「日本的モダニズムの創出はいかに可能か
西欧がみた日本」
■伊藤 俊治(美術史)
20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮は森の再生と連動している。
諸行無常に日本の風土感がある。
クロード・レヴィ=ストロース は西洋文明以外の日本文化に特集し
混合混入の出会いの場を蒸留したものが日本文化「神話理論」
伝統の精神を神作に置き換えてきた。
外来文化を引き寄せ消化させた、共存文化ができる日本。
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講演にはない資料/沼尻参考添付
日本は数世紀にわたって
二つの態度を、バランスをもって使い分けてきました。
すなわち、外からの影響に自らを開き、
すばやくとり入れること、
そして、
自らのうちにひきこもり、
時間をかけてそれを同化し、
固有の刻印を押すことです。
この二つの行動様式を交互に用い、
国津神への忠誠と、日本語でいう
「客人神」への忠誠を共存させる、
日本の驚くべき能力……
こうした考え方が西欧人の観察者に
どれほど深い印象を与えるかを、
示してみたいと思うのです。
クロード・レヴィ=ストロース
「文化の多様性の認識へー日本から学ぶもの」
『レヴィ=ストロース講義』
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●フランクロイドライト
安藤広重の浮世絵から、自然と人工の融合に日本らしさを見出す
偉大な建築の連続や幾何学的なグリッド構造
モダニズムの基本法則⇒グリッド構造
●ブルーノ・タウト
桂離宮、京都曼殊院から形態からもっと大事な事が建築にある事を
発見する。
つまりメディテーションへ引き込む力の重要性。
タウトは日本家屋の黒光りした床板に一番興味を引かれたと語った。
その後のアルプス建築は、その地から立ち上がるものというアイデアを持つ。
「日本の工芸は芸術より高い位置にある。」つまりミクロコスモスであると。
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講演にはない資料/沼尻参考添付
確かに非実用的であり、益はない!
しかし我等は実用的なもので幸福になったろうか。
終始実用一点張りだ。やれ快適、便利、やれ美食、やれナイフ、フォーク、
道、便所、それからまた火砲、爆弾、武器! 高尚な理念がなくて、
単なる実用や便利を欲するのは退屈だ、退屈だ。
(鈴木久雄『ブルーノ・タウトへの旅』p160の引用より)
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●シャルロット・ペリアン
タウトの後任として1940年来日
日本の工芸と深く交流し、精神幾何学性としてお茶のライフスタイルの刷新
木とわらと紙の日本の家にあわせ、畳がモジュールとなり
規格化されていることはコルビジュエと同様
アンドレ・マルローはペリアン以上に日本の精神文化に傾倒
伊勢神宮は20年毎に永遠を刻んでおり、周りの森がなければ何も意味がない
ライトは「清潔が日本人のDNAである」と
タウトは「自然宇宙と芸術と生活が判別できない」
しかし、第二次世界大戦以降日本が自然との共生が難しくなる
311以降日本固有の自然観が大切になった。
「日本から学んでいないのは、日本人だけである。」
外人が日本をどう見たかを知れば、日本人にも日本のことがわかる
以上基調講演 伊藤 俊治(美術史)
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「日本的モダニズムの創出はいかに可能か
西欧がみた日本」
対談 伊藤 俊治(美術史) I× 柏木 博(美学美術史)K× 新見隆(キュレーター)N
柏木K
●日本のモダニズムの流れ
1928年 岸信介ら商工官僚が中心となり商工省主導でデザイン運動を推進
1931年 生活改善同盟
1932年 文化学院 生活用品改善展
木檜恕一【こぐれ-じょいち】
1881−1944 大正-昭和時代前期の工芸デザイナー。
明治14年生まれ。大正8年生活改善同盟委員。
著「我が家を改良して」
バウハウスには合理主義だけでなく、神秘主義、オカルティズムが背景にある。
コルビジュエの弟子の板倉準三は商工省の招きで
来日したシャルロット・ペリアンを受けいれる。
ペリアンは柳宗悦、宗理らと親交を深め、国内を視察している
商工省は国民全員が統一した生活をすることを奨励するが、
それが後に戦争も一緒にするという日本のファシズムにつながった。
↓
戦後はアメリカの用品のものまね
↓
1956年〜柳宗理、剣持勇、渡辺力らが日本製のプロダクトを作り出す
その背景には民芸運動の思想がある
有り合せで物を作ることができる。少しでも心地よい方へと!
