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納屋で生まれたのは、キリストだけじゃない。ブルーノ・タウト/沼尻真一

日本の古典建築というものに、いったい何があるのかと思ったら、
それは「納屋」でしかなかった。
 
実際に日本の農家には、こういう国際的特性を今に
いたるまで保存しているものがある。
かかる農家の輪郭は、特殊の地方的風土にもとづく
差異を度外視するならば、ヨーロッパの諸地方と
著しく類似しているばかりでなく、時には完全に
一致をさえ示している。
 
しかしヨーロッパの建築家の心をとらえたのは、
茶室に用いられている自然木の奇妙な形でもなければ、
時代の匂い(侘び)に対する愛好でもなかった。
 
またはなはなだしく非対称的な形姿でもなければ矮小精緻な
形式でもなく、まして日光廟の浮華を極めた過剰な装飾では
なかった。
 
彼等が日本から学びとったのは、実に
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
の理想化された観念であった、
そして今日といえどもおおむねこれにほかならないのである。
 
田圃のなかに建っているきわめて素朴な藁葺の作事小屋などを
見ると
それはこの国土、この日本の土壌から生い立ったもの、
いわば稲田のなかの農家の結晶であり、この国とその土壌との
力を納めた聖櫃、すなわち真の「神殿」だからである。

ブルーノタウト
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
豪華な家や建物に感動することがないので、なぜだろうと思う。
それよりも家の大きさとか豪華さではなく、どのように
暮らしているか、
もっといえばその場所、その家を
あるいはその町で、どう心地よい部分を
「トリミングして住みきっている」かという事に
関心があるし
その住みきっている部分で心地よいと感じるのだと思う。
 
たとえば、イサムノグチ庭園美術館を訪れた際に

先に述べた
 
清楚
 
名澄
 
単純
 
簡浄
 
自然の素材に対する誠実等
 
という感覚を感じた。

もちろんすでに美術館となっているものだから
綺麗なのはあたりまえではあるが、
それを差し引いたとしても、イサムノグチの作品
からも、やはり生前でも同じ空気が
流れていたのだろうと感じずにはいられなかった。
 
掃ききられた土のうえを歩く心地よさ。
 
恐らく、どんなに建物が豪華であっても
このように掃ききられた感覚というものが存在しなくては
清々しさは生まれてこないのだろう。
 
建物+場所+掃き清める
 
という感覚は建物だけでなく
人間の中にも同じものを持てるのだろう。
 
清楚な者、清楚な物が日々無くなっている
今だからこそ
いつも見れるように、感じれるようにしたい思う。


沼尻真一






ブルーノ・タウト、テレンス・コンラン卿のテルマエ・ロマエ/沼尻真一

 
こうして日本人は、西洋よりもはなはだしく、様式の外面的模倣に
狂奔した。

そこで旧来のすぐれた伝統は断絶し、それと共に「質」の概念もまた
消失したのである。昔ながらの伝統に対するすぐれた感情はこれを
拒否したにもかかわらず、日本人は挙がって外国の文物の模倣に
明け暮れた。それは異国的であるが故に、彼らの興味をひいたからで
ある。

私たちは、日本で実に多くの美しいものを見た。しかしこの国の
近代的な発展や、近代的な力の赴く方向を考えると、
日本が何かおそろしい禍に脅かされているような気がしてならない。

1933年〜1935年の来日した
ブルーノ・タウトの日記

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1933年昭和8年の1月にヒトラーがドイツ首相となり、ナチス政権が誕生。
日本は「満州国」が国際連盟で不承認となると、国際連盟を脱退した。
のちの昭和12年日中戦争へと発展していく時代。
昭和8年に日本に亡命したタウトは、日本を旅した
日記の中でこのように記している。


その後は誰もが知っているように、第二次大戦により
日本の主要な大都市は空襲により焼け野原になった。

3.11も甚大な被害により数多くの家屋が失われた。


タウトは料理屋、旅館、住宅などの一部に
茶室的要素を取り入れることは
いかもの(なんちゃって)となると否定的に言っているが、
その元の茶室でさえ、100年という時の美が
刻まれることで初めて、価値をなしてくるのであり、
極論を言えば、新築の茶室でさえも
どれも最初は「なんちゃって」なのではないだろうか。

