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この世界の片隅に/沼尻真一


終戦記念日も近いので、

この映画を見ました。


評判通り、

これまでの戦争映画を見終わった

ような感情は生まれませんでした。

また違った感覚でした。


きっと、

ボロボロになりながら友達と

回し読みした「はだしのゲン」や、

「蛍の墓」さえ知らない世代には、

新しい基準になる映画だと思います。


ただ、帝国陸軍へ出征していた祖父や、

家を守った祖母から聞かされた話が

自分にはあまりにリアルで印象深く、

殺伐とした中に必死に生きた

戦争の時代というイメージの中に、


人間的で優しいトリミングが

多い事には、正直自分の中に

違和感を覚えました。


もし、

逆にあのネガティブで

リアルで残酷な話ばかりでまとめたら、

映画にもならないんだろうな〜と。


戦時中も大変、

しかし戦後はもっと大変。

混乱期にGHQによる強制農地解放の話を

多くの方から良く聞きました。


やはり戦争にはルールが無いと思います。

どんな手を使っても、残念ながら

戦勝国に正義は生まれてしまうと思います。


今はこのように、

ゆっくり映画も見れる時代で、

本当に良かったです。


あらためて日本を守り

築いてくれた先達の方々に

感謝するだけです。


沼尻真一


















夏の甲子園、茨城準々決勝で常総学院惜敗/沼尻真一


全国ニュースにも残念ながら、

常総学院が茨城準々決勝で負けた事が

取り上げられていました。

試合はラジコで聞きましたが、

完全に勝てた試合に感じたので

残念でした。


しかし、ベストを尽くした選手には

本当にお疲れ様でした。

試合内容は、

もちろん素人が
戦術を言ってもあれなんですが、

今回は戦術を?考えさせられました。

毎回の毎回の
残塁も多かったな〜、

ここでバント?

ここでピッチャー交代?

このピンチに、
スリーボールから一球待たないの?

?がいっぱいでした。

振り返れば名将、

木内監督率いる取手二高が、
県立にもかかわらず、

あの桑田、清原のPL学園を

決勝で破って、夏の甲子園で
優勝した感動は茨城では、もはや伝説です。

その後、常総学院の監督となり

ダルビッシュ有選手などを破り、

春・夏の甲子園優勝と

素晴らしい実績を残し

高校野球常連校として導きました。

現在監督の佐々木監督は

取手二高優勝時代の教え子です。

昨年から感じてたんですが、

もう昔の高校野球じゃないな〜と思います。

春夏連覇とか以前はあまり、

ありませんでしたから。

どんなに優秀な選手を揃えても、

どんなチームや選手に育成するのか?


方針次第で3年後には

まったく違う結果になるんだな〜と。

今年春夏連覇を狙う
大阪桐蔭の選手や、


昨夏、常総と対戦した
秀岳館の選手を見たら、
そりゃ体格が全然違いますよ。

もう監督の奇策とか
気合いと根性だけじゃないですね、

150キロ超え当たり前の時代です。

柔道、野球、ラグビーの
トレーニング内容も、
もろもろガラッと変わりました。

今年の春に、

日ハムの大谷選手のトレーニングを

隣で見た時にも、目的に合わせた

トレーニング内容が大事な時代に

やっと日本もなってきたんだな〜と

感じました。

きっと高校野球も過渡期なんですね。

























京都・祇園祭 八坂神社の茶会・祇園万亭、一力/沼尻真一

2017の祇園祭も晴れましたね。

ニュースで見ました。

 

 

※記事はリブログです。

 

毎年7月16日宵山には、京都八坂神社にて

表千家、裏千家の

御家元が交互に献茶式を奉仕されます。

 

今年は、表千家です。

 

 

数多くの茶席がありましたが、

万亭の席に入らせて頂きました。

 

 

沼尻真一

 

 

誰もが、花見小路で見かけた事がある

この紅殻壁ですが、「万亭」正式な屋号ですが、

皆さんよく一力と呼んでいます。

 