それが日本人は得意なはずである
それはスティーブジョブズも一緒で、彼は何も作っていない。
潜在的有用性を活かした。
例えば、子供が川を渡るために、ふみ石を選ぶということ。
つまりそれはもうデザインしていること。
いま日本の工芸も新しいものをつくろうとしている。
捨てられたものを転用したり。
リートフェルトのクレートという木の作品や
2007年からのアルバアアルト(セカンドサイクルプロジェクト)など
一度購買者が使って改良した椅子を、
その使い手の価値観がプラスされた椅子として
新品とはまた違う別の価値として販売していく
例えば、陶器の金継ぎ ヨーロッパでは修繕した場所が見える事は
考えられないが、日本では金継ぎが見えることが日本の美である。
●庭
作庭記 題名は江戸時代からで
塙保己一(はなわほきいち)が収集し広く知られるようになった。
重森 三玲 東福寺 方丈庭園 1939年、京都市 1939年モダニズムの庭
小川 治兵衛 無鄰菴(山縣有朋別邸) - 京都府京都市 1896年
アフォーダンス的見立てがいっぱいある
●寺田寅彦は地球に優しい物理学者で、
夏目漱石の弟子で、正岡子規を紹介してもらい、家を訪ねた際に、
玄関に女性の靴しかないことに、もはや子規が歩くことができない
病状を読み取りショックを受けたと言っている。
つまりそれはセレンディピティであり(ある現象からその背後を読み取る力)である
●不条理さ
北原白秋 不条理な童話をたくさん作っていて、
子供の心にぐさりとくるモダニズムがある
新見N:
フランクロイドライトの展覧会を企画したとき内井 昭蔵さんに
相談し、中に入ったときに生きているような体のなじみ、
有機的とは違う装飾として、ライト展の賛同を得た。
日本の工芸の装飾の歴史も、ことほぎ、セレブレイション、包み込むという点で
ライトと通じる。
タウトは建築は体と宇宙と自然の触媒といい。
桂離宮をみて、宮殿でありながら、木造家屋に過ぎず
欧米と違いハイカルチャー、ローカルチャーが
日本は自動的にできていて、日本にカウンターカルチャーが本当にない、
育たないと思っていた。
日本民藝館 行って見ると和洋折衷である。
黒田辰秋は李朝ゴシックをつくると言い、民芸とはインターナショナルモダンであると。
河合寛次郎は竹の家具をつくるが、それは台湾などの南方思想的
朝鮮、沖縄に美が起こっている。柳は役人がいじめた場所から美を見出している。
実は柳は当時の日本政府が好きではなかったのではないかと思う。
日本のモダニズムは全て合金、ハイブリッドでできている。
だから日本人は根無し草の苦労で良いと思う。
●イサムノグチ
イサムノグチは日本のモダニズムに2つの事をした
1、やきもの
鎌倉美術館で発表されたイサムの作品をみて、八木一夫
岡本太郎はオブジェ焼きをやりだした
2、岐阜ちょうちん
日米のはざまに生きたイサムノグチは、ピカソ的な芸術家にあえて
なろうとせず、戦争が制御できる芸術をつくろうと、
より難しく時間と手間のかかる、庭の仕事へと傾倒していく。
●剣持勇
タウトの弟子で、ペリアンの友で柳宗理と仕事をしている。
フォークロア、フォークアートを取り込み、タウトに通じるエグサがある。
民衆のにがみ、にがい色で中和し表現することを選ぶ。
戦後の日本を問うたのはこの二人だと思う。
●三島由紀夫 自決
●剣持勇 自殺
つまりこの二人が死んだのは、乱暴な言い方をすれば
結局、日本的なものを問うても意味がないと思って死んだと思う。
だから日本は根無し草でよいと思います。
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I セレンディピティについて
K 眼力が必要。
タウトも神秘的な人間だし、ベルクソン(オカルト学会会長)とも親交があった。
ウィーン工房にもクリムト、ホフマンが日本に影響されているし、
日本の工芸に見える、自然への畏敬の念がすごいと感じている。
つまりヨーロッパでは、水、空気、風、霧を描くのが好きな日本に驚いていた。
N 規格性(グリッド)と見えないもの(水空気風)のバランスが日本
I 日本のモダニズムには生と死が重なる
K 重森 三玲は身を清め白装束で石を立てた
I 三島由紀夫は自決する前に、三輪山に白装束でのぼり
最古の神社大神神社に碑を建てている
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I デザインにしても、大量生産の時代は終わり、
バランスをとるのがデザインとなっていく、
つまり20世紀型ではないものづくりの方法
K 捨てない文化が日本
ぞうきんにしても刺し子して使うように
直すというのが、作るという事になり、つまり直しが見えて
かっこいい
作り手の美学だけでなく、使い手の美学がもう一度できる時代になった!
