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JR名古屋高島屋「美濃陶芸庄六賞茶碗展」開催/沼尻真一



今日からJR名古屋高島屋にて「美濃陶芸庄六賞茶碗展」がスタートした。

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初日からお客さんや、関係者、あるいは購入頂いた方の声を

実際に生で聞くことができた事は貴重な体験となった。

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制作意図など様々な質問を頂くことで、改めて自分の考えが

明確に整理できたり、ニーズを聞かせていただくことでしか

見えないものが見えてくるようになった。

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偉大な功績を残して来た先輩の中に、

作品を展示して頂く事で

見えてきたこと、感じたこと。足りないこと。

たくさんの先達の憧れの壁をどうよじ登れるか。

自分なりのやり方で登るしかない。



沼尻真一





















美濃焼熱湯甲子園/美濃焼・美濃桃山陶の歴史は茶の湯の歴史と共に/沼尻真一

 
●美濃桃山陶ブームのはじまりは、唐物茶碗から和物茶碗へ
 
唐物茶碗から和物茶碗へ移る歴史は
唐物の天目茶碗の写しから始まりました。
 
愛知県瀬戸市の瀬戸窯が鎌倉時代後期から室町時代
初期頃に茶陶の生産を始めたのを起点として、
桃山時代には日本でしか生まれない、独自の茶碗が
焼かれるようになります。
 
それが美濃焼の瀬戸黒茶碗、楽茶碗に見られる
天目形を脱した「半筒形」の茶碗でした。
 
和物茶碗最大の特徴となる半筒形がどのように生まれたかは
判然としませんが、16世紀から17世紀初頭にかけてをピークとして
美濃焼の黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部と楽焼という和物茶碗が
盛んに作られ、茶人の間で大いに用いられたのです。
 
それは必ずしも関白秀吉や武将たちの上流階級ばかりでなく、
特別富裕でない一般の町衆たちにも支えられた美意識だったはずです。
 
・武者小路千家 千宗屋氏
 
 
●織田信長と美濃桃山陶

織田信長は 「天下布武」(てんかふぶ)を目指し、
人生のすべてを、戦闘に費やしたといっても過言ではないでしょう。
ひらめきの天才、先取の気性とハイカラ趣味、
そして、独創的で合理的な戦略家というイメージが強く、
その生きざまには「颯爽感」が漂います。
 
織田信長は、1534年(天文3年)に、
「尾張」(現在の愛知県)で生まれました。
23歳の頃から、「美濃」地方の攻略をはじめました。

当時、「美濃を制する者は天下を制する」といわれていたからです。
 
1567年(永禄10年)、34歳になった織田信長は、
稲葉山城の陥落に成功しました。
1576年(天正4年)、信長は、安土城を築きました。
この前後、信長は、千利休、今井宗久、津田宗及らを茶堂として
召しかかえ、しばしば大規模な茶会を催しました。
また、特定の家臣に茶の湯を許可するなどし、茶の湯を政治の一助としました。

1582年(天正10年)、京都で起きた「本能寺の変」で、
信長は自刃しました。享年49歳。 

織田信長が活躍しはじめた頃から、「美濃焼」は、
日本のやきものの歴史に、
燦然(さんぜん)とした光を放ちはじめます。
それらは、「美濃桃山陶」とよばれる、
茶の湯でつかわれる陶器群です。
茶の湯は、客人を招いて交流を楽しむお作法ですが、
食事もしますので、お茶碗だけでなく、
向付(むこうづけ)などの器にも
気を配りました。

上記のように、織田信長は、特定の家臣に茶の湯を許可しました。
茶の湯は、信長により「正式な武家儀礼」となったのです。
その後、「茶の湯」は、ますます隆盛を誇り
人々の、茶碗や茶器への関心もエスカレートしていきます。
信長の家臣のなかには、 戦功として、一国の領地をもらうよりも、
小さな「名物茶入れ」を一つもらうほうがいいと思う人も現れました。
美濃桃山陶が開花したのは、まさにこの時です。
信長の大きな庇護により、美濃地方の窯は活況を呈しはじめます。
 

※土岐市に「五斗蒔街道」とありますが、
五斗蒔(ごとまき)という地名は、このあたりが、
「稲を育てても一反に五斗の米しかとれない」ほどの
やせた土地だったことに由来します。
(参考までに、1反は、約300坪、5斗は、約15キログラムです)
しかし、この街道沿いは、米はとれなくても、
志野に不可欠の「もぐさ土」と、白い釉薬のもとになる長石、
そして、燃料の赤松が豊富にあり、
美濃焼には、最適の場所だったようです。
 

●安土桃山時代−茶の湯は千利休、古田織部、小堀遠州へ

そのころ焼かれた陶器を古瀬戸と区別して、古瀬戸系施釉陶器と呼ばれています。
そして、
天正2年頃瀬戸で陶芸の奥義を極め、織田信長の朱印状を
与えられた加藤与三衛景光が、土岐の久尻に移り住み、
またこの地の土(もぐさ土)が製陶に適することを発見し、
窯を築き陶業を始めたといわれています。
そして天正年間から文禄、慶長、元和(16世紀から17世紀)にかけての
安土桃山時代には、唐物から和物へと改革された茶の湯の世界の
流行とともに芸術性を高め、美濃焼を代表する瀬戸黒(引出黒)、
黄瀬戸、志野、織部が、織田信長の保護のもとに数々の名工や、
千利休や古田織部の指導により美意識の頂点まで登りつめ、
茶人好みの数々の名陶が創り出される旬欄たる時代を迎えました。
その約40年間たらずの期間(西暦1600年をはさんで前後)に
独創的な釉薬の開発と日本独特の茶陶というやきものの世界を創りだしました。
しかし、桃山から江戸時代にかけて他の追従を許さず、
一気に隆盛をきわめた千利休、古田織部好みの美濃の茶陶は、
後を継いだ小堀遠州のわび、さびの提唱により京都の
楽、仁清、乾山のきれいにまとまった遠州好みにその座を譲らざる得なくなりました。


●古田織部−へうげもの誕生!

室町末期から安土桃山時代、天正、文禄、慶長(1573〜1615)の
40〜50年間にかけて、天下一宗匠の位を獲得した、武野紹鴎、
千利休、古田織部の三茶人がおり、
夫々師弟関係にもなっていた。
 なかでも、古田織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(秀忠)の
三英傑のもとで、武人と茶人の道を立派に使い分けながら、自由、奔放、斬新、
独創の精神で茶陶、食器などに限らず、桃山時代の産業文化に大改革を齎した
特異な才能の持ち主であった。

織部は、天文13年(1544)、岐阜県本巣町で生まれた。
ときは室町幕府の末期で、世界は、中世も終焉を迎えようとしていた。
長じて17才の頃、当時左介と呼ばれていた織部は、
元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、
永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共に
その家臣として仕え天下人となった
織田信長のもとへ仕官をする。
進取の気性に富む信長の影響を受けて、
織部39才の時に、本能寺の変で信長が自刃するまで、
その精神形成は信長のもとで培われたといえよう。

室町時代の流行語で「バサラ」(婆娑羅─華美で派手な服装をしたり、
勝手きままな振る舞いをすること)と言う言葉があったが、織田信長は
正にバサラな人物であったと思われる。
織部はその芸術の展開において、バサラが遺憾なく発揮されたといって
よいのではなかろうか。その不均衡な「ゆがみ」「ひずみ」「へうげ」
「アンバランス」といった意外なる美。そして反面「いき」「あそび」といった
これまでの美の概念を変えてしまう。それがバサラである。

博多の豪商で茶人でもあった神谷宗湛が記す「宗湛日記」に、
古田織部の茶会の様子がみられる。客は安芸宰相毛利輝元、
毛利秀包、宗湛の三人。
「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」とあり、新趣向の茶碗が登場した
有名な茶会であった。
 ※ヒズミ候也(大辞林─ひずむ→力が加わったため形が歪む。いびつになる。)
 ※ヘウケモノ也 俳人の言、おどけもの
 (大辞林─剽軽もの→気軽明朗であって滑稽なこと。おどけもの。)

