氏物語と月の館/ 小堀遠州とブルーノ・タウト /沼尻真一


日本建築の真髄を認得しようとするならば、
まず京都近傍の桂村に赴かねばならない。

桂離宮ー天皇の「無憂宮サンスーシ」とも言うべきこの小離宮は、
いくつかの付属建物および林泉とともに、あの有名な日光廟と
あたかも時を同じくして、この地に建造されたのである。

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生きたままの竹を折り曲げて使う「桂垣」
竹の種類は、淡竹(はちく)
孟宗竹よりもしなりやすい。

竹は縦に割れても水を吸い上げるため、枯れることはない。

竹の寿命にあわせ、10年に一度作り直される。
5月には毎年竹の子を選んで、間引きをする。



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これらの建物と林泉を造営した小堀遠江守政一は大名と同時に芸術家でもあった。
小堀遠州はこの上もなく簡素な形式と施工とで処理することが彼の真意であった
ように思われる。

当時、仏教建築の方面にいたく氾濫していた中国の影響から、
日本の建築を離脱させようとした。

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御腰掛け(休憩所)


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二重枡形手水鉢




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延段17m


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古書院の門

クロモジの柴垣は源氏物語の中で紹介されている建築や造園部を
抜粋し参考にしてつくられている。

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御幸門

智忠親王が後水尾上皇1596−1680のためにつくった。


茶の湯、生け花、詩歌など宮廷文化の中心人物であり、
後水尾上皇修学院離宮のサロンには、智忠親王、本阿弥光悦、俵屋宗達など
芸術家や知識人が集まった。




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御幸道
小石を敷き詰めた「あられこぼし」

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すなわち日本建築の創造的精神を顕示して、
当代における「現代的」課題を、
日本国民に独自の感情と直感とに調和するように解決しようとしたのである。

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松琴亭

光源氏は明石の君を桂近くの山荘にすまわせる

源氏は明石での思い出にひたり琴を奏でる


変らじと

  契りしことを頼みにて

    松のひびきに

      音を添えしかな

                   「明石の君」

松と琴。松琴亭はこの源氏物語のこの場面に由来している。



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州浜

先端には岬灯篭


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天橋立と荒磯様

源氏物語では、明石の海を荒磯と詠んでいる。


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桂離宮 唯一の茶室「松琴亭」

流れ手水
茶室に入る前にこの池で手をあらった

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松琴亭のにじり口



奥の茶室から一転明るい座敷へ

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飛び石は赤や青の石

六甲山の有馬の川原で肌色の花崗岩は本御影と呼ばれ、
ほんのり薄くピンクの石が智忠親王は気に入られていたという。



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峠の茶屋に見立てられた 「賞花亭」


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「賞花亭」からは遠く比叡山まで見えたという。

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彼の思想は、あたかも同時代に建造された日光廟の思想とは
まったくの正反対であった。



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笑意軒

奥には田圃が広がり、里の暮らしを眺められる。
農村の四季が、和歌の格好の材料だったという。


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桂離宮の美しさは、その全結構を造営の順序に従い、静かにかつ深く思念しつつ
繰り返し鑑賞するときにはじめて開躇せられる。
このような建築にあっては、簡単な記述によって
その美を如実に伝えることはまったく不可能である。




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右の中書院と左の新御殿は二代目八条宮智忠親王が
古書院を客間に使い、自分たちの日常使う部屋とした。

中書院
6畳と8畳

新御殿
一の間 高貴な人を迎えるための場所
櫛形窓の付書院

紫檀黒檀など舶来の木を使う。
引き手には七宝をちりばめる。
天井にはケヤキの板

なげしには、長さ5mのふしのない杉の丸太
京都北山の杉を使っている
4年ごとに枝打ちがされ、節のないまっすぐな木になる
5年ほどで節後が消える

寝室には、天然にしぼが入ったものもある。
桂離宮は10mに天然しぼが入った材木は
京都北山の西日があたる尾根の斜面にだけ
自然にしぼがでるという。

壁には桐紋の唐紙
白地に金、黄土色に白という場所によって使い分けられている。

月の文字をかたどった引き手

月の字を崩した欄間

月へのこだわりは、源氏物語から松風の巻




 月のすむ
  
   川のをちなる里なれば
  
    桂のかげは
   
      のどけかるらむ

                 冷泉帝





光源氏からの返歌

  久方の

   光に近き名のみして

     朝夕霧もはれぬ山里




智忠親王は後水尾上皇を源氏物語の帝になぞらえて
桂離宮に招こうとしていた。


          