柳宗理が地場産業に一緒に入って、過ごしものづくりをしている
しかしその後は、デザイナーがデザインだけ渡している時代
そしてまた20〜30代が現地に入って一緒に生産している時代
反原発のデモなんか見てても、作り手の方にみんな参加しようとしているように見える
「生きのびるためのデザイン」ヴィクター・パパネックも、
今もこれからも流行遅れにならないものは、自然であると言っている。
堀辰雄も晩年の小説では、植物のことばかり、庭も重要なキーワードです。
http://numajiri.jugem.jp/?eid=370ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://numajiri.jugem.jp/?eid=487その当時はクラフト運動が盛んで
多治見の陶磁器試験場に
カイフランク、イサムノグチ、森正洋、
柳宗理さんはコーヒーポットをつくっていた。
僕も当時は伝統ではなくクラフト系の
作品を作っていた。と人間国宝の加藤孝造先生に
話を聞いた事は日本のモダニズムの流れの中に
あったのだとつながった。
日根野作三先生も京都国立陶磁器試験場勤務から
東海の窯業産地のデザイン指導を担当していたのであるから
同じような流れの中にあったのだろう。
ものをつくる上で、今までの日本のモダニズムの
流れも本や机上でまなぶのではなく、産地に入ることで
現地の人と交流し、そしてまた
信頼を得ることでしか伝えてもらえない事が
多々あるのが現実だ。
美濃に入れば、荒川豊蔵先生と魯山人先生の美濃、
小山富士夫先生と中里隆先生の美濃等々
明治、大正、昭和と激動の日本の中に現れ
様々な本の中で語られている陶芸家が
美濃には、その流儀が今も脈々と受け継がれ、
本に書いてあることと現地で学べる事は
血となり肉となることがまったく違うのだ。
もはやそれは、ひと時の取材や本からという頭で
学ぶことではなく全身をつくりなおし、
体に叩き込み、勝手に何か一つでも教えられたものを
受け継ぐことのように感じる。
それが学者とものづくりをする人間の違いであるし、
産地で学んだ人間の系譜だろう。
全体の流れを見れば、
確かにハイブリッドが日本そのものであると思う。
そのハイブリッドの中にも
「作り手の美学だけではない
使い手の美学がもう一度できる時代」という言葉は
数寄者の狭義の見立てや作家の自己満足に終始して
しまうことにより、本来共に呼応しなければいけない
作り手と使い手が乖離してしまうことにより
付加価値のずれ、価格のずれが多発して
結局は100円ショップでいいやとなる面もある。
しかし迎合しない事も作り手の大切な要素であること、
自然そのままを持ってきても美しくないことも事実だ。
一つの視点として、
「使い手の美学を喚起する」とは何かを考えてみたい。
小さな一つの現象が複数になることで、史実にもつながっていく。
小学生の頃に教室の上に貼られていた年表がどこまで
長くなるのか心配したことがある。
今となっては不思議な事に、その心配は無用だった。
しかし、どんな歴史をなぞっても同じ歴史が来ないように
ものづくりをするものは、今しか知らないぐらい、
ものづくりに集中するべきなのだろう。
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「
風立ちぬ自転車 指切りげんまんは 春の日に」
2010年に作った僕の句は堀辰雄の世界から感じて
つくりました。
堀辰雄「風たちぬ」