多湿な日本にあって、木造建築で100年経ってやっと
一人前というサバイバル感覚が日本の
建築物にはあるのだろう。

先日の二期倶楽部の代表の北山さんとの話の中で、
建築や空間が人をつくるという話をさせて頂いた。


それは、日本で初めて二期倶楽部東館のデザインを
テレンス・コンラン卿への依頼をした際に、北山さんが
オーダーした事。

それは部屋から目的の場所へは
常に屋外を通って移動するという事であった。
つまり従来の温泉施設のように、すべて雨風しのげて
館内だけの移動で終始しないというものである。

雨が降っても、雪が降っても
一歩
外に出ることは本当に「覚悟」がいることなのではないだろうか。
ましてそれがひとけの無い暗闇の中であればなおさら。

トイレもお風呂も昔は別棟にあって、しんしんと冷える冬でも
幽霊タイムの丑三つ時でも、
一度、
てめぇの体を戸外に放りださないと、
用がたせない始末となっていた。

平成の世だと言うのに、実は自分の家もいまだに風呂に入るのに、
いちいち外に出なくちゃたどり着かない。

だから雨でも夜でも、たかだかリラックスしたくて風呂に
いくのに、あえて「追いはぎ」や「獣」に襲われはしないかと
いつどこから何が来ても対処できるように
毎晩「覚悟」を決めて風呂に行くこととなる。

もともと日本では神道の風習で、
川や滝で行われた沐浴で
禊(みそぎ)の慣習が風呂に入るという行為になったんだから
文句を言わず、ガンジス川より那智の滝よりましだからと
知識があれば。


あらためて建築が人をつくるという感覚。
つまりそれは環境が人をつくるという事である。

建築、空間、家族、村や町、自然、周りの住民、
学校などなどである。

三つ子の魂百までもだけでなく、
孔子の孟母三遷
虎穴に入らずんば、虎子を得ず、
近墨必緇、近朱必赤
という話がある。

大の大人になっても、年を重ねても、
いつからでも人間は周りに望む環境を
つくる努力、浸す努力をしていく事で
吸収し変化することができるだろう。

人間の器は限られているが、多くのものを
ぶらさげ持ち過ぎているのに気づかず、
自然に見えたとしても、実は自分の思い過ごしの
誤解で、悪影響を持ち続けている場合の方が多い
そのために取捨選択、英断が必要である。

それには良い影響がどういうものか
自分が知っているということが必要だろう。


沼尻真一



















二期倶楽部で朝食を。 北山ひとみさんからリルケもだって/沼尻真一

 
北山ひとみさん

学校の先生、家、近所の変わった人、親戚の変わったおじさんなどなど
世の中は怖いものばかりでした。
 
だから多様性がもう子供の頃から身について。

でもとってもそのおじさんは素敵だった。
私たちが子供の頃、家族の前に
ある日突然現れたかと思えば、舶来の品をお土産に買ってきてくれたりして。

着ているものなんかも、ホントに素敵で。
親戚が集まったときなど
怪訝そうな私をみると、私にばっかりちょっかい出してきて。
それが恥ずかしいやら、ちょっと興味深いやらで。

でも威厳のある父から叱られるとまたプイッといなくなってしまう。
そんな風来坊的な人が、世の中には大勢いた時代がありました。

そんな人が違う文化を持ってきたりしていましたよ。


沼尻

それって、山田洋二監督の映画「母べぇ」の鶴瓶さんみたいですね。

僕は子供の頃、何が怖いって家が怖かったですよ。
暗くて、外の外灯の下で祖父が帰ってくるの待ってました。

北山さん
それリルケも言ってますよ。
 
北山さんにまた一つ教えてもらうことができました。
世の中は狭い門です。
 
 
ライナー・マリア・リルケは、知られているように幼い頃、
自らを女児であることを自ら演出した。そうすることは、
母の願いに叶うことでもあり、リルケが母と深い絆を保つ
最高の手段でもあった。
幾部屋もあって、幼い子供には迷宮のような館に生まれ
育ったリルケ。孤高を保つ祖父と権威を示そうとする祖母、
仕事にかまける父、そして実務にはうとい母。そして使用人たち。