日本の茶の湯は、冷、凍、寂、枯を基本として日本人特有の
審美眼に支えられ、唐物一辺倒を脱却した日本独自の茶道であり、
千利休はこの美学を最も正確に理解し、そのスローガンを基幹に
据えて創造を行い、茶の湯の道を大きく前進させた人である。
然し、それはある意味では頑なな古風な茶の湯だったのである。

そこにこの美学に何とも無頓着な茶好きの天下人が現れた。
豊臣秀吉である。
秀吉の茶好きは有名であり、彼が収集した名物の数の多さと、
催した茶席の数と言い、茶の湯の大衆化、発展の功労者として
空前絶後の武将と言わざるを得ない。
そして千利休に全幅の信頼を置き、一位の宗匠であり、
何事についても相談役でもあった。従って、冷、凍、寂、枯の
美学に忠実な茶人でもあったが、一方では自由気侭に
茶の湯のマニアルに従うことなく、破格を楽しむ茶人でもあった。
又、天下人としての勢力を天下に示す絶好の道具にも使った。

古田織部の茶の湯は、秀吉の茶の湯をバックとした
わけではなかったが、利休の古典的で厳格な茶の湯より
秀吉好みに近かったし、又一般大衆に受け易い、
開放的な茶の湯の道を推し進めるのにそう時間はかからなかった。

天正13年、秀吉が関白に任ぜられ、豊臣の姓が勅許される。
同年、古田左介は、古田織部正(従五位下)山城国西の岡、
3万5千石の大名に列せられることとなった。
天正19年、利休は、秀吉の勘気にふれ、切腹させられる(70才)。
利休亡き後、秀吉のもとで織部は、天下一の宗匠を引き継ぎ、
「織部十作」とも伝えられるクラフトデザイナーをえらび、自由奔放に各地の
陶工に新しい茶器に限らず、やきもの全般を創造させた。
名物でない無名の茶道具が、古田織部のお墨付きを得ると高い評価になった。

これは日本各地の陶工を奮い立たせ、日本文化産業の興隆への
偉大なる貢献と言えよう。
織部は、美濃焼、瀬戸焼、唐津焼、伊賀焼、信楽焼、丹波焼、
備前焼、常滑焼などと連絡をとり、各地の陶工は、織部の作風を
とりいれながら、夫々その独自の作品を創製し、その個性美を
強調していった事が伝世品からも確かめられる。

且つ、それらの作品は、織部の茶席の中でみごとに取り合わされ、
次々と新しい数奇を演出し、数奇者達にも受け入れられ、
そして各陶工の関心を高め、桃山文化の演出者としての
織部の地位は不動のものとなった。
中でも、織部が最も深く交流したのは唐津である。
秀吉は、文禄、慶長の役に当って佐賀鎮西町の地に、朝鮮進攻の拠点とする
名護屋城を築城する。古田織部は、秀吉の本隊に随行する後備衆となった。
唐津は、この地である。

さらに織部は、美濃の窯大将加藤景延をして、唐津焼の窯を研究させる。
景延は、唐津の連房式登り窯を学び、美濃で初めて現在の元屋敷窯跡に
みられる登り窯を築窯する。
その大量生産方式で美濃は他を圧倒する生産地になり、
黄瀬戸、志野で始まった桃山陶器は、美濃黒織部、
美濃唐津織部、美濃伊賀など、茶入、香合、向付、鉢、水滴など織部焼は
完成に近づくのである。

かくして、加藤四郎左衛門景延は、土岐の陶祖(織部)とされ、
織部は唐津から築窯技術を、唐津は織部の新陶芸様式を学び、
互いにギブアンドテイクの交流により共に盛業を齎すのである。
前述の信楽、丹波、備前、常滑も夫々その個性を打ち出すとともに、
古田織部に学ぶところ多く、桃山陶器は特異な一時期を
形成していったのである。

又、当時京都や大坂で大流行し、町人も武士も快楽桃山を
謳歌して着用した「辻ヶ花」染の衣装の文様と織部の文様には、
共通点が多く指摘されている。織部正という役職は、
染織関係の長官でもあったらしく、織部は京都に邸宅を持ち、
京都を中心とした織物、染色関係のデザイナー達と、「織部十作」の
陶画工との間で何等かの助言、資料の提供などの交流が
あったことは推察出来る。「四方蓋物」「扇面蓋物」「手付四方鉢」などと、
「辻ヶ花」染の文様は、同根と思われるものが多い。
・金野善五郎著



■前期の美濃桃山陶

室町時代後期〜安土桃山時代中期
(天正・文禄・慶長)


●瀬戸黒
桃山時代に入り、「わび・さび」の価値観が形成されていく中で、
京都の「黒楽」(くろらく)と、美濃の「瀬戸黒」(せとぐろ)という、
2種類の黒い茶碗が生まれました。ともに、焼成中の窯から引き出し、
急冷させることで、鉄釉を漆黒色に発色させる技法を用います。しかし、
京都の黒楽が、手捻り成形の低火度焼成であるのに対して、美濃の
瀬戸黒は轆轤(ろくろ)成形で高火度焼成という違いがありました。
瀬戸黒は、時代が下るにしたがって、歪みのある織部黒へと移行しました。


●志野
「志野」(しの)は、日本で最初に生まれた白いやきものです。
美濃地方特有の「もぐさ土」と呼ばれる白い土の上に、長石釉を施し、
大窯で焼成します。多くは長石釉の下に「鬼板」(おにいた)と呼ばれる
酸化鉄の顔料で文様が描かれています。志野は、筆によって絵つけされた、
日本で最初のやきものです。その穏やかな風合いに「もっとも日本的なやきもの」
だともいわれます。茶碗、花入、水指など、多くの名品が残されています。


●黄瀬戸
中国伝来の「青磁」(せいじ)は、還元焔(かんげんえん)焼成によってつくられますが、
これが酸化焔(さんかえん)焼成で終わると、灰釉(かいゆう)が青色にならず、
黄色に発色したやきものになります。「黄瀬戸」(きせと)は、
いわば青磁の失敗例から始まりましたが、表面に、菖蒲(しょうぶ)や
菊などの文様を印花したり、「タンパン」と呼ばれる銅緑釉が施されて、
味わい深い独特のやきものに脱皮しました。鉢や向付(むこうづけ)、
香合などが多くつくられました。


■後期 美濃桃山陶

安土桃山時代後期〜江戸時代初期
(慶長・元和・寛永)


 
●織部
「織部」(おりべ)には、いろんな種類がありますが、一般に、
鮮やかな緑色のやきものとして知られているのが「青織部」です。
形状はさまざまですが、部分的に銅緑釉がかけられ、余白には
鉄で文様が描かれています。このように、2種類の釉薬によって
器面を分割する意匠は独特で、桃山時代以降、織部は、
たいへんな人気を博したようです。これを創始した古田織部という人の
デザイン能力と、プロデュース能力には、ただただ驚嘆するばかりです。
青織部には、茶道具のほかに食器類も多く、とくに向付(むこうづけ)の形は
バラエティーに富んでいます。

●織部黒
 「瀬戸黒」(せとぐろ)は、端正な半筒形で、利休好みでしたが、
「織部黒」(おりべぐろ)は、これが伸びやかに展開して、「ひずみ」と
「瓢軽(ひようげ・ひょうきん)」をあわせもつ、織部好みのものとなりました。
歪んだ形を、平安時代の木沓(きぐつ)に例えて「沓茶碗」(くつぢゃわん)とも
呼びます。写真のように、織部黒に似ているのですが、黒釉をかけ分けて間取りし、
余白に黒で文様を描いたものを黒織部(くろおりべ)といって区別します。


江戸時代に入り、慶長年間をすぎると、
それまで指導的立場にあった京都の数寄者(お茶人たち)の
美濃に対する影響力がなくなりました。
美濃の出身でもあり、織田信長亡き後「織部十作」として
美濃の陶工を支援してきた古田織部も、
大坂冬の陣のあと、切腹ということになってしまいました。
また、徳川幕府により、美濃地方は、
小さな天領や旗本領に細分化されて、
有力な保護者がいなくなってしまったのです。