歌舞伎の赤穂四十七士をいろは仮名に例えた

「仮名手本忠臣蔵」にも登場する「一力」という

名前が有名になったことが由来のようです。

万という字を崩して、一力とも言われています。

 

つまり幕末には大石蔵之助が利用されていた
 ようで、今でも命日の三月二十日には

大石忌が一力にて催されています。

 

この一力、赤穂浅野家

意外にも郷里茨城県と

深い関わりがあるんですよ。

 

実は赤穂浪士のうち

赤穂(播磨国赤穂郡)出身者は

大石良雄を含めて半数程度で、

次いで多いのが

常陸国、茨城県の真壁(真壁郡)や

笠間(茨城郡)の出身者なんですよ。

 

赤穂浅野氏の家臣団の中心は、正保2年(1645年)に浅野長直(長矩の祖父)が

赤穂に転封される以前は

真壁藩・笠間藩時代に

形成されていたからです。




つまり赤穂浪士の

吉田兼亮・小野寺秀和・堀部金丸など

高齢者の浪士は茨城県生まれが多いそうです。

茨城県笠間には
大石内蔵助の祖父で、笠間藩家老だった

大石良欽(よしたか)の邸宅跡が残ります。

その後、赤穂へ移って57年後に

浪士の討ち入り事件が起こります。

 

そんな同郷の先達赤穂浪士を知り、

一力を訪れるのも感慨深いです。

 

※茨城県から来た修学旅行生達も

  一力必見ですね。

 

 

待合

 

 

 

あやかれや 長刀鉾の 鬮とらず   

        如心斎の句、即中斎筆

 

 

つねに山鉾巡行の一番手を担っている

長刀鉾の重責にあやかりたいという

御家元の句ではないでしょうか。

 

 

祇園祭には、ヒオウギという植物が必ず飾られます。

扇状の葉を持つことからヒオウギ(檜扇)。

古代、ヒオウギで悪霊退散したことから厄除けの花として

飾られるようになりました。

 

 

 

本席

而妙斎御家元筆

祇園守槿、七宝唐舟

 

 

水指の摘みは長刀鉾ですが、

この長刀の刃を御所に向けるのは

失礼という事で、取り外しが

可能になっています!

        当代永楽造

 

 

お運びは祇園の舞妓さん、引きは旦那衆が

していただける華やかさ。

 

舞妓さんの裾さばきの美しさに驚きます。

袴でさえ危ういのに。

 

やはり厳しい稽古あっての舞妓さんです。

 

建築は鴨居の上に長押がまわる典型的な

書院造で、木の部分を全て漆を塗り漆黒に

している点が、紅殻壁と合うなと感じました。

 

 

長刀鉾 宵山 2016

 

今年の祇園祭りは快晴でした。

 

沼尻真一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いばら ぎ じゃなく いばら き/沼尻真一


京都でも、名古屋でも


茨城出身ですというと!


あっ ひょっこ見てますよ!と

よく言われます。


が、


??? ? 銘菓ひよこか?


テレビを

かれこれ、まる10年見てないので

まったく分かりませんでした。


だからNHKの方も来ません。


調べると


NHK連続テレビ小説「ひよっこ」

ヒロイン・谷田部みね子


らしく、


名前まで、


谷田部か〜


つくば市に合併する前は、

谷田部町でしたから、


確かに谷田部さんっていますが、

つくばには少ないですね。


しかも、ヒロインの方は

相当に訛りがあるらしく?