 
誤解されがちであるが、『マルテの手記』は、小説である。
一応、小説のモデルもある。そうと程度にリルケの
思い入れが読み取れそうに思えるし、実際、そうした誘惑に
駆られることもこの「手記」を読むとしばしばである。
われわれは読むうちについ、「リルケの手記」であるかの
ように読んでしまうのだ。
 が、しかし、そんな誤読など、どれほどの非難に値しようか。
リルケ研究の専門家になろうとするわけではないのだから、
思いっきり「リルケの手記」の世界に没入していけばいいのだ。
誤読を恐れてはいけない。実際、安部公房もそのように
読んでいたのではなかったろう。


何一つ見えない暗黒な夜。
何一つ映らない窓。注意深く閉ざされた扉。
昔のままの調度。ただ次々に引渡され、認知されただけで、誰にも理解されたこと
のない部屋の道具類。階段のひっそりした静寂。隣室のもの音もせぬ沈黙。屋
根裏もしんかんと静まり返っている。ああ、子供のころ、このような切ない静
けさを救ってくれたのは、ただ一人僕の母があっただけだ。母やこの静けさを
いつもか弱い自分の身に引受けて、ちっとも怖いことなんかないんだよ、しい
んとしているのはお母さんだからね、と言ってくれたりした。夜ふけの静けさ
におびえきって、息が詰まりそうな子供のために、母は暗闇の中で、自分があ
のしいんとした静けさだと言ってきかせる勇気を持っていたのだ。(p.78-79)









「日本的モダニズムの創出はいかに可能か 」伊藤 俊治(美術史・東京藝術大学教授) × 柏木 博(美学美術史・武蔵野美術大学教授)× 新見隆(キュレーター・武蔵野美術大学教授)


「日本的モダニズムの創出はいかに可能か
西欧がみた日本」

■伊藤 俊治(美術史)

20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮は森の再生と連動している。
諸行無常に日本の風土感がある。
クロード・レヴィ=ストロース は西洋文明以外の日本文化に特集し
混合混入の出会いの場を蒸留したものが日本文化「神話理論」
伝統の精神を神作に置き換えてきた。
外来文化を引き寄せ消化させた、共存文化ができる日本。




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講演にはない資料/沼尻参考添付

日本は数世紀にわたって
二つの態度を、バランスをもって使い分けてきました。
すなわち、外からの影響に自らを開き、
すばやくとり入れること、
そして、
自らのうちにひきこもり、
時間をかけてそれを同化し、
固有の刻印を押すことです。
この二つの行動様式を交互に用い、
国津神への忠誠と、日本語でいう
「客人神」への忠誠を共存させる、
日本の驚くべき能力……
こうした考え方が西欧人の観察者に
どれほど深い印象を与えるかを、
示してみたいと思うのです。

クロード・レヴィ=ストロース
「文化の多様性の認識へー日本から学ぶもの」
『レヴィ=ストロース講義』

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●フランクロイドライト
安藤広重の浮世絵から、自然と人工の融合に日本らしさを見出す
偉大な建築の連続や幾何学的なグリッド構造
モダニズムの基本法則⇒グリッド構造


●ブルーノ・タウト
桂離宮、京都曼殊院から形態からもっと大事な事が建築にある事を
発見する。
つまりメディテーションへ引き込む力の重要性。
タウトは日本家屋の黒光りした床板に一番興味を引かれたと語った。
その後のアルプス建築は、その地から立ち上がるものというアイデアを持つ。

「日本の工芸は芸術より高い位置にある。」つまりミクロコスモスであると。


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講演にはない資料/沼尻参考添付

確かに非実用的であり、益はない! 
しかし我等は実用的なもので幸福になったろうか。
終始実用一点張りだ。やれ快適、便利、やれ美食、やれナイフ、フォーク、
道、便所、それからまた火砲、爆弾、武器! 高尚な理念がなくて、
単なる実用や便利を欲するのは退屈だ、退屈だ。
(鈴木久雄『ブルーノ・タウトへの旅』p160の引用より)

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●シャルロット・ペリアン
タウトの後任として1940年来日 
日本の工芸と深く交流し、精神幾何学性としてお茶のライフスタイルの刷新
木とわらと紙の日本の家にあわせ、畳がモジュールとなり
規格化されていることはコルビジュエと同様

アンドレ・マルローはペリアン以上に日本の精神文化に傾倒
伊勢神宮は20年毎に永遠を刻んでおり、周りの森がなければ何も意味がない

ライトは「清潔が日本人のDNAである」と

タウトは「自然宇宙と芸術と生活が判別できない」

しかし、第二次世界大戦以降日本が自然との共生が難しくなる

311以降日本固有の自然観が大切になった。

「日本から学んでいないのは、日本人だけである。」

外人が日本をどう見たかを知れば、日本人にも日本のことがわかる

以上基調講演 伊藤 俊治(美術史)