やがて、鍋島藩の磁器や、加賀藩の九谷など、
大きな藩の庇護を得たやきものが発展し、
さらに、仁清(にんせい)や、乾山(けんざん)など、
京都の新しいやきものの隆盛が、追い打ちをかけました。
パトロンを失った美濃焼の窯は、その後、長い期間にわたって
深く土に埋もれてしまうことになります。

いつの間にか、「志野や織部は、瀬戸で焼かれていた」という
間違った考えが広まっていたのです。
1930年(昭和5年)に、荒川豊蔵は、
可児市の大萱牟田洞(おおがやむたぼら)の古窯跡を調査して
伝世の名品と同種の、志野の陶片を発掘しました。
このことにより、桃山時代の志野は、 美濃で作られていた事が
実証されました。


●人間国宝 荒川豊蔵先生により再興した美濃陶

この美濃地方で、明治から昭和にかけて
活躍した陶芸家に、荒川豊蔵先生がいます。
1894年(明治27年)に、岐阜県多治見市に生まれました。
大正時代は、京都で東山窯の工場長としてはたらきました。

魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かした。

・古志野との出会い
1930年(昭和5年)(36歳)4月6日〜10日 - 魯山人が名古屋の松阪屋で
「星岡窯主作陶展」を開催中の4月9日、魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から
名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう。
茶わんの高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする
通説に疑問を持つ。
 
※魯山人は東京での個展よりも、売り上げの多かった
  名古屋の個展での成功を大いに喜んだという。それは売りあげではなく、
  関東の人間にはわからない感覚だと思うが、名古屋は
  尾張100万石として芸事の盛んな場所であり、
  美濃・瀬戸など陶器の産地もあって、目利きが多い。
  陶磁器の目利きの多い名古屋で成功したことが嬉しかったと記している。
 
その2日後、4月11日、多治見に出かけ以前織部の陶片を拾った大平、大萱の
古窯跡を調査したところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、
志野が美濃で焼かれたことを確信する。その他の古窯跡も調査して美濃古窯の
全貌を明らかにし、いつかは志野を自分の手で作ることを決意した。

※荒川豊蔵先生、北大路魯山人と共に、発掘調査を行った人物が
  昭和5年当時、多治見工業高校の高木先生である。
  小山富士夫先生著「徳利と酒盃・漁陶紀行
  高木先生は、発掘した陶片は全て美濃の財産であるという意思のもと
  陶片を私物化することなく、高木先生はその全てを
  多治見工業高校へと寄贈し、現在も多治見工業高校には
  多くの美濃桃山陶の重要な陶片が保管されている。

  ちなみに多治見工業高校は明治31年に、岐阜県陶磁器講習所として開設され
  明治33年(1900年)土岐郡立 陶器学校と改称
  創立114年を迎える歴史と伝統を誇る工業高校であり、
  卒業生は2万有余人を数え地元陶磁器産業をはじめ
  東海の企業多くの産業人を輩出しています。
  また、県下で唯一の専攻科陶磁科学芸術科を有する県立学校でもあり、
  人間国宝や文化功労者をはじめとする陶芸家等の著名な方々を
  輩出各界で有為な人材として活躍されています。

1932年(昭和7年)に、現在の岐阜県可児市に築窯し、
精力的に作陶をはじめました。
そして、1955年(昭和30年)に、
重要無形文化財の「志野」と「瀬戸黒」の
2つの保持者(人間国宝)に認定されました。
1971年(昭和46年)に、文化勲章を受章し、
1985年(昭和60年)に没しました。
現代の美濃陶の礎を築かれました。
 
 
・白州正子著「真贋のあいだ」
「…仕事場は蒲鉾兵舎を移したもので、まるで科学の研究所みたいだった。
魯山人や荒川豊蔵の工房を見慣れた私には意外でした。…あの人は、
役者で、窯出しした茶碗を叩き壊したり、演技なのか自然なのか、
テレビに出ても実にうまい。…『永仁の壺』なんか作っちゃうから
無冠のままだったけど、
かえって野人で良かったとおもいます。事件の起こる前、美濃の
白山神社に行って鎌倉時代作の『本歌』の方も私は見てましたが、
こりゃあ間違えてもしょうがないというようなものでした。
『本歌』と変わりないほどよくできているから。瀬戸ではみんな敵視してたけど、
ちょっと見方が狭いわね。いいものはいいと認めなきゃ。
やきものには人間が出る。魂があるっていうのね。
そういうものがないとやきものでないのよ。…唐九郎さんは本物の職人だった。
自分は作家だ、芸術家だと思ってやっている人はダメ。
唐九郎さんは芸術家だったけど、自分の心構えとしては職人なんです。…」


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戦国時代という切実な時代に、同時に茶の湯も
隆盛を極めるとは、どこか互いに繋がった要素が
あったのだろうと思う。
 
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国大名に
仕え、千利休の弟子でもあった美濃出身の
古田織部の存在は美濃陶においてとても重要な
意味を持っている。
 
織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、
利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、
それを一つの流派に育て上げた。
「織部十作」を組織し、美濃の陶工を支援し
和物の名茶碗を輩出していることや、
職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、
自らはいわば茶の湯のコーディネイター
として指導にあたった。
 
武士であり大名でありながら、千利休の弟子から
利休亡き後は、筆頭茶頭として時の権力者に
従事している事など。
 
千利休や古田織部などが作った数寄が、
500年後の今も、日本人のどこかいいなとか、
美しいと感じるポイントに影響していると思う。
 
侘び寂びや綺麗寂びと言われるが、
そこの解釈はさておき、
現代の美濃陶はもちろん、日本の陶芸、プロダクトデザイン、
建築すべてに影響している原点だと思う。
 
とにかく美しいものを作るということは、
ももちろん大切だが、
作った美しいもので、何をしたいのか。
 
それを見た人や買った人がどう使い、
どうなって行ってほしいのか?
 
ものを作ることと同時に、
それを考えて行く事が重要だと思う。
 
それは何のために作っているのか?という事だろうし、
一体自分は何者でどんなミッション(ささやかでも・
切実なる個人的事情)が
あるのか知るということなのだろうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

白い器・粉引の器/沼尻真一

 
 
1392年から始まり、1910年に終るという長大な朝鮮王朝の歴史のなかで、
陶磁の生産がどのように展開し、盛衰していったかを明晰に跡づけて行くことは、
今日の資料では不十分なところがあり、朝鮮時代の陶磁の歴史は、
まだその全貌をあらわすに至っていない。
 
しかし、この500年ほどの長大な期間を鳥瞰するとき、
始めは幾つもの流れ(粉青・白磁・白磁象嵌・青花・黒釉・灰釉・泥釉など)が
ある中で、二つの流れ(粉青と白磁)が突出していることが判り、
途中からその流れのうちの一つ(粉青)が途絶えを見せる。
 
残る一つ(白磁)が最後までいくつかの支流(青花・鉄砂・辰砂)を
ともないながら滔滔と流れ続いているさまが、うかがえるのである。

朝鮮時代の前期を代表するのは、粉青である。

1940年、韓国の美術史家、高裕燮氏によって名づけられた
「粉粧灰青砂器」の略称であり、今日、欧米でも
 buncheong(粉青)として慣用化されている。

日本では、俗に三島と総称し、時に三島と刷毛目とに分ける場合もある。
鉄分を含む灰鼠色の胎土で成形し、青磁釉に似た釉薬をかけて高火度で
焼成している点で、高麗青磁の技法をそのまま伝承したものである。
 
事実、象嵌文様をあらわしたものについては、高麗の象嵌青磁との区別を
つけることは困難であり、今後の研究調査によって、
その編年を改めなければならない可能性もある。
 
粉青の大部分は、ただ一点、釉下に白泥による化粧がけをほどこし、
そこにさまざまな手法で文様をあらわすことによって、
高麗青磁と一線を劃している。
 
それにともなって、文様もまた、まったく新しい朝鮮的な
意匠に変貌を遂げているのである。
粉青は、その施文方法によって、次のように分類できる。

  1.象嵌(線象嵌・面象嵌・逆象嵌)
  2.印花
  3.白地(刷毛目・掻落・線刻・鉄絵)
  4.粉引

15世紀前半には、司院という官司が陶磁の生産を受け持って居り、
その傘下に、磁器所が139箇所、陶器所が185箇所、合計324箇所の
生産組織があったことが『世宗実録地理志』によってうかがえる。
磁器所と陶器所でそれぞれどのような種類の陶磁を生産していたかについては、
現在諸説があり、はっきりしない。しかし白磁が磁器所の一部で
生産されていたことだけは、間違いないことと思われる。

