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ああ 何もかもみんな透明だ。象の手紙だから/沼尻真一



ああ 何もかもみんな透明だ。象の手紙だから
 
 
信仰心のある日本人にとって
檀家の住職や初詣の神主と一生のうちに、
三度と会わないのはこの国の不幸です。
 
だから、毎週日曜日に説法されるキリスト教や
あるいは、信者を熱心に獲得しようとする
新興宗教の方がわかりやすくよほど救われるのでしょう。
 
立派な坊さんが山に何年修行してもらっても
一向に人々は心療内科や精神科に通うばかりです。
 
信仰とは日常の暮らし生活を導くことであり、
ちょっと曲がったり、
ちょっと落ちたり
上がったりしたものを、
誰かがちょっと
修正してくれて、
そしてまた次の一週間過ごしてみる。
というような、
生涯の臨床実験ではないでしょうか。
 
日本には暦があって、
農業つまり稲作を中心として生きてきた日本人は
暦とともに生活がありました。
 
黙って生きていても、作物を作るわけですから
天候が毎日気になるし、天候でスケジュールを
決めるわけです。
 
つまり自然の道理と一緒であり、
もっと言えばそれはゲーテや
シュタイナーのように宇宙の道理と一緒なんです。
 
だから人間も植物であると言っている事は
よくわかるんです。
 
しかし、冷暖房完備のオフィスからマンションに帰って来て
フィットネスクラブに通っても、それは生活のどこにも
実は自然が入っていないんです。
それはスーパーで買ってきた地元の野菜ぐらいが
自然な毎日という事になるわけです。
 
またはたまの休日に公園や、キャンプに行っても、それは
日常ではないんです。
 
たいせつなのは、いかに日常の生活に自然を
取り入れられるかなのだと思います。
家の中に自然を取り込むのは、土間がたとえ
しつらえてあったとしてもそれは容易な事では
ないと思います。
日本は季節に合わせて、二十四節気という暦に合わせて
家の中と外、体の中と外の調整を行って来ました。
 
米や作物を用いて、ハレとケのように
収穫を祝い宴を開いたり、あるいは部屋の中の
雰囲気を気分を変えて、
仏壇や神棚も一緒に信仰を続けて来た歴史があります。
 
自分は大正生まれの祖父母に育てられたのですが、
祖母はよく縁側で、布団を縫っていました。
布団って家でつくれるのかなんて疑問も
まったく持ちませんでした。
 
しかし祖母の作ってくれた貝巻き布団は、肩を冷やす事が
なくて、築100年の隙間風が入るような家でも
温かく寝ることができました。
 
ちょうど今頃からの
霜が降りそうな晩秋には、収穫して干した
藁を使って、祖父が庭や水道管の霜よけのために
ムシロを太く大きな手で編んでいました。

冬になる前に蔵の前の裏庭の通路にはそのムシロが
引かれて、冬になればちゃんとそのムシロの下に
霜柱がたって足元を守ってくれました。
つたない記憶はこのぐらいですが、
いつから、誰から、まったく今のような時代になったのかは
誰もわからないでしょう。
 
江戸幕府が悪いとか、明治維新が悪いとか、
戦争で負けた人が悪いとか、
高度経済成長が悪いとか
バブルが悪い、インターネット、携帯が
地震が悪い、親が悪い
といっても仕方がないです。
 
しかし、自然や二十四節気や信仰、ものづくりには
医療費だけが気になる悪徳な医者に
間違った精神の診断書を書かれる前に
現代の生活スタイルの中でも、できるパッケージが
あるでしょう。
 
この国の働くスタイルが稲作からサービス業に
なっても、やっぱり水が豊富しかし多湿な
この国で気持ちよく生きるための術だけは
人間の給料のもらい方の変化には、まったく関係
なく普遍なんだと思います。
 
その普遍が実は根底にあるのに、エアコンや車
インターネットで抵抗しても、やっぱり人間は植物だから
人間の心と体がまったくそこまでは順応していません。
 
天然物を養殖してもうまくいかないように、
太平洋やアフリカでとっ捕まえてきた生き物が
水族館や動物園で、まったく不健康そうな虚ろな眼で
こっちを睨んでいて、その虚しさが実は日々の自分の姿の
ように見えてくる心地悪さ。
 
だからこのギャップをどう埋めて行けるかが、
実はこの国の自然の中に住むための
心地よさにつながるのだろうと自分は考えます。


沼尻真一
 
 
 
 
 
 
 

農業と芸術という遠距離恋愛だから、・・・ 宮沢賢治・羅須地人協会/沼尻真一

農業と芸術という遠距離恋愛だから、・・・



若者が集い、私塾のようになった集まりを
賢治は「羅須地人協会」と命名し、ジョン・ラスキンの
聖ジョージ組合のように
 
・自ら耕し
・学習し
・芸術を楽しむ
 
という共同組織を目指した。
 
科学や農業技術、エスペラントを教え
農民芸術を説く。
 
また農民楽団の結成を考え、楽器を買って
合奏の練習を始め、自らオルガンとチェロを担当した。
 
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戦後は高校なんてまともに行けて学べるもんじゃないから、
どこの街にも私塾や若者が集い学べる場所があったという。
 
花嫁修業も、花婿修行もそこで行われ、
知識としての教育よりも、

芸術でも、知識でも
すべて即、日常の生活の中に取り入れられるような
学びの場だったという。
 
それは、親や他の誰かから
与えられたものではなく、

自分から
知識や社会、世の中、世界に飢えて、飢えて
学びに行こうとするのだから、何よりも身につく。
 
ハングリーとか一生懸命なんて
言葉が軽すぎるほど、一人ひとりが真剣で
深刻だったのだろう。
 
農業と芸術という、遠距離恋愛を
一つにまとめる賢治の創造性は、
実は
 
「食って生きて、そして楽しむ暮らし方」
 
という最もシンプルな生活ができるという事になる。
 
これは1926年大正15年昭和元年の話であって、

いまの
平成24年では
食うや食わずの農民はまわりに誰もいない。
 
学びたくなくても、親が勝手に大金を出して、
珍しい高校や大学に行かせてくれて、
何となく楽しく終わる。
 
何となく就職して、何となく辞めても生きれる。
 
そして誰も困っていない
 
という今にも

しかし賢治の「羅須地人協会」はあったらよい。

 
その学習とは、
数学や国語ではなく、
美しい生き様であり
 
その芸術とは
巨大なものではなく
美しく手で持てるものであり
 
自分が食べる分を
自ら鍬を持って耕し、
種をまくことができるという事だろう
 
もう10年近く前に賢治の話から
岩手に実際に足を運んでくれた友人を思い出した。


そこはパリから、ニューヨークから、ロンドンから
来てもらってちょうど良いようにするといい。