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「日本的モダニズムの創出はいかに可能か
西欧がみた日本」

対談 伊藤 俊治(美術史) I× 柏木 博(美学美術史)K× 新見隆(キュレーター)N






柏木K 

●日本のモダニズムの流れ

1928年 岸信介ら商工官僚が中心となり商工省主導でデザイン運動を推進
1931年 生活改善同盟
1932年 文化学院 生活用品改善展

木檜恕一【こぐれ-じょいち】
1881−1944 大正-昭和時代前期の工芸デザイナー。
明治14年生まれ。大正8年生活改善同盟委員。 
著「我が家を改良して」

バウハウスには合理主義だけでなく、神秘主義、オカルティズムが背景にある。

コルビジュエの弟子の板倉準三は商工省の招きで
来日したシャルロット・ペリアンを受けいれる。

ペリアンは柳宗悦、宗理らと親交を深め、国内を視察している

商工省は国民全員が統一した生活をすることを奨励するが、
それが後に戦争も一緒にするという日本のファシズムにつながった。

戦後はアメリカの用品のものまね

1956年〜柳宗理、剣持勇、渡辺力らが日本製のプロダクトを作り出す
その背景には民芸運動の思想がある

有り合せで物を作ることができる。少しでも心地よい方へと!
それが日本人は得意なはずである
それはスティーブジョブズも一緒で、彼は何も作っていない。
潜在的有用性を活かした。

例えば、子供が川を渡るために、ふみ石を選ぶということ。
つまりそれはもうデザインしていること。

いま日本の工芸も新しいものをつくろうとしている。
捨てられたものを転用したり。

リートフェルトのクレートという木の作品や
2007年からのアルバアアルト(セカンドサイクルプロジェクト)など
一度購買者が使って改良した椅子を、
その使い手の価値観がプラスされた椅子として
新品とはまた違う別の価値として販売していく

例えば、陶器の金継ぎ ヨーロッパでは修繕した場所が見える事は
考えられないが、日本では金継ぎが見えることが日本の美である。


●庭 
作庭記 題名は江戸時代からで
塙保己一(はなわほきいち)が収集し広く知られるようになった。

重森 三玲 東福寺 方丈庭園 1939年、京都市 1939年モダニズムの庭
小川 治兵衛 無鄰菴(山縣有朋別邸) - 京都府京都市 1896年
アフォーダンス的見立てがいっぱいある

●寺田寅彦は地球に優しい物理学者で、
夏目漱石の弟子で、正岡子規を紹介してもらい、家を訪ねた際に、
玄関に女性の靴しかないことに、もはや子規が歩くことができない
病状を読み取りショックを受けたと言っている。
つまりそれはセレンディピティであり(ある現象からその背後を読み取る力)である

●不条理さ

北原白秋 不条理な童話をたくさん作っていて、
子供の心にぐさりとくるモダニズムがある

新見N:
フランクロイドライトの展覧会を企画したとき内井 昭蔵さんに
相談し、中に入ったときに生きているような体のなじみ、
有機的とは違う装飾として、ライト展の賛同を得た。
日本の工芸の装飾の歴史も、ことほぎ、セレブレイション、包み込むという点で
ライトと通じる。
タウトは建築は体と宇宙と自然の触媒といい。
桂離宮をみて、宮殿でありながら、木造家屋に過ぎず
欧米と違いハイカルチャー、ローカルチャーが
日本は自動的にできていて、日本にカウンターカルチャーが本当にない、
育たないと思っていた。

日本民藝館 行って見ると和洋折衷である。
黒田辰秋は李朝ゴシックをつくると言い、民芸とはインターナショナルモダンであると。
河合寛次郎は竹の家具をつくるが、それは台湾などの南方思想的