とくに15世紀の白磁は、中国の白磁の技術を取り入れて
純白の輝くような白磁を作りあげた。
それらは、宮中用、あるいは中国への進貢用に製作されたもので、
『慵斎叢話』という15世紀後半ごろの随筆集にも、「世宗朝(1419?1450)の
御器は、もっぱら白磁を用う」との記述がある。
これら上質の白磁は、139箇所の磁器所のうち、京畿道の広州と慶尚道の
尚州および高霊の3箇所に限られていたが、やがて精良な白磁胎土の
不足を来たし、15世紀の後半には、白磁の民間使用が禁止されるまでに至った。
 
また、15世紀中ごろから、白磁の釉下に文様を描く青花磁器、
すなわち染付が、広州官窯の一つ、広州郡中部面道馬里などで製作された。
これらの絵付けには、都から画院の画家が派遣されて筆を取ったことが
記録として残っており、それを裏付けるように見事な筆致で梅・竹・松などを描いて
清新の気を漲らせたものが多い。
しかし、いずれも宮中の御用品であり、民間に行きわたるほど
量産されたものではなかった。

16世紀の陶磁生産の状況は、現在まだ十分には判っておらず、
今後さらに詳しい資料が待たれるところである。

1592年、1597年の壬辰の乱、丁酉の乱から1627年、1636年の
丁卯・丙子の乱までのほぼ40年間は、朝鮮時代の歴史のなかでも、
政治・経済・社会・文化など
あらゆる面で停滞を見せた暗黒時代であり、陶磁生産についても
大きな断層を生じた時期である。この時期の前後では、
陶磁の様相が一変してしまうのである。その最大の現象は、
前期に盛んに生産された粉青の消滅である。



そして、この時期以後、白磁が主流を占めることになる。
各地で白磁の窯が興り、粗製の白磁が生産される一方、
官窯は京畿道広州地方に集約されることとなった。
そこでは前期と異なった器形・釉調・文様の白磁と青花がつくりだされた。
とくに青花は、その抑制された寡黙で質実な表現により、
中国陶磁の影響を完全に離れた朝鮮時代独自の美の世界を打ち立てた。
近年、韓国国立中央博物館の鄭良謨氏、尹龍二氏の綿密な調査研究により、
17世紀前半から18世紀に至る広州官窯の実態が明らかにされつつあり、
朝鮮時代中期の陶磁の解明に大きく貢献している。
 
17世紀にはまた、広州や忠清北道槐山などで、釉下に鉄絵具で文様を
あらわす鉄砂がさかんになり、18世紀に入ると、銅分を含む顔料で
文様をあらわす辰砂が作られたが、辰砂の生産地はいまだに不明である。

1752年、官窯は、京畿道広州郡南終面金沙里から分院里に移設された。
この年以降、1883年に分院里窯が官窯から民窯に移管されるまでを、
朝鮮時代後期と区分している。
分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。
それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、
英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。
とくに、中国からのコバルト顔料の輸入が潤沢になったため、
青花の製作が盛んになったことは注目される。
 
陶磁の用途も、酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・
はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。
文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。
鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、
陶磁器の工芸品化が進められた。
19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって
国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、
500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。

出典:大阪市立東洋陶磁美術館


粉引(こひき)とは、李氏朝鮮から日本に伝わった陶器のことで
粉吹(こふき)とも呼ばれています。

正確には粉青沙器(ふんせいさき)と呼ばれ、韓国などで
鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、
全体的に灰青色を帯びた陶磁器のことであり、
粉粧灰青沙器の中の一つの技法が粉引きです。

  a.. 粉青砂器象嵌文(粉青象嵌)
  b.. 粉青砂器印花文(粉青印花)
  c.. 粉青砂器彫花文(粉青線刻)
  d.. 粉青砂器剥地文(粉青掻落)
  e.. 粉青砂器鉄文(粉青鉄絵)
  f.. 粉青沙器刷毛目(刷毛目)
  g.. 粉青沙器粉引(粉引)

「粉青沙器」とは「粉粧灰青砂器(ふんしょうかいせいさき)」の略称で
日本では古来、「三島」と呼んでいます。その釉胎は末期の
高麗青磁と変わりませんが、地の上に白泥によって様々な
技法による装飾が施され自由闊達な装飾がひとつの特色となっています。

粉青沙器の成立当初は白磁や青花などの代用技法として、
その性格を強く持っていましたが15世紀前半には象嵌青磁の
後ろをなす粉青沙器は朝鮮時代の陶磁の主流となり、
15世紀後半頃からは白磁とともに発展をとげました。
象嵌・印花・掻き落し粉青が流行し端正な様式が展開しました。

15世紀後半に官窯での白磁・青花の本格的な生産が開始すると
印花は徐々に刷毛(はけ)に、掻き落しは線刻に変わり自由闊達な
雰囲気の様式に転じていきます15世紀後半から16世紀前半には、
鉄絵技法が登場しさらにのびのびとして諧謔的な様式がみられます。

16世紀には、粉引(こひき)粉青が民需用の白磁の代用品として
流行しますが、独特の力強い造形をみせます。

 このようにユニークな展開をみせる粉青ですが16世紀以後の
白磁の生産の本格化とともに末頃には衰退し消滅しました。
白磁は、朝鮮時代の陶磁の主流として文化の成熟と共に
発展をとげ白色の世界を開花させていきました。

編年資料によれば1480年代を前後して粉青沙器中心から
白磁に変わっていくと見られます粉青沙器では象嵌粉青・
印花粉青から1480年以後に鉄絵粉青(鶏龍山)・
線刻(彫花)粉青・刷毛粉青(刷毛目)にその主流が変わっていきます。

象嵌・印花粉青が胎土・釉薬が精製されているのに比べ鉄絵・刷毛粉青では
胎土に夾雑物が多く混じり釉薬もやはり粗めです。

1963年に全羅南道光州市忠孝洞(チュニョドン)窯址の物原調査が行われ、
この調査によって、層位順に印花粉青から刷毛粉青へ、
さらに白磁に変わっていく様相が確認されました。

この窯出土の印花粉青は末期には夾雑物が混じり
気孔の多い陶器質となっていくことが分かりました。
胎土は刷毛粉青と同一で印花粉青の末期に登場する刷毛粉青は
鉢・皿などがすべて末期の印花粉青の器形や高台の形態に倣うものでした。

また、ほとんどの印花粉青には銘文が刻まれていますが、
刷毛粉青には銘文が全く見られないということから刷毛粉青が
一般庶民の物であったことがわかります。

  a.. 14世紀末ころ、衰退しはじめた高麗青磁を母体に製造が始まる。
  b.. 白磁に似た表面のため白磁の生産に移行する中で、吸収され衰退した。
  c.. 日本では、三島手、刷毛目などの形で存続した。

白磁は今のソウルに近い中央の官窯で主に造られたのに対し、
粉青沙器は、中央から比較的離れた地方官窯で、
あるいは民窯でその地方の特色を生かして自由に造られた。
このことが紋様などに大きく影響しているとされている。

その由来は褐色の素地の上に白化粧土を施した状態が
「粉を引いた(吹いた)ように白い」事からです。

李氏朝鮮当時、王が用いる白い磁器に対しての
憧憬から粉引という技法は生まれました。

わが国では,古くから化粧土には白絵土が良いと
いわれ,陶家では珍重してきました。

白絵土は美濃焼きの故郷である、岐阜県東部及び滋賀県から産出し,
蛙目ガイロメ粘土や木節キブシ粘土に属するカオリンの一種であり,
粘りの少ない白色の粘土で,層状になっています。

自分はすべてそのルーツや成り立ちと自分との関係性において
生まれてくる解釈こそが、その作家の個性でありオリジナル
になってくると思います。

自分はすべて自然な関係性から物事は自然派生するものだと
思っています、つまりは人や材料や伝記などとの縁です。
縁を偶然と考えれば、いくらでも刹那になります。
しかし縁はある運命のような導きになっていると自分は考えます。