いばら ぎ でしょ、とも良く言われます。


もちろん訂正しないんですが、


名古屋や京都では、


今でもいばら ぎ は 


ひょっこのイメージらしく、


ちゃんと知ってもらえたらいいな〜


とは思いました。












骨董品を知ればお茶がわかる?/沼尻真一


骨董品巡り楽しいですよね。


以前も話しましたが、


小5の頃に土器クラブを作って


町の歴史なんかの本を参考に、


まだ発掘調査されてない古墳を


賊として発掘しました。


発掘した土器は、大事に置いといたつもりが


ばあちゃんに、植木鉢のかけらだと思われ


庭にバラバラに撒かれてから、


やる気が失せました。


こんな話ではなく、


お茶をされている方は陶器好きな方と、


全く興味無い方に分かれますよね。


自分も土器から陶器が好きでしたから、


骨董品も好きでしたが、


お茶をするようになってから、


逆にあまり興味がなくなりました。


一通り見ると大枠同じに見えてしまう


からかも知れません。


また


骨董品の知識やウンチクがある事は素晴らし


いんですが、所持者以上に知識のある人も


いないですし、


できればその所持者の方の思い入れの方に


自分はとても興味があり、だから


お茶も好きです。



今は誰もが、その気になれば


一流の骨董品を目にする機会が


多くありますよね。



まだ見た事の無い気配や、雰囲気を


新旧かかわらず見てみたいと思っています。








日本陶芸展茶会・茶道ワークショップ開催のお知らせ・茨城県陶芸美術館/沼尻真一

 

東京国立博物館の「茶の湯」展は20万人以上を突破し、大盛況のうちに閉幕されました。


茶道関係者だけでなく、国内外の多くの方々が茶の湯に興味を持たれているようです。

 

中でも自分は、出山釈迦図が見られた事に

一番感銘を受けました。

 

 

いっぽう私達も今年は1月〜3月まで、

郷里、茨城県陶芸美術館で開催された

「現代の茶陶展」にあわせ、

笠間の海老澤宗香さんと共に、

茶会や茶道ワークショップを開催

させて頂きました。

 

 

毎回たくさんの方々に参加頂き

本当にありがとうございました。

 

そして今回、また新たな活動として

 

海老澤宗香社中では、

 

 

 

⚫日本陶芸展 茶会開催

 

  in 茨城県陶芸美術館

 

 

伝統ある日本陶芸展のなかで、

席主である海老澤宗香さんの、

アートワークが非常に楽しみな茶会と

なります。

 

【日時】

7月15日(土)

8月19日(土)

 

10:00〜/10:45〜/11:30〜/

13:00〜/13:45〜/14:30〜/15:15〜

 

【定員】

各席 10名程度 (先着80名)

椅子席を多くご用意しております

 

【料金】

500円

 

【席主】

海老澤 宗香

 

茨城県陶芸美術館にてご予約承ります

TEL:0296-70-0011 先行予約受付中

 

 

 

 

⚫3回完結・茶道のきほん講座

        〜飲んで点てて知る〜

 

 

海老澤宗香さんによる、

茶道3回完結ワークショップが開催されます。

 

やりっぱなしのワークショップではなく、

前回開催致しました

 

世界初「侘びを体感するワークショップ」をフォローし、

 

さらに一歩進めた講座となっています。

 

初心者の方、男女一般、学生の方を

対象としています。

この機会に真の茶の湯の楽しさを、

ぜひ体感してください。

 

 茨城県陶芸美術館にてご予約承っております

TEL:0296-70-0011 先行予約受付中

 

 【日時】

毎月第4日曜日(12月のみ第3日曜日)

10時〜11時

 

第一回生は、7/23(日)スタート

 

【場所】

茨城県陶芸美術館内 講義室

(茨城県笠間市笠間2345)

 

【受講費】

3000円(3回講座分)

 

【定員】

1クラス定員10名

 

【講師】

海老澤 宗香

 

※詳しくは、海老澤宗香サイトにて

 

【講座内容】

全講座 椅子席での受講です

3回で茶の湯の歴史から、茶会参加の知識、

自宅で楽しむ抹茶まで網羅されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


多治見のペットは、まもる君。/沼尻真一


こんなに大きく開く

5本のかわいい指が魅力的。


いつも、消し忘れた電気のもとに

駆けつけて、家を守ってくれているので

ありがたや。


関東じゃ見たことなかったから、

最初は、びっくりしたけど

もう長い付き合いです。



まもる君です。










京都・夏越の祓えと和菓子、水無月/沼尻真一


 