朝鮮、沖縄に美が起こっている。柳は役人がいじめた場所から美を見出している。
実は柳は当時の日本政府が好きではなかったのではないかと思う。

日本のモダニズムは全て合金、ハイブリッドでできている。
だから日本人は根無し草の苦労で良いと思う。

●イサムノグチ

イサムノグチは日本のモダニズムに2つの事をした

1、やきもの 
鎌倉美術館で発表されたイサムの作品をみて、八木一夫
岡本太郎はオブジェ焼きをやりだした

2、岐阜ちょうちん

日米のはざまに生きたイサムノグチは、ピカソ的な芸術家にあえて
なろうとせず、戦争が制御できる芸術をつくろうと、
より難しく時間と手間のかかる、庭の仕事へと傾倒していく。

●剣持勇 

タウトの弟子で、ペリアンの友で柳宗理と仕事をしている。
フォークロア、フォークアートを取り込み、タウトに通じるエグサがある。
民衆のにがみ、にがい色で中和し表現することを選ぶ。

戦後の日本を問うたのはこの二人だと思う。

●三島由紀夫 自決

●剣持勇 自殺

つまりこの二人が死んだのは、乱暴な言い方をすれば
結局、日本的なものを問うても意味がないと思って死んだと思う。

だから日本は根無し草でよいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

I セレンディピティについて

K  眼力が必要。
  タウトも神秘的な人間だし、ベルクソン(オカルト学会会長)とも親交があった。
  ウィーン工房にもクリムト、ホフマンが日本に影響されているし、
  日本の工芸に見える、自然への畏敬の念がすごいと感じている。
  つまりヨーロッパでは、水、空気、風、霧を描くのが好きな日本に驚いていた。

N 規格性(グリッド)と見えないもの(水空気風)のバランスが日本

I 日本のモダニズムには生と死が重なる

K 重森 三玲は身を清め白装束で石を立てた

I  三島由紀夫は自決する前に、三輪山に白装束でのぼり
  最古の神社大神神社に碑を建てている

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I デザインにしても、大量生産の時代は終わり、
 バランスをとるのがデザインとなっていく、
 つまり20世紀型ではないものづくりの方法

K 捨てない文化が日本
  ぞうきんにしても刺し子して使うように
  直すというのが、作るという事になり、つまり直しが見えて
  かっこいい

  作り手の美学だけでなく、使い手の美学がもう一度できる時代になった!

  柳宗理が地場産業に一緒に入って、過ごしものづくりをしている
  しかしその後は、デザイナーがデザインだけ渡している時代
  そしてまた20〜30代が現地に入って一緒に生産している時代

  反原発のデモなんか見てても、作り手の方にみんな参加しようとしているように見える
  「生きのびるためのデザイン」ヴィクター・パパネックも、
  今もこれからも流行遅れにならないものは、自然であると言っている。

  堀辰雄も晩年の小説では、植物のことばかり、庭も重要なキーワードです。
  http://numajiri.jugem.jp/?eid=370

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http://numajiri.jugem.jp/?eid=487

その当時はクラフト運動が盛んで
多治見の陶磁器試験場に
カイフランク、イサムノグチ、森正洋、
柳宗理さんはコーヒーポットをつくっていた。
僕も当時は伝統ではなくクラフト系の
作品を作っていた。と人間国宝の加藤孝造先生に
話を聞いた事は日本のモダニズムの流れの中に
あったのだとつながった。
日根野作三先生も京都国立陶磁器試験場勤務から
東海の窯業産地のデザイン指導を担当していたのであるから
同じような流れの中にあったのだろう。

ものをつくる上で、今までの日本のモダニズムの
流れも本や机上でまなぶのではなく、産地に入ることで
現地の人と交流し、そしてまた
信頼を得ることでしか伝えてもらえない事が
多々あるのが現実だ。

美濃に入れば、荒川豊蔵先生と魯山人先生の美濃、
小山富士夫先生と中里隆先生の美濃等々
明治、大正、昭和と激動の日本の中に現れ
様々な本の中で語られている陶芸家が
美濃には、その流儀が今も脈々と受け継がれ、
本に書いてあることと現地で学べる事は
血となり肉となることがまったく違うのだ。
もはやそれは、ひと時の取材や本からという頭で
学ぶことではなく全身をつくりなおし、
体に叩き込み、勝手に何か一つでも教えられたものを
受け継ぐことのように感じる。
それが学者とものづくりをする人間の違いであるし、
産地で学んだ人間の系譜だろう。
全体の流れを見れば、
確かにハイブリッドが日本そのものであると思う。
そのハイブリッドの中にも