自分がなぜ粉引の作品に取り組むのかは
すべて美濃との故人や生人との縁から生まれたものなのです。

李朝から伝わった粉引ですが、それは日本人の見立ての中で
洗練昇華され、まったく別の粉引、唐物から国物として成長しています。

だから国物として派生してきた粉引のルーツが現代に生きる
自分には必要だと考えています。

その時代や空気を生涯写しきれないように、
完璧な李朝の写しが必要ではなく、
自分の歴史観の理解やその陶磁器の精神性の読解から
生まれたものが、自分の作品だと考えています。
 
ストーリーや背景や歴史というと憧れから、センチメンタルな
安っぽい茶の見立て、例えば、雨漏りがしてるとか、御本など
は縁がないものです。
 
雨漏りは意図したものではなく、それはやはり結果に過ぎないのです。
 
雨漏りを珍重するのではなく、雨漏りするまで大切に使い込んだ
使い手を珍重するべきなのです。



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白化粧と粉引というやきものはまったく別なものだと思います。
つまり化粧土をかければすべて粉引なるということではないと
自分は考えています。

白い化粧の問題ではなく、土、白化粧、釉、焼きまで含めて
白化粧の器をつくるのか、粉引をつくるのかでは方向が違うと思います。
 
だから化粧をかけて白く焼けたから粉引きだ、粉引きだというのも
憚られることでありますでしょうし、作家がそう言ったからと言っても
ギャラリー側もそれをそのまま鵜呑みにして、
これは粉引きです。というのは違うだろうと思います。
 
あるギャラリーのオーナーが以前は粉引きブームだったんですよ
と言っていましたが、それもどうかと僕はそれを懐疑的に受け止めました。
 
そのお店の7割はまったくやきものの種類が分からなくても
買う人だそうです。売れることは嬉しいことですが、
やきものの種類を分かって使ってもらう事の意味は
深いと思うので、真剣に作家を支援し、陶器を販売している
ギャラリーでさえも、これでは本当に残念だと感じました。
 
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粉引きイメージ2012のコピー3.jpg


今回、僕は粉引の花器を
MINO CERAMICS NOW2012で出品させて頂いたのですが、
各出品者がどのような事を考えて制作をしているかというのが、
視聴者に伝わらないのは、もちろん自分の力が及んでいないことも
認めながらも、陶芸展の伝統だと思いますが、もったいないように感じます。
 
しかし、世界を代表する日本の陶芸が以前よりも盛り上がっているように
思えないところを見ると、以前と同じ方法でただ飾るだけではなく、
どうして、なぜこれを作ったのかというコミュニケーションは
現代で必要なのだろうと僕は思います。
 
一人ひとりの作家が自分の作品を解説してくれれば一番いいですが、
一人ひとりの作家に、一人ひとりの学芸員が解説を施すという
方法が、時間と費用に余裕があれば、されるのが理想でしょうから
もともとグラフィックデザイナーだから僕は考えるのかもしれませんが、
自分がなぜ作ったのか、どんな事を考えて作っているのかを
紹介できる機会が増えてくると、もっと視聴者とのコミュニケーションが
上がって、陶芸界も盛り上がってくるのではないだろうかと感じます。
 
静か過ぎても、うるさ過ぎてもいけないでしょうが。
 
 
 
自分は以下のように考え「粉引」を作っています。

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白と黒。


相反する生土どうしが走り、白装束の中に生まれるインヴァージョン。


等伯しかり、古来日本人が見えないものを現すという見立ての中に


現代のエーテル空間が生まれる粉引を自分は求めたいと思います。
 




 

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以前七代 加藤幸兵衛先生に言われたとおり、土が決まれば
形が決まると言われた通りです。
 
これは自分もお世話になった方に指導して頂いた事ですが、
粉引きは、一、焼き、二、土 三、化粧 四、釉薬 だと思います。
 
内部の土の力を最大限に引き出すためには
やはり還元焼成です。
しかし、良い土、力の強い土を使えば、使うほどに、
白化粧を食いまくる、だから、還元ではなく、酸化焼成すれば、
それでは修行途中で逃げてきた修験者の汚れの付いていない
生ぬるい白装束のようでどうしても、それは逃げにしか感じない。
 
だから、強い土を還元で焼いて、白く焼き上げるという
相反するやきものが、僕にとっての粉引きだと考えます。
 
だから今年、美濃陶芸展で一緒に中日奨励賞を受賞され
毎年そして2012年の今年も、日本伝統工芸展で
入選されている堀和蔵先生が、沼尻君これ還元で焼いてるの?
という質問されてきた意味が実に「粉引」がどういうものかを知っている
決着をつける一点質問なので、
自分はさすが、堀先生だと思ったと同時に、
この質問はその背景をすべて知っているプロの質問として嬉しく思いました。


神や仏を信仰できる素直な純白の精神と
白いやきものが古今の憧れであるように、
白の器には作り手の思想や
生き様や美意識が反映されるものだと思います。


沼尻真一


























 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 

施釉陶器の歴史 − 沼尻真一


施釉陶器の歴史


瀬戸・美濃は中世窯業における中心地の一つであり、
中世で唯一、施釉陶器を生産した窯として特筆される。
瀬戸における陶器生産の始まりについては、
猿投窯や山茶碗窯を基礎にして12世紀に確立したと考えられている。

瀬戸ではそれまでの灰釉に加え、鉄釉や褐釉を用い、
印花文・劃花文・貼花文などの装飾技法を駆使しながら、
北宋から元・明にかけての青磁(龍泉窯系)と白磁・青白磁(景徳鎮窯系)を
中心とした中国陶磁の写しを盛んに行った。

瀬戸窯の製品は、日常生活用具から仏器まで多彩であり、
四耳壺・瓶子・水注などの

高級器皿も13世紀以降焼かれ、
輸入中国陶磁とともに富裕階級の需要に応えた。

また、鎌倉時代後期から室町時代にかけての「茶の湯」の勃興と
その唐物趣味を背景に、

14世紀からは中国陶磁写しの天目茶碗や茶入などの茶陶も
つくられるようになった。

15世紀になると、瀬戸系施釉陶器の生産の中心は岐阜県の
東美濃に移った。
 
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やきもの好きな人でも分かりづらい部分に釉薬がある。

九谷、有田、唐津、備前、常滑などなど日本の窯業産地を歩いてみると
美濃がいかに「釉薬」が発達している場所なのかという事を実感する。

それは上記の通り、美濃が中世で唯一の施釉陶器を生産した地で
あったという歴史的背景が理由である。

現代では、日本中どこにいても、どこの土でも釉薬でも
市販のものは手に入れられる時代だから、
今や笠間に行っても黄瀬戸があったりして、どこの産地にいっても
施釉陶磁器が売っているので、どこが特別な場所なのかなんて
分かりにくいのは当然だと思う。

しかし、瀬戸や美濃は本当によく釉薬研究が進んでいる場所なのである。
それは日本一の釉薬の知識を持った指導者がちゃんといる点からも
それがこの美濃の陶磁器の歴史そのものなのだと思う。

どこの産地にいっても、織部、黄瀬戸、志野、瀬戸黒など
4つも代表的な陶磁器を持っている産地なんて
確かに日本中どこにもない。

それが上絵ではなく、釉薬をコントロールして産み出すという
難易度に挑んできた歴史がすばらしい。
故に、薪窯から重油、灯油、ガス、電気、マイクロ波窯と
美濃には全ての窯があるのだ。
薪から灰被りだけが目的ではなく、
あくまで自分の作りたいイメージをどの手段で、つまりどの窯を
操作して、釉薬を完全にコントロールしてそこにたどり着くのかを
良しとしていると思う。

だから作品としての結果が全てであり、
なんでもかんでも灰被りの薪窯がいいんだ、なんて
考えていないのが美濃焼きルネッサンスなんだろう。
 



産地のルーツに根ざした表現があるやきものだからこそ、
窯元めぐりや産地めぐりをしてくれるファンがいるのだから
その産地だからこその表現がなくてはならないのだと思う。
 
