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かふ菜と 坐禅坊主ハ すわるをよしとす 仙僉 拭‐多真一



美濃師の下では、鉢をロクロで挽いて

黄瀬戸に蕪の線彫りをよく教えてもらった。


「おまんの蕪は葉っぱがこうだ・・・」

「蕪みたことあるのか?」


蕪だけは育てるのに自信があったので、

「先生ホンとの蕪はこうなってますよ」と説明すると


「具象画ではない!」と


蕪はピンと葉を伸ばし、平たくどっしりと構えた姿は

坐禅僧と同じだと仙僂気鵑聾世辰討い襦


そう知れば、自ずと蕪の絵も変わってくるはずだ。

いつかもう一度描いてみたい蕪。

多治見にある虎渓山は禅寺で

雲水姿の禅僧を見かけた。


Kokeizan-teien.jpg


きっとその蕪にも何かの縁があるだろう。


沼尻真一




































花を入れる − 沼尻真一



花と器があり、花を入れる。

生け花と茶花が全く違うのは、そこに哲学や精神性が
あるからて゛あると学ぶ。

これまで農園でも、庭でもたくさんの花を育てる事に
興味はあるが、それを切り入れることに興味がなかったのは、
生け花とか華道が、見た目の美を競うように
ホテルや結婚式場に、これでもかというように、
見てみて感があまりに強くて、自分には退屈でしょうがなかったからだ。

一方茶花というものは、床の間に三具足を仏前に供える香炉・
花瓶けびょう・燭台を置き、仏画を掛ける場所としてとらえれば、
ファッションショー的な要素などまったく
いらないことがわかる。

静かな空間に、いつか自らの器に、
自らの花を育み入れる、それが自分にとっての
真の意義だと思う。
 
 
沼尻真一




IMG_4254.JPG


























名前は銀でも、お婆さん − 沼尻真一


銀ちゃんは柴犬で、14歳のお婆さん。
久しぶりに会っても、ちゃんと分かって
 
尻尾を振って出迎えてくれた。
 
見た目にもだいぶ歳をとったから
 
もう柴犬なのか、白犬なのかわからない。

 
ボケてる時もあるのに今回は
 
分かって良かった。
 
修行をしている時は、こんな間柄では
 
なかったけど、もう戦友のようだ。

「銀ちゃんそりゃないよ。」


































































外側・内側 − 沼尻真一

   
同じ目線にならないと、
見えないものが世の中にはたくさんある。

生活をするために会社に仕えて、サラリーをもらい
業務の指示を忠実に遂行するというのは、
立派な仕事であり、それがサラリーマンである。

自分が生きていくために働くというのは
とっくのとうに過ぎていて、誰かの指示をもらって、
その指示に従うことが仕事だ、生きるだ、充実してる
なんて時代は、自分の中では記憶が喪失した。

しかし、それも当たり前にできなければいけない事で
契約書を作って弁護士と対等に打ち合わせ肉付けする、
または相手方と交渉し契約をまとめる、
あるいは指示を受け、自分の専門知識や技術を提供したり、
つくったりまたは連携して各社に協力してもらうなんざ、
どんな仕事でもあたりまえに、ぺーぺーの社会人として
しっかりとできなくてはいけないことだ。

が、それは全て外の世界に気が行ってることでもある。

つまりは、人の顔色を伺いながら生きることでもある。
だから周りが全て気になりだす。

あいつはこいつは今、何をしてるんだろう。
リアルでもフェイスブックやネットでも気になる。

共感も、仲間意識も生まれるだろうが、
妬み、僻み、コンプレックスも生まれる。


生きるために食うためにサラリーマンをするまでは、
いいが、結局仕事がその人のライフスタイルや
人格や習慣まで決定していく。

ただ、自分が何をするべきか、何のために生まれてきたか
何に命を使うか、やらなければいけないか、
どのような生き様をしなければいけないか、
何のために生まれてきたか
自分の内面を見つけることは一生ない。

自分は人の記事を読んだことがない。
人が何をしていても全ていいと思う。
思う通りに生きればいい。

ただ、同じ修羅場をくぐったり、同じ志
同じステージに上ってなければ、人の生き方を
理解することも、
「あなたは何で、そんなことをしているんですか?」
「あなたは何で、そんな生き方をしているんですか?
なんて聞くこともできないことだけは、肝に銘じておく。

中には、やらなければいけない年代に
すでに20代でもおばさんおじさんになっていて、
通り過ぎて取り返せない生き様もすでにある。

内側に向かっている人間と、
外側に内側が支配されている人間では
理解しあうのは無理がある。
同じ美意識も美の景色も、言語も音ももっていない。

人類平等だなんて小学生標語を信仰する
のではなく、付き合う時間を共有してしまう
人間の仕分けは必要である。

誰もゴミと過ごしたり、共生する必要はない。

口臭や体臭のように、誰も匂いが一番気になるから。












































 
 