「作り手の美学だけではない
使い手の美学がもう一度できる時代」という言葉は

数寄者の狭義の見立てや作家の自己満足に終始して
しまうことにより、本来共に呼応しなければいけない
作り手と使い手が乖離してしまうことにより
付加価値のずれ、価格のずれが多発して
結局は100円ショップでいいやとなる面もある。

しかし迎合しない事も作り手の大切な要素であること、
自然そのままを持ってきても美しくないことも事実だ。
一つの視点として、
「使い手の美学を喚起する」とは何かを考えてみたい。
 
小さな一つの現象が複数になることで、史実にもつながっていく。
 
小学生の頃に教室の上に貼られていた年表がどこまで
長くなるのか心配したことがある。
今となっては不思議な事に、その心配は無用だった。
 
しかし、どんな歴史をなぞっても同じ歴史が来ないように
ものづくりをするものは、今しか知らないぐらい、
ものづくりに集中するべきなのだろう。

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  「風立ちぬ自転車 指切りげんまんは 春の日に」
  
  

  2010年に作った僕の句は堀辰雄の世界から感じて
  つくりました。堀辰雄「風たちぬ」
  
 
 
 
 
 
JUGEMテーマ:アート・デザイン
 
 
 
 

建築家 山本理顕先生×難波和彦先生×社会学 山本哲士先生 二期倶楽部クロスセッション & 小林崇さん ツリーハウス作家/ 沼尻真一 



■二期倶楽部クロスセッション 

建築家 山本理顕先生×難波和彦先生×社会学 山本哲士先生




東北自動車道から那須ICを降りる際に
急な雨が降りだし、視界不良な状態で
高原を抜け久しぶりに二期倶楽部に走った。

いつも変わることのないこの森は、
代表の北山ひとみ氏が
まだ日本がバブル絶頂で足元が見えなかった時代
1986年に国内初のオーベルジュホテルとしてスタートし、
はや26年が経ち48000坪の森が保護されている。



北山さんとの出会いはもちろん自分の中には、
二期での多くの出会いによって、
自分の意識や暮らし方
生き方まで変わったのではないかと思う。

それは今は故人となられた無境の塚田さんや、
作家の井上ひさし先生が静かに語られた
言の葉の数々が思い出としてあるからだ。

人は人によって磨かれるという言葉の通り、
その人なりの世界を作った先人と出会いには
学びが必ずあり、また自分自身の中で研鑽と育みが
無くては話す事さえも恐縮してしまう難しさがつきまとう。


年齢がいくつになってもあるという事は、
つまり60になろうが70になろうが
終わりがないという事なのだと思う。

一生勉強だって!鵬雲斎大宗匠も話されてた。








3.11以降 その体験から多くの人が何らの価値観が
変わっただろうし、また探しているように思う。

傍から見ればわかりきっているのに、まだ
規模や金満さを誇張して見栄をはるカッペの企業や
人種もいれば、まったく変わった日本の価値観や
環境の変化にあわせ自分自身の心技体を研鑽している者もいる。

今回の北山さんが開催したクロスセッションは同時代に生きる人間が
セッションを通して、新しい種をまく前の土づくりであろう。




■二期倶楽部クロスセッション 

建築家 山本理顕先生R×建築家 難波和彦先生N×社会学 山本哲士先生Y




建築家 池辺陽先生に学んだ難波先生は
箱の家プロジェクトとして広く知られている。

例えば、無印の家は、難波先生が設計したものを
パッケージとして無印が取り扱っている。

後で、難波先生から教えてもらったのだが、
箱の家プロジェクトは、アノニマス性を大事にしていて
海外では良くシェーカーの家に間違われるとの事。

難波先生と話してみると、建築だけでなく
歴史や文化、映画まで幅広く知識があり、
時代を読み解いている
その中から生み出された究極のシンプルな家が
先生の箱の家プロジェクトだと分かる。