自分が使っていたお茶碗の記憶は誰にでもあると思うが、
中学生になったら祖父が石川県に出張に行った際に
お土産で買ってきた九谷焼きの茶碗がいきなり
自分の茶碗になった。

それまでは笠間や益子あたりの地味で素朴な自分の茶碗が、
一気に絢爛豪華な茶碗になった。
 
いったいこんな豪華な茶碗をつくるような石川県という
場所はどんな所なのだろうと、中学生の頃から
思いを馳せていた。
 
芸事を重んじた、加賀百万石の城下町に、
九谷焼きの雅な上絵が生まれるにふさわしい雰囲気が
石川金沢にはちゃんとある。











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ここが朔望の畔ー大阪法善寺横町・懐石料理「本湖月」ご主人穴見秀生氏/沼尻真一

 


加藤三英先生の大阪高島屋の個展をお祝いで
本湖月のご主人・料理人の穴見秀生さんを伺った。

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■北大路魯山人の一閑張日月椀(いっかんばりじつげつわん)十客


魯山人の一閑張日月椀で食す。

穴見さんが修行時代から憧れ、いつかこの一閑張日月椀に
自分の料理を盛ってみたいという思いを実現させることができた時に、
夢は必ず叶うという実感を得たと話された。

その椀は不思議な椀で、生地の表面に和紙を貼り漆を塗る技法である
一閑張のせいだろう、金の太陽と銀の月に立体感のあるマチエールが
生まれ、そっと触ってつるっとした生地とざらっとした和紙の感触が
指に伝わってくるが和紙ではない。
金属であるが、金属ではない。
儚いが儚くない。
太陽と月、朔望の姿が確かにここにある。
使ってみなければ分からないとはこういう事だと知ると同時に
この器を惜しみなく料理に用いることができる、穴見さんは
料理を超えて舞台にできる料理人である。


※北大路魯山人の一閑張日月椀
北大路魯山人は自らのイメージが完成するまで決して妥協は許さなかった。
それは日本古来の伝統を踏まえつつ
全く新たな美を作り出さんとする大胆な挑戦であった。
そのひとつ金の太陽と銀の月を用いた日月椀は
試行錯誤の末ようやく完成させた傑作である。
これらの器は大正14年に魯山人が開いた
会員制美食倶楽部星岡茶寮(ほしがおかさりょう)の膳を飾るのに用いられた。


■よい器とは「時知らずの器」
 
9月19日から伊賀の土楽窯の陶芸家福森雅武さんの個展が
 京都高島屋で開催される事を教えていただいた。


今回は震災復興を願っての意味から、茶陶を制作されているという。
古くは白州正子さん、そして今では糸井重里さんとの陶器を
通じての交流など、その陶歴は誰もが知っている。

細川護煕さんのご子息で陶芸家の細川護光さんも
福森雅武さんの弟子で郷里熊本南阿蘇で作陶されている。

穴見さんが日ごろ使っているその福森さんの陶製の
高台盆を持って来られて
一気に出刃で氷を削り盛り付け、そして掛け花入れから
一輪の花を添えてくれた。

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焼き締めの器にはどっぷり30分も水に漬け込んでやれば
水を吸って見る見る瑞々しいまったく違う表情を見せるんですよ。

こうして氷が溶けていくでしょ、その水を吸いながらまったく
別の表情をこの焼き締めの器というのは作っていくんです。

まさにこうした焼き締めの器は大地、地球そのものなんですよ
夏らしく、冬らしく、まさに「時知らず」の器とはこういう大らかさが
あるもんですよ。

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■美濃が美濃を食す

加藤三英先生のお祝いでもあり、穴見さんのはからいで
その師匠である人間国宝の加藤孝造先生の志野長皿に
旬の鱧を盛ってご馳走してくれた。

この皿をみてください。
 
本来皿というのは真ん中が低く四方が高くなっているもんです。しかしこの
皿は真ん中がぽっこり盛り上がっている。
僕はここに鮎を盛るんです。

そしたら何と鮎が踊りだすんですよ!この器はすごい。
 
器が料理人に挑戦してくる、だったら俺はこう活かして
こう盛ってやろうと思うんですよ。
 
食器というのは作家の気概がそのままこっちに伝わってくるもんなんです。
普通じゃ面白くない。どこかに見立てる面白さもあります。



■日本の伝統工芸を生かす室礼


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・お軸は狩野探幽、花器は朝鮮唐津と見たが違って萩焼だった。
 月といえば酒井抱一の「秋草図屏風」もよい


穴見さんは20代の4年間をフランスで料理人として
 修行し、外から日本を見ることで
 一年目から、料理の技術、素材の活かし方、空間の室礼
 食器の取り合わせなど、やはり日本料理が自分の中の至高であると
 感じたという。



日本の伝統的な工芸を依頼する人が少なくなってきて、
このままだとその技術や伝統を受け継ぐ人が
いなくなってしまうんですよ。
日本人は欧米の事には本当に詳しくなりました。
しかし日本の事は知らなくなってしまった。


今まで自分もいくつかの店づくりを手伝ってきたので
穴見さんに一階から三階のお店全体の建築と室礼を
見せていただいた。

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・先日若尾誠さんに青磁を教えて頂いたので、南宋龍泉窯か
南宋官窯、約1000年前のものだろう。
穴見さんの所には正統派な美術品が多いので
安心して見る事ができる。


自分はさっそく一階から二階へ向かう、走りの所の
壁の墨漆喰の磨きに眼が釘付けとなった。

入洛壁で着物裾が汚れないようにとの配慮から
この墨漆喰の磨きとなったそうだが、
以前視察したことのある、愛媛県大洲市臥龍山荘でも
見事な墨漆喰を見たことがあるが、その磨きとなると
もはやイタリア漆喰の磨きと同様で、和と洋に境が無い。


・一階クローゼット裏貼りの唐長

・階段内 隠し朔望

・一階 檜カウンター
     欄間 湖月
    
・二階 唐紙の桜染め、アケビ染め

・二階 藺草貼り真塗り座卓

・三階 木割り天井




■日々の中の美しさを求めていく事

日々日常で使うものに良いものを使うと言うことは
意識がまったく変わる上でとても大切なことです。

例えば、働く料理人のまかないの食器でも
うちではすべて作家ものや、店で使う食器同等のものを
料理人たち専用の器として使わせています。

どうでもいい器で食べれば、どんなにいい料理も
餌になってしまうんです。
器も大切に扱わないからそれは餌箱になるんです。
人間の性なんてそんなもんなんです。

日々使うものを大切なものに変えて行く事は
己の感性を養う上でとても大切なことなんです。
それは一人ひとりが暮らしの中でできることだと思います。
日々使うものほど愛着の湧くような
大切なものを使うように心がけることは
とても大切な事です。

自分が大切にできる器を使うことは
結局自分を大切にできることであり、
自分をもてなすことであるということなのだろう。

自分をもてなすことができない人間が
周りをもてなすことができないように、
それは行為ではなく精神 心 人格のようなものに
なり人が生まれたまま何の努力もしないで
元からある皮や脳や心臓 五臓六腑でそのまま素で
生きていてもそれは獣同様であり

その元からある五臓六腑 骨、臓器+人格という
三要素で初めて獣から人間へと成り立つ事を、
一番原始的で本能的な欲求である「食」 で獣のままか
人間になっているのかを判断できる。
「おおかみこどもの雨と雪」

高級食材を食べる事や、高級レストランで食事を
何回することではなく、自ら選び、自ら手をかけて、
あるいは同じ人間としての思考基準で 


・食事 = 胃が満足する = 獣 、獣の餌 × ではなく

・食事 = 心 感性が満足する = 人間枠 ◎

という工夫が
人間になれるか、生まれたままの獣で終わるかの
差別化には必要なのだと気づかされる。



■雪月花

書家であり陶芸家の大家 小林東五さんの器も
お使い頂いた。

それは粉引きを制作する、三英先生や僕への杉浦君の
配慮もあったのだろう。

三英先生は花、僕は月だった。

本湖月は穴見秀生さんの美意識の集大成であり総合芸術である。

新進の作家や白州さんと交流のあった
京都 加藤静允先生の古染付け、小林東五先生
北大路魯山人大家の器もすべてそこには華があった。
制作者のこだわりというよりも、一言に華としか
表現しようがない、つまり食器とは隠れた華なのだろう。