風そよぐならの小川の夕暮は
    

みそぎぞ夏のしるしなりける

 

     従二位家隆 九八
 

 

 

藤原定家と並び称された藤原家隆73歳の和歌です。


 
ならの小川こそ、上賀茂神社境内を流れる御手洗川です。
 
「ならの小川」と聞いて、奈良の川と勘違いしそうですが
このならは、楢の葉をそよがせている様子を表して
います。
 
旧暦で行われた夏越の祓えは、すでに秋の気配が
感じられていたようです。

 


 

 
 
6月末日に行われる
 
半年に一度の厄落としの「夏越の祓え」
 
12月末日に行われる「年越しの祓え」
 
対の祓えですが、特に梅雨の時期に
古に疫病が流行した事もあり
特に「夏越の祓え」は広く
京都を中心に行われています。

 


 
厄落としには

 

 


 
・カヤで編まれた「茅の輪くぐり」をします。
 
「水無月の夏越の祓する人は 千歳の命延ぶといふなり」と
 
唱えながら8の字を描くように三度くぐりぬけます。

 

 


 
・「人形を流して厄落とし」
 
人の形をした形代かたしろに、罪や穢れを移し、
身代わりとして神社に納め、水や火の神事で清め
厄を落とします。
 
 
ちなみに茅の輪くぐりは、
 
日本神話が基になっており
 
二人の兄弟の所に
一人の旅人が宿を求めた際、
 
・裕福な兄は冷たく断り
 
・貧しい弟の蘇民将来は温かくもてなしたそうです。
 
実はこの旅人はスサノオノミコトであり
数年後その恩返しにと、蘇民の家を訪れ
その教えに従って、茅の輪を腰に付けたところ
疫病から逃れられ、子々孫々まで繁栄したと
いうことです。
 
この故事に基づき、京都の家々の玄関には
「蘇民将来札」という厄除けの札を
良く見受けられます。

 


 
祇園祭の各山や鉾で配られる粽札が
よく知られています。
 
京都の家々の玄関に飾ってある、
あの粽はよく腐らないな〜なんて疑問を
持っている人もいますね。
 
そしてもう一つ忘れてならないのが、
 
和菓子「水無月」を食べる事です!

 


 

 

お茶をしている人は、お稽古などで水無月を
すでに食した人も多いと思います。
 
京都市内では和菓子組合の宣伝カーが出動し
 
「皆さん、京は夏越の祓え 水無月を食べる日です!」と
 
宣伝していました。


関東はもちろん、

京都以外では見られない光景ですね。
 
それこそ、あちこちにある和菓子屋さんの軒先には
様々な水無月が並びます。
 
この和菓子水無月なんですが、
 
三角形の葛やウイロウの上に、
小豆が散りばめられた和菓子です。
 
 
旧暦6月1日は「氷の朔日」とも「氷の節句」
というものが宮中では行われておりました。
 
冬にできた氷を山間部の氷室で保存し
真夏に氷を口にし
夏の健康を祈願したというものです。

 

御所の北を囲むように6箇所あったそうです。
 
1、仁和寺裏手の御室氷室
2、金閣寺西、衣笠氷室
3、西賀茂氷室神社、本氷室
4、北区氷室神社、西氷室
5、左京区花園橋、高野氷室
 
 
しかし氷は庶民にとっては高嶺の花。
 
そこで氷をかたどった、三角形の生地に
厄除けの小豆を散らした御菓子
水無月が作られたそうです。

 

これも皇室行事への、庶民のあやかり文化ですね。
 
鬼も赤、赤ちゃんも赤、還暦も赤、神社も赤
小豆も赤で、赤いものは古来より邪気を
祓う色とみなされていました。
 
京都の恩師に言わせると
 
今の水無月の菓子は、小豆がビッシリで
 
「アレはあかんから!」
 
節分のように
 
「ぱらっぱらっと撒いてなんぼ」だそうです。
 
確かにビッシリ小豆の方が、美味しそうですが。
 
頑なに「ぱらっぱらっ小豆」の水無月の
和菓子屋さんを見つけるのも

意味があります。

 