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桂離宮には、約1800個の飛び石が使われている。


古書院
天井の高さは広さ10畳の一の間251cm、
広さ14畳の二の間は267cm
部屋によって異なる。

柱や天井の竿縁には格の高いヒノキではなく松。

1mmの感覚で5mの長さでまっすぐに目の通った松の木が
普請に使われており、現在ではこのような素晴らしい松の木を
入手することは困難である。

誰もが長年松の木だとは思わずに、
栂の木だと思われていたという。







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古書院の屋根は「こけら葺き」

木の板を使っているため20年に一度葺き替えする。
薄いこけら板は、竹釘を使い、3cmずつずらしながら止めていく。
一日に一人が葺ける広さは1坪という。

こけら板は島根県奥出雲町でつくられ
手で一枚一枚うすく割られる。
木の目が切断されず水がしみにくくなるという。




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しかし現代文明に特有のあわただしさのなかにあっても
芸術的感情に豊かな満足を与えようとする人にとって、
以下の叙述がほんのあらましの道しるべにでも役立てば、
筆者の喜びはこれに過ぎるものはない。

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手前の芝生は蹴鞠をするスペースなので、今で言う運動場


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古書院の顔は月見台

丸竹をしき並べただけの簡素なもの



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桂離宮は、施工のみならずその精神から見ても、最も日本的な建築であり、
従ってまた伊勢神宮の伝統を相承するものである。
この国の最も高貴な国民的聖所である伊勢神宮の形式は、
まだ中国の影響を蒙らなかった悠遠な時代に由来する。

構造、材料および構成は、この上もなく簡素明澄である。
一切は清純であり、それ故にまた限りなく美しい、
この概念を表現するには「きれい」という日本語が最も適切である。

この言葉は、「清らかさ」と「美しさ」とを同時に表現しているからである。

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月見台は東南東の方向を向いている。
主に夏の間に別荘として使われていた。

池の中にも月が映る工夫がされている。


 ふたつなき
  
   ものとおもひしを
 
    水底に山の端ならで

     出づる月影

      
             紀貫之

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池に向かって東側が開け、まるで船に乗っているかのように感じるために
あえて柱をたてている。

桂離宮で最初に月が見える場所。



木の間より

 もりくる月の

  かげ見れば

   心づくしの 

    秋は来にけり



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月見のための茶屋「月波楼」



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おそらく15ないし17世紀を経たころ、日本はすでに繊巧な文化の網に
蔽われていた。
当時、日本の文化は多種多様な分化を遂げ、
国民の哲学的および芸術的教養は著しく
中国の影響を蒙っていたのである。

中国がその隆昌な商業、大規模の政治および遠征の雄図などによって
日本人の関心をはなはなだしくそそったとき、
中国の文物は圧倒的な力をもって日本に侵入した。

中国文化の日本に対する関係は、あたかもアテネのギリシア文化が
古代ローマにたいするのと同様であった。

しかし、やがて中国建築に特有の規矩整然とした
ぎごちなさや怪奇な様式は、日本人の繊細な感覚によって
解きほぐされ、しなやかな線の流動があらわれた。

伊勢神宮に「納められている」日本の逞しい創造的精神は、
本来の日本的感情と日本の精神的古典文化を形成したところの
中国文化を包蔵して、しかも極度にぶんかした
「現代的」精神生活との調和を創造すべき天才を
小堀遠州に見出したのである。

ブルーノ・タウト著



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小堀遠州

小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、
茶人、建築家、作庭家。

備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。
一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られる
(「遠州」は武家官位の遠江守に由来する)。
幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。
道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある

天正7年(1579年)、小堀正次の長男として生まれる。
父・正次は近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、
縁戚であった浅井氏に仕えたが、浅井氏滅亡後は羽柴秀長の家臣となった。

天正13年(1585年)、秀長は郡山城に移封されると、正次は家老となり、
政一もともに郡山に移った。

この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、
郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。

小姓だった政一は、秀長の兄・豊臣秀吉への給仕を務め、
利休とも出会っている。

また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。
秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく死去したため、
文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。
ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。


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江戸時代初期、八条宮智仁・智忠親王父子が別荘として造営した桂離宮。
素材を選び抜き、それぞれの持ち味を最高に生かした建築。

技巧の限りを尽くしながら、さりげない表情をみせる庭園。
誇らしげな美よりも慎ましやかなものに価値を置く美意識は、
「日本美の極致」と讃えられてきた。


初代・智仁親王は、幼少時に豊臣秀吉の養子となるが解消され、
のちに兄・後陽成天皇からの譲位の申し出も徳川家康の反対で潰えた。

政治の実権は武家の手にあっても、文化を守り伝えるのは
我ら公家ではないか。
「ならば王朝文化の再興をめざそう」と、桂離宮の普請に後半生を捧げた。
池に張り出す「月見台」など、独特の造形を生み出した。