いつも変わらぬ穏やかな表情で、長身を少し持てあまし気味に、
ズボンに下駄をつっ かけて、お宅から工房への道のりを飄々と
歩いて行かれる姿は、とてもお医者様のよう には見えない。
でもやっぱりお医者様なのである。(白洲正子「春夏秋冬 加藤静允」 より)


穴見さんが自宅の庭で育てている蓮を見せてくれた。
花のある暮らしの日々の延長に本湖月がある

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                  こ
                  こ
                  が
                  朔
                  望
                  の
                  畔

                  本
                  湖
                  月

                     沼
                     尻
                     真

                     一







 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi




・碧巌録 第四十則 南泉一株花 「無なんてどこにもない」/沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



青磁求道者の守破離 − 陶芸 若尾誠先生 粉青瓷 /陶棲 沼尻真一

 
 
日本における青磁への取り組みは、第二次大戦後にはじまった。
北宋汝窯の青瓷、南宋官窯の青瓷、南宋龍泉窯の青瓷と
指標はさまざまだが、特にその表現が難しく
究極の青瓷と言われるのが、皇帝のためにつくられた
南宋官窯青瓷、修内司、郊檀下の官窯と言われている。


宮内庁所蔵 若尾誠先生 粉青瓷

特に1950年代以降に宋代の青瓷に挑みながら、
独自の青瓷をつくったのは、加藤唐九郎氏の長男
岡部嶺男氏であることはやきものの世界では有名だ。
中国で粉青と呼ばれる青瓷釉を再現し「嶺男青瓷」とまで
よばれる独自の青瓷の世界を展開した。
 
若尾誠先生は美濃焼きの代々の窯元の家に生まれ、
身近な環境で「嶺男青瓷」を見たことで
青瓷の研究制作に取り組まれるきっかけになったとお聞きした。
若尾利貞先生に師事した後は
中国の南宋官窯、龍泉窯の視察
台湾故宮博物院視察などを経て
現在の若尾先生独自の粉青瓷が完成している。






青瓷はなにより釉層が厚いという事を知っていたが
若尾先生に、ロクロ引きし成形した素地から
釉薬が掛かり焼成後の重さを比較させてもらったが
驚くほどの重さの違いが出る。




つまり、いかに素地を薄くつくり釉薬掛けに持って
行くのかが大事なポイントである。
それと同時に、釉層のコントロールも
素地が薄ければ、一度に大量に付着しないため
釉薬を重ねがけする難しさも教えてくれた。
 
また釉層が厚ければ、それだけ
釉薬の流れのコントロールが難しくなる。
特に、若尾誠先生の粉青瓷は赤土で作られているために
難易度はさらにあがる。
それは赤土は耐火性が低いこと、つまり焼成のゆがみが
出やすいこと、そして赤土が釉薬と反応することで
白系の土よりも釉薬の融点が下がる傾向にあること。




自分も粉引をしているので、先生ほどではないが
赤土の難しさをわずかながら体験している。
 
不純物を多く含んだ赤土は、鉄粉や様々な金属やガスが
焼成中あるいは釉薬の上に飛び出してくることで
ピンホール、釉のげ、釉めくれなど
ありとあらゆる問題が焼成とともに噴出してくる。
それをいかに焼成前に計算しつくっていかなければ
ならないかを説明していただいた。

青瓷はつまり、釉層、素地の成形など
焼成前の段階の計算されたコントロールが大方の
鍵をにぎっているといえる。
特にこのような中国陶を指標とするやきものの中でも
薄くしなやかな破綻のない精度が求められる
青瓷は、完品をつくるのが本当に難しいと思う。
 
若尾先生も言っていたが、一つ一つの作品を管理しながら
進めなくてはいけないので、一度に大量に作ることは
まずできないこと、一窯焼いてもそれが全て駄目になることもあるという。
これを磁器土で行えば
赤土の問題の多くがクリアされるが、
それでは色の深みや柔らかさ、そして何よりエッジの黒くしまった
優雅なラインがなくなってしまう。
故に若尾先生は赤土の土づくりから、制作が始まっていた。




約800年前の官窯青瓷の陶片を先生に見せていただいた。
茶碗ぐらいの大きさのものだろうが、素地は1mmぐらいしか
ない、まさに紙のような青瓷だった。
そして素地1mmに対して釉薬が3mmも4mmもある。



・約800年前の南宋官窯の青瓷陶片


また別の青瓷は口縁部分の丸みを
素地を直角にして置くことで、その上に釉薬をのせ
釉薬の厚みによって丸くつくられていた。




若尾誠先生のように陶のルーツを求め行動し、
自分のオリジナルの造形を作られていく
守破離とは青瓷を志す者にとっての定石なのだろう。









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茶道 武者小路千家 千宗屋氏と美濃焼へうげもの茶碗/茶道・現代アート・茶碗 − 沼尻真一

 
唐物茶碗から和物茶碗へ移る歴史は
唐物の天目茶碗の写しから始まりました。
 
愛知県瀬戸市の瀬戸窯が鎌倉時代後期から室町時代
初期頃に茶陶の生産を始めたのを起点として、
桃山時代には日本でしか生まれない、独自の茶碗が
焼かれるようになります。
 
それが美濃焼の瀬戸黒茶碗、楽茶碗に見られる
天目形を脱した「半筒形」の茶碗でした。
 
和物茶碗最大の特徴となる半筒形がどのように生まれたかは
判然としませんが、16世紀から17世紀初頭にかけてをピークとして
美濃焼の黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部と楽焼という和物茶碗が
盛んに作られ、茶人の間で大いに用いられたのです。
 
それは必ずしも関白秀吉や武将たちの上流階級ばかりでなく、
特別富裕でない一般の町衆たちにも支えられた美意識だったはずです。
 
初期の美濃の陶工たちが、茶の湯の規範や茶人のディレクションとは
関係なく、時代意識と呼ぶしかないものを背景に作り出した茶碗には、
雄渾で自由な造形意識が横溢しています。
 
その規範を超えた自由さにこそ、桃山の茶人たちは魅了されたのでしょう。
 
■武者小路千家 千宗屋氏 

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抹茶茶碗の聖地である美濃なのに、
なぜか、千家の茶道と美濃の抹茶茶碗が
あいまみれないのかを疑問に思い、
先日下記のように自分なりの体験から述べましたが、
 
 
上記の千宗屋さんの話を見ると、大方同じように
見られていると感じました。

しかし、この美濃抹茶茶碗と千家茶道の関係の疑問を
特に説明してくれた方はいませんでしたが、
美濃の陶工の先生方を見ていてその気概から
読み取れたというのは、やはりこの場所に
日本のやきもののルネッサンスを起こした場所として
根底に流れている誇りがあるからなのだろうと思います。
 
また今も、平成の茶人を魅了できる現代の茶碗が
茶人、陶工との見立ての中でセレンディピティ
生まれていけばと思います。

※茶の湯は常に現代であるはずなのに
  いつから古典に限るになってしまったのか、
  古いものと新しいものを同居させていくのが
  本来の推進力のような気がします。


沼尻真一





























 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大阪法善寺横町「本湖月」料理人 杉浦君と人間国宝 加藤孝造先生弟子 加藤三英先生個展



 
 
福井出身の杉浦君はもう15年、この大阪の名店
ミシュラン2つ星を獲得している「本湖月」で修行をしている。
魯山人の器はもちろん漆器まで、貴重な骨董から現代作家までの
器を日本で一番多く蒐集し、使っている料理店としても有名だ。
 
指導のもと、包丁一本飲む打つ買うの料理人ではなく、
休日も煎茶道の稽古や英会話、そして直接やきものの産地を
めぐり、器の作り手の思いを受け
料理に活かす努力をしている若い料理人だ。
 
杉浦君の実家も料理屋を営み
加藤三英先生も代々の窯元の家である。
僕は、こうしたある生業の血を受け継いだ志あるもの同士の
出会いがコラボレーションすることで
今後の日本のささやかな変化になっていくのだろうと
思っていたので、実現できてよかった。