 

沼尻真一

 

◆SHINICHI NUMAJIRI INDEX

 

・利休忌と菜の花/沼尻真一

 

・炉開きと亥の子餅、口切の茶事の意味/沼尻真一

 

・京都・大覚寺 広沢の池 観月の夕べ /沼尻真一

 

・寂連と光悦の村雨 /沼尻真一

 

・多治見めしは、ひつまぶし/沼尻真一

 

・京都 五山の送り火/からけし けし炭 − 沼尻真一

 

・ライフスタイルショップのはかなさ 2012年/沼尻真一

 

・しら露と穏逸花/文屋朝康と千利休居士 − 沼尻真一

 

・茶の湯のカネ割りー「易経」「南方録」/沼尻真一

 

・100年後のつくばを世界遺産に登録する2014年 − 沼尻真一

 

・白洲正子の京都、平野屋鮎と茶の湯/沼尻真一









 


白洲正子さんの京都、平野屋の鮎と茶の湯/沼尻真一


夏の茶の湯には、

 

鮎をテーマにしたものを

 

良く見かけます。

 

先日も恩師の書院の床には、

川合玉堂の鵜飼の画が
掛けられておりました。

 

 

 

 

鵜飼は天正天皇720年(養老4年)から行われて
おり、大変歴史の深いものです。

 

自分の窯のある岐阜県ですが、

西濃の長良川の鵜飼は日本一有名です。

 

しかし

 

あの鵜は

一般保護鳥に指定されていて、
捕獲を許可されているのが、

日本で唯一茨城県十王町の「鵜の岬」です!

 

そこで捕まえた海鵜を
岐阜や京都、愛媛、山口などなど鵜飼をしている
全国12箇所に送られるそうです。

 

我がふるさと茨城出身?の鵜が

全国で苦労しながら活躍しています。

 

青楓に囲まれた清流に泳ぐ鮎は、

何とも涼しそうで、
京都のムッとした暑さの中

 

一服の涼を誘います。

 

しかしこの鮎というものを
お茶をしている人でも意外に

知らないな〜と思い

記してみたいとます。

 

 

夏といったら鮎!

 


「あゆる」が「アユ」に

「あゆる」は「おつる」の古語で、

 

鮎が春になると川を上り
秋になると川を下ることから言われています。

 

 

もう一つ
中国では鮎に「年魚」という漢字が用いられています。
春に生まれ、そして冬に死ぬという所からです。

 

日本では、「日本書紀720年」「古事記712年」の
いずれにも鮎は「年魚」として登場しています。

 

鮎という漢字は?

 

魚に占う?

 

 

誰が何を占ったのか?

 

 

●日本書紀の中に!
九州に生まれた初代天皇 神武天皇が
東征をし近畿大和を平定し、王権確立をしたという。

 

紀伊熊野から、いよいよ大和の高倉山に至った際に
戦勝祈願の儀式で川魚の捕獲状況で占ったと

伝えられています。

 

 

●古事記の中でも!
神功皇后(じんぐうこうごう)が現在の佐賀県で、

鮎釣りをされ新羅進軍にあたり、
釣りの成果で占ったという。

 

因みにこの様子を表しているのが

京都祇園祭の占出山であり、

別名、鮎釣山と呼ばれています。

 

 

祇園祭限定、占出山で売られる菓子

「吉兆あゆ」

 


このように皇室と鮎は

関係の深い魚として
とりあげられ

 

「日本建国のシンボルのような魚!」

 

として存在しています。

 

また室町時代から明治まで、

京都では「御用鮎」といい

旬に獲れた鮎を朝廷に献上していたそうです。

 

つまり

 

同じ時期に鮎を食するという事が

庶民にとっての

 

「あやかり文化」

 

につながってきたのだと思います。


若鮎の菓子も

 

みな月の菓子