宮家を継いだ智忠親王が、桂離宮を現在の形に整えた。

庭園に個性的な4つの茶屋をしつらえた。御殿では、
壁紙から襖の引き手、長押の木材に至るまで、濃やかに意匠をこらした。

凝りに凝った別荘を建設したのは、宮廷文化の中心人物・
後水尾上皇をここに招こうとした。

後水尾上皇は、1596−1680
朝廷に圧力を加える幕府に対抗して、
突然譲位し隠棲をしいた。

茶の湯、生け花、詩歌など宮廷文化の中心人物であり、
後水尾上皇修学院離宮のサロンには、智忠親王、本阿弥光悦、俵屋宗達など
芸術家や知識人が集まった。

徳川幕府に対抗する公家たちの象徴的存在でもあった。

豊臣の世から徳川時代へと移る動乱期に
桂離宮はどのように造営されたのかを説き起こしながら、
ふたりの親王が強いこだわりをもってつくりあげた王朝の美に仔細に迫る。


最初八条宮智仁親王時代桂離宮はもっと素朴で、比較的軽い仮家的。
40年後の八条宮智忠親王時代にはもっと綺麗という意識が進んで
桂離宮の増改築が進んでいる。

NHK「桂離宮」



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桂という地名は中国の故事「月桂」にちなんだといわれる。

伝説では月にはいくら切っても切れない
桂の木が生えているという。

桂の木は生命力をあらわし、月もまた満ち欠けを繰り返す
再生の象徴とされていた。

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『桂』は日本固有の木で、カツラ属カツラ科で英語名も
『カツラツリー』といいます。

その桂が月とどういう関わりがあるかというと、
月には五百丈(約1500m)もの巨大な桂の木があるという伝説があります。
その桂の葉っぱが茂れば月は満ち、葉が枯れ少なくなっていくごとに
月も欠けていくというのです。

そしてまた新たな葉が出ると、それに合わせて月も徐々に大きくなっていくのです。
桂の木は栄枯盛衰を繰り返し永遠に生き続けるというロマンティックな伝説です。
そのエピソードに花を添えるように、桂の葉はハートの形をしています。

出来すぎたような話ですが、神々はディティールに宿ります。
細やかで繊細な日本人の観察眼が、シュールな物語を紡いでいくのだと思います。
桂の語源は、その材に甘い香りがすることから『香出(かづ)ら』と呼ばれた事に由来しています。

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平安の文化を築いた藤原道長の桂殿も
この地に築かれ、多くの貴族の別荘が桂につくられた。
この桂殿は、源氏物語の光源氏のモデルとなった。

しかし江戸時代にその所在がわからなくなっていた
桂殿の後をさがし、その場所に
八条宮智仁親王が別荘として造営した桂離宮。

最初に造営されたのは
50坪の古書院。

「瓜畠のかろき茶屋」とよんだ。



雲は晴れ

 霧はきえゆく

    四方の岑

 中空清く

   すめる月かな

              智仁親王


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昭和8年1993年5月に日本に亡命来日して
昭和11年1月にイスタンブールに行ってしまった
タウトがこの短期間によくぞ日本の美しさと醜さの
両方を見抜いたというべきか。
 
タウトは床の間を絶賛する。

床の間が宗教との関係をまったくもっていないにもかかわらず、
すばらしいプロポーションをもった「祭壇としての趣向」をもっていること、
そのまわに徹底して簡素でありうること、
古びてもなお綺麗であること、またその家や
空間全貌の文化的集中をもたらしうるものに
なりえていることなどに、感嘆する。
 
この床の間の裏側には何があっても
かまわくなっていることに驚いたのだ。
床の間の裏側に、たとえ便所があろうとも
ゴミ捨て場があろうと、日本の家屋は
床の間の象徴性をなんら失わない。
これは日本文化の「本来の宇宙的な意義」を
あらわしているのではないかと言うのだ。
 
「床の間」と「その裏側」という今日だれもが
言及しえていない論点を持ち出したタウトに
やはり独自の「数奇ゲシュマック」があった。


タウトが勧めるのは「第三日本」というものだった。
 
しかしその第三日本の予感がまったくしないと言って、
タウトは失望して日本を去り、イスタンブールに行ってしまった。

タウトの言う

第一日本は、
「大和文化」と「王朝分化」を内包した日本。
源氏 平泉金色堂〜雅を復活させた、宗達、遠州まで つまり桂離宮
 
第二日本は、
朝鮮文化と中国文化を吸収しこれを日本的に転移した日本
三阿弥や雪舟の水墨画、柿右衛門や与謝蕪村の中国趣味
 
第三日本は
明治以降の欧米文化を吸収した日本
昭和の日本
 
出典「松岡正剛忘れられた日本」

311震災以降の日本はもはや
第四日本になっていると思う。

新東京オリンピック後を復興の旗と待つまでも無く
第四日本はどのような欧米でもない中国朝鮮でもない
全て抱合した日本の新しい価値観がつくられていくのか興味がある。

それには、日本人が何かになりきる視点発想から
生み出すのものがちょうど良いように思われる。

タウトは最後1938年に建築したトルコイスタンブールの
断崖に建てた建築の名は「ジャパンハウス」
その八角形の建物はまるで、
郷里茨城の五浦海岸にある岡倉天心が1905年明治38年に
つくった六角堂に似ている。
この六角堂自体は、奈良県にある法隆寺の夢殿を模したもの、
あるいは京都府の頂法寺(六角堂)を模したもの、
さらに中国・四川省の成都市にある杜甫の草堂を模したものという説がある。

国を亡命しつづけながら何か誰かの視点を持ったタウトの視点は
今や日本人でありながらも、着物よりもジーンズに詳しい
我々日本人には参考になるはずだ。


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沼尻真一