特に器が料理界に流通するしくみを見ると
陶器商や骨董店から→料理店という流れが多く
どうしても、やきもの=薪窯焼成最高級=高額
という流れや、
大正、昭和初期の潜在的なやきもの数奇趣味
青山二郎さんや、白州正子さん、魯山人
あるいは柳宗悦氏の民芸運動の健康的な美という
それだけの固定観念の呪縛から
買う側もそれを見るお客さんもなかなか
懐古趣味既視感から抜け出せず、ある価値や価格が定まったもの
だけが高価であるとか、どこかで見たことがあるような
あるいは完璧な古典の写しを求めてしまう傾向にあるのが、
そういう選択肢だけになるのは実にもったいないように感じるし
狭い領域と流通経路内の選択になると思う。

img_00708.JPG
・大阪 高島屋 加藤三英先生個展

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売るほうとしては、もちろん何らかの拠り所が必要なのだろうが
やきものは何処でいいものが突然焼けるか
わからないのものだから、その拠り所を紹介する
ギャラリーに頼るだけでなく実際に作家に足を運んで
自分で発掘してみるとまったく作品が違ってみえると思う。

その発掘する楽しみ、つまり醍醐味が唯一日本に残されているのが、
骨董めぐりだけでなく、日本の工芸もっと言えば
産地、産地のやきものや、漆器等なのだと思う。
そしてまた作り手の生き様も興味深いと思う。
価値を自分の眼で見出す、見立てる面白さの方が
人に決められた価値よりも面白い。
陶芸家というと火サスのイメージと思う人もいるかもしれないが
ちゃんと電話でアポをとれば快く作品を現場で見せてくれる。


唐津の中里隆先生と小山富士夫先生の
花ノ木窯で出会ったときに、
「先生唐津は歴史があっていいですね」と言うと
美濃の方が断然歴史があるよ。
唐津は途中途絶えちゃってそれを復興したんだから
と言われて、あらためて、太くなったり、細くなったりしながらも
脈々と続いてきた美濃のやきものづくりには関心した事を思い出したし、
一楽二萩三唐津も、一井戸二楽三唐津も
日本六古窯を命名した小山先生も自らその著書で
述べているように、ある便宜上まとめる必要があったと記してある。
このような価値感が流通する上での売る側の商品の付加価値と
それを鵜呑みに審美せずに買ってしまうという
歴史が日本の産地のやきものにあるのは歪めない事実だろう。

しかし時代はとうに進んで実際
国立近代美術館工芸課を頂点とした括りの
日本の伝統工芸は、もっと現代美術に近い現代工芸に
なってきているので、おそらく普通にやきものというイメージよりは
もっとアヴァンギャルドで現代美術に近い感じを受けるだろう。

しかし一般の人が求めるやきもののイメージは、
むしろ伝統工芸というよりも伝統芸能的な
側面が強く、歌舞伎の中村屋だったらこういう演目でこういう配役だろうとか、
同じように、師匠がだれで、志野なのか織部なのか黄瀬戸なのか
という具合で、どちらかといえばお茶道具の陶芸もこの家系、系譜に
価値を置く傾向があると思う。

しかし、この2つは一見違うように見えるけれども
両方にまたがっている作り手も数多くいるので、
魯山人の写しを作ってもらっても、恐らく写しきれないし、
それを有難いと思わないように、どのポジションにいても
その作り手にしかできない芸術的な自己表現が、作品に求められている
という背景を知っていることが価値を判断する上で
大切なのだと思う。

この辺りは明確な線引きができるわけではないので、
抽象的だが、それを知ろうとする料理人の杉浦君は、
白州正子著「器つれづれ」を持って来たが
帰りには現場を見て目から鱗が落ちていたと思う。

そのぐらい工芸は特に美濃はへうげものの織部魂ではないが
革新しているし5年後、10年後を見据え
現代の粋、現代の数寄の見立て、
骨董と現代工芸の取り合わせ
まだ価値の定まっていない新しい作家の発掘のように
もっともっとアグレッシブに清新な風が
器を見立てる料理人にも求めれてくるのだと思う。
 
日本料理は、イタリアンやフレンチよりも
長い板場の修行そして、店舗の数寄な室礼
最高の素材と美しい器という、食の総合芸術であり、
一番ハードルが高いが、一番利益が出し難いという
特徴を持っている。
 
杉浦君は「炊き立てのご飯か、そうでないご飯か判る。
世界でも一番繊細な食の感性を持っている
日本人の食を、自分たちの世代やこれからの若い世代の人に
伝えていきたい」という使命を持って日本料理に取り組んでいると言った。
ちょうど、9月5日(水)から加藤三英先生が、
本湖月のそばの大阪高島屋で個展を
されるタイミングともあい、橋本徹大阪市長ではないが、
くいだおれの町大阪から、
食も政治も日本が熱くなって行きそうだ。
 


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■加藤三英先生個展
 
人間国宝 加藤孝造先生に師事
 
・9月5日(水)〜9月11日(火)
・高島屋大阪店6Fギャラリー
 午前10時〜午後8時まで
・TEL06−6631−1101

 
 

 ・沼尻真一の茶道や茶の湯に関する記事

https://profile.ameba.jp/ameba/chazenichimi

 
 
 


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以信得入 / 美濃焼の陶祖十四代 加藤康景先生 急逝

 
 
車の事故で8月13日に急逝された。
48歳の若さだった。

自分のルーツを踏まえ、ものづくりを行い
そして後身を引き上げる兄貴肌の先生だった。
 
誰にでもライバルが必要だから、いつでも遊びに来て
うちの弟子にも刺激になるからと言ってくれた。
 
静かに一人抹茶茶碗を挽いている先生の姿を
忘れる事はできない。
 
訪れる客に対しての凛とした振る舞いと、佇まいこそ
陶を求道する者の手本としたい。



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土岐の陶芸家衝突死 加藤正治さん、長野で
2012年08月14日12:41 岐阜新聞

13日午後4時半ごろ、長野県平谷村の国道418号で土岐市泉町久尻の6、
陶芸家加藤正治さん(48)の乗用車が道路案内標識の柱に衝突し、
加藤さんが腹部を強く打つなどして死亡した。
乗用車は道路右側の標識に衝突した。雨が降っており、路面がぬれていた。

美濃陶祖14代、03年に庄六賞 加藤さん

加藤さんは、美濃陶祖加藤景延の血筋をくみ、
2001年に14代を継承し「康景(やすかげ)」の名で活動していた。
多治見工業高校出身で、備前焼で知られる人間国宝の故山本陶秀に師事。
名古屋芸術大学彫刻科を卒業後、2003年に「志野茶わん」で
美濃陶芸協会の庄六賞を受賞した。

加藤さんが所属していた美濃陶芸協会の
林恭助会長は「突然の訃報に驚いています。
陶祖継承後も、美濃陶芸発展に尽くしておられた。大変残念。」

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●葬儀告別式
2012年8月16日 午後1時より
土岐市斎苑美しが峰
所在 土岐市肥田町浅野1100番地の1
電話 TEL0572−55−3342


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SHINICHI NUMAJIRI INDEX



・日本的モダニズムを作るには


・京都 桂離宮の見所


・「ハレとケ」遠野物語・柳田國男から「ハレと欠け」まで

・legend of 311  誰もが生きるという意義!






















































白磁と韓国茶道と− 書藝家 康法善氏(圓光大学校教授)

 
白磁と韓国茶道と 書藝家 康法善氏(圓光大学校教授)


白と白

「素色(そしょく)」という韓国特有の色名は、
色を染めていない素地のままの色を指す。

朝鮮民族は古代より数千年の歴史を
両班も庶民も大人も子どもも白衣で通してきている。




陰陽五行説思想が中国から伝わり、
民族独自の色彩精神や、何色にも染まらない民族の
独立精神を象徴しているとも言われている。

桃山の茶人は磁器に対しての憧憬から生まれた粉引の白に
大正には柳宗悦、浅川伯教、浅川巧により白磁の白に
日本人は自分の中の白を
白いやきものの中に映してきた。


沼尻真一