山本理顕先生R

山本先生は、建築家 原弘先生に学んでいる。

その著「地域社会圏主義」を紹介してくれた。

R:住宅と街は関係していない。

一住宅一家族という暮らし方は、実はまだ歴史が浅い

N:一軒屋に住んでいるのは、アメリカと日本だけで
アメリカは国土も広いし、日本のような用途地域制限も
ないから、それでいいが、狭い日本がさらに
用途地域で規制されて住んでるから
魅力的な街ができていないのはそのためだ。
R実は一家族一住居というシステム自体は
労働者を管理するための住宅方式なのです。
それが世界に広がった。
しかし、1960年代日本は
一住居に4人高齢者率10%が暮らしていたが、
2012年1.99高齢者率23%人で、
2015年には1.9人になる。
被災地では約30%が高齢者である。
もはや日本ではこの一住居一家族という
形態自体が破綻して、住居内での孤独死や
老老介護などさまざまな弊害が起こっている。
そこで地域社会圏システムでは
老若男女500人が一緒に住むという考え方です。
2.4×2.4×2.6の箱2つに
一つは完全なプライバシーのある寝間
もうひとつは、外に開かれた見世 店でもいいし
とにかく社会 外との接点です。
キッチンやバスは共用する。
この箱をすべて賃貸として集合させ
都心のワンルームよりも広くて安く、そして
その500人が一つの社会をつくるような場所。
一人ひとりが得意分野を持ち寄って、
野菜を売ったり、服を売ったり、何かを教えたり
とにかく一人ひとりがその中で、日銭を稼ぐ。
そしてまったくグローバル経済と対抗できるような
生き方をさがす。
車もエネルギーもコンビにも、500人という単位になる
ことで、できる新しいシステムによる住まい方が
経済的な数値化された根拠により、証明されている。

 
Yハウジングではなく、ドゥエリングするということではないだろうか
R日本では公営の賃貸は5%だがフランスでは15%ある
日本は一貫して住宅産業が国の産業になっているために
フラット35などの金融公庫により、借りるより買う方が
特であるという事になってしまっている。
これは高度経済成長を前提とした、住宅政策の誤りである。
J沼尻
500人がゆるやかに関係しながら一緒に住むというのは
日本の昔の農村の形態にも似ているような気がします。
それを可能にするためには、職業というか生業も
とても重要になると思う、つまりグローバル経済ではない生業。
R僕は商店街で育ったけど、みんな活気があって、
みんな関係していたんだよね。


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N僕も農家だったけど同じだった。
Jつまり今はそれが大店法の規制緩和によって
あっちこっちに必要以上に大規模ショッピングセンターができて
商店が成り立たなくなってしまったのも、原因のような気が
N日本全国の土地の用途地域を全部近隣商業施設にすれば
いいんだよ、そうすれば、日本は劇的に変わる
R僕も東雲キャナルコートを手がけたときに
マンション区内には、お店ができない
つまり規制があって、何平米以上の店舗を住居と一緒に
つくれないんだよね
だから、住むとこ、買うところ、働くところと
別々になって、結局はおもしろい街ができない
高度経済成長は終わったんだから
半量産でも、一人ひとりにあったものづくりの仕方が重要
僕らはとらえられないものを設計する
ネット化できないもの、証券化できないものを
人がどこで生まれて、 どこで死んだか?
誰かが記憶している事がとても大切なんだよね。
つまり、記憶と時間
野中育造先生の著「プロセスこそ実在だ」にもあった
Y古事記は社をつくるつまり場をつくる
日本書紀は場をつくらない
日本は2つの考え方がある
○エネルギーについて
R一住宅一家族でエネルギーを作り出すには
無駄が多すぎる
地域全体で取り組むのをサポートするのが
本来の電力会社の役割
しかし、自家発電しても結局は自分の家に直結できずに
一度、電力会社のルートに乗せてからそれから自宅へと
いうルートの規制がかかっているので、蓄電できない。
N19世紀の無政府主義、バランステール共同生活に似てきている
R日本の古民家は軒が深く、うまく自然エネルギーを活用できている
K北山さん
規制や既得権益の圧力にひるむのではなく
ゆるやかに一人ひとりが自立して
共食、共育によって参加者それぞれの地域から、
問題を共有して変えていかなければ
いけない時代だと思います。

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自給や自立とは みずからと書いてある。
しかしすべて自分でするという自らではなく
食料をつくるのが得意な人
服をつくるのが得意な人
器をつくるのが得意な人
料理をつくるのが得意な人
というように、持ち寄る自立。

あなたは自己満足の趣味ではなく
人にお金をもらえるだけの生産として何が与えられますか?
と聞かれているようだった。
つまり流行や芸能人、大衆、マスコミの追いかけごっこ
肩書き、学歴、バービー人形ではない日本人の美、

つまりこの大衆見栄っ張りなラットレースからの離脱。

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つまりグローバル経済大衆経済
見栄の張り合い連中から逃避すること
それはタウンページの職業欄でもなく、
ハローワークの仕事欄でもなく

政府の監視下におかれ 資本主義国家

自分で法律がつくれない、抜け穴だらけの

法治国家という幻想のシステムが大前提になければ

それに乗ったり、そいつらに媚をうらなければ

自分の仕事が成り立たないし、肩書きもつかないという仕事や職種ではなく

世論操作の下の社会がこれからも永久にあるという

サービス業として給与をもらう仕事ではなく
 
人が生きていくために、何が提供できるのかという事!