 

一客一亭 − 沼尻真一

 

一対一であるからこそ分かる事がある。

潔い生き方をしている人に出会うことができた。

人は誰も群集に餌をやる飼育係でもなければ

狭い檻に閉じ込められて、餌を待つ家畜でもない。


しかし、どんなに銭を払っても実は手に入らないものがある。

一客一亭のもてなしを人生の中で

何回経験できるのかと思う。


どのような事であっても、裏方も手伝いも誰もいない

空間の中で、亭主と客の間に生まれる間合いこそ、

本物の価値のある贅沢だろう。


一客一亭でありたいと思う。



































































「松風隔世塵 」− 無限斎碩叟筆

 



掛物  無限斎碩叟筆 「松風隔世塵」











 





いざ、さらば − 沼尻



軸  玄々斎 「輝雲」

掛け花入 藤原雄作

茶碗 十五代 樂 吉左衞門 「貫道」

茶杓 坐忘斎家元作 「霞」

一客一亭也


ひさかたの 光のどけき 春の日に

しづ心なく 花の散るらむ
 
われ 門に出て 門に入らむ


















「男の条件」曽野綾子×櫻井よしこ

  
櫻井よしこ S
今の男性は鍛え方が全然足りない。
 
中略
 
ハワイ大学に行っていた時に本当にお金がなくて
アメリカ人の家庭に一年ほど住み込みで働いた事があるんです。
クエーカー教の家庭で、本当に粗食でした。
日本風にいうと一汁二菜くらい。お肉もほんのひと切れずつなんですが
その小さなお肉をお父さまがうやうやしく銀のフォークとナイフで
皆にきりわけるのです。家長意識を強く感じました。
 
曽野綾子 A
よくイスラエルに行くんですけど。
ユダヤ教は金曜日はシャパット、安息日なんです。
お父さんが上座に座ってパンを割くんです。
オレが稼いできたパンをお前たちに食わせてやるという感じで。
父というのはこういうものだと思いました。
 
家長は尊敬されてしかるべき存在ですし、
威厳を示していいと思うのですが。
そういうものを否定してきたのが戦後の日本ですし、教育ですよ。
 
中略
 
道楽っていいですよ。さらに酔狂となると、命を賭ける。
「酔」で「狂」ですからね。泉鏡花の「滝の白糸」の舞台を
観たんですけど、水谷八重子さんが水芸専門の女芸人を
演じて、東京帝国大学法学部の貧乏学生を好きになって、
月謝を出してやる。そのお金が原因で殺人を犯すことになって、
女は裁かれるわけね。
 
裁判長が最後に「水芸の女がなんで大金をだしたんだ」と聞くと、
水谷さんがカッコイイ後ろ姿を見せて、「だから言ったじゃありませんか。
私の酔狂だったんですよ」というの。
 
出典:「男の条件」曽野綾子×櫻井よしこ 小学館
 
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曽野さんと櫻井さんの対談だが、
全文はあまりにも的確すぎて現代女性からは
性差別と批判されそうなので一部とどめるが、
この二人の才女の男の見方が女性から、逆に批判される
世の中というのが、現代日本の教育。























椿胤 − 沼尻真一 


椿胤(ちんいん) 




鬼に隠れてしゃがんだ陰で、

真っ赤な血潮を、苔の上に噴出しながら立っていた。

そこで椿という樹に初めて遭った。






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村の鎮守には境内がなかったから
いつも子供たちは、村中の屋敷の庭で
鬼ごっこや缶けり、かくれんぼをして遊んでいた。

どの家も農家だから、大きな庭に無造作にいろんな巨樹が
生えていた。

だから、隠れる場所は決まってそんな大木の陰で、
木に寄り添いながら息を殺して隠れていると、
いつの間にか遠くを気にしていたはずのピントが
自分にもどっていた。

スーッと田の風が透き通って
竹林の葉をざわざわと揺らすと、
なんだか一人おいてけぼりのようで
怖くなって、わざと鬼に捕まるようなことも度々あった。


椿の花からつくった「椿胤」という語は
誰でも子供の頃に経験したそんな意味をこめたい。

沼尻真一




























千利休の花押、けら判 / 沼尻真一

けら判をよく覚えておくとよいと、利休の
本物の花押を見せていただいた。
確かに子供の頃にたまに捕まえては
珍しくて喜んだ、螻蛄(おけら)にも、
伊勢海老にも似ていて
どちらにしても特徴のある花押。
また利休の字はとても穏やかな丸みのある書で、
歴史から感じる利休のイメージとは違った
おおらかなものだった。

本物に触れさせて頂く機会に感謝の一日。
沼尻真一