無人島で何をどう生きていけるのかという人間の知恵と資質。

実理に従った暮らしが最も優雅であるという事。

農業をはじめとした第一次産業からの離放によって

失った人間の潜在能力。

だから回転ずしの上で回されつづけ、俺はトロだ

私はハマチよと肩書きをほざいた所で結局は

ベルトコンベアに乗った乾いたネタで皆一緒なんだから。

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そんな今の日本で生きていくにも

両輪として持たなくてはいけない精神の開放

個人独立国性の個人主権確保のための第一次個人生産業。
つまり、自らが立った人間同士がつながり成立することだと思う。
貨幣という紙切れではく、できれば物々交換なのだろう
山本理顕先生がずいぶん昔に設計した
コミュニティのできる集合住宅が
ひどくマスコミに叩かれた話をしてくれた。
今ではもうあたり前なのに。
500人が一緒に住む。
初めて聞くと抵抗を感じるが
いつかユーロ危機や日本国家、アメリカ属国の日本
官尊民卑の官僚国家のようなグローバル経済や政治と
うまく付き合える住まい方暮らし方ができる日も
来るのかもしれない。
今となっては食料も服も自給できるが実は
電気やエネルギーをどうするかに
一人ひとりの生活の自立の鍵がかかっているようだ。
沼尻真一


※後に、山本理顕先生から「地域社会主義圏」の本を
  丁寧な手紙付でプレゼントをいただいた。

  先生と一緒に風呂に入ったときに、靴の脱ぎ方そろえ方を見て
  ピラミッドフィルムの社長で写真家の繰上和美さんの事を
  思い出した。どこでも凛とした佇まいがあるのは同じだった。


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二期倶楽部のツリーハウスに向かう
 
CASA BRUTUS』(2011/11月号/マガジンハウス刊)にて紹介された。
二期倶楽部の、人間と庭の新しい形を10年にわたって提示する
「庭プロジェクト」第一弾、ツリーハウスクリエーター小林崇さんの作品

http://magazineworld.jp/casabrutus/140/read/









二期倶楽部のツリーハウスに上る男の子の目の輝きが良かった
男の子はこうでなくっちゃ

小学校の頃、友達と樫の木に登ってて、上に基地をつくって
下を通りがかる、おばちゃんたちにそのドングリを
落としていたずらしたり、

集会所の前の木の上に先輩たちと一緒に
古タイヤをあげて、ターザンのようにぶら下がって
木からダイビングできるようにしたりした。

最後はロープが切れてその先輩が畑に落ちた。
あの先輩はまったく
トムソーヤだったな。

いまは水道設備の親方社長になってる。

その後、今度は送電線の鉄塔に登っていて
ちょうど下を通りかかったおまわりさんに
捕まったことも思い出した。
子供の頃は高いところが好きだったな。

あいつは今人気ラーメン屋の亭主社長だ。



いまの子は木登りがジャングルジムだったりするのかも。
ジャングルジムだと落ちても怪我しない高さだからな。

少しでも高い所に登ってあたりを
眺めてみたいと思ってたな。

地元の先輩の社長が、パラグライダーをしていて
高度2000mまで飛べるという。
オーストリアへ遠征してくる前にちょうど会った。

世界を転戦しているパラグライダーは
空から地球が温暖化していることが分かるとも
話してたな。

高い所に行くと目が輝くのは何か
人間の本能が鋭敏になるための必要性なのだろう。

この男の子の目もそうだったな。




















石舞台・テーブル 建築家 内藤廣先生の傑作


基本構想 松岡正剛 
設計 内藤廣 + 内藤廣建築設計事務所
石 和泉正敏+石のアトリエ





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ファルコン












原宿にあった伝説のBAR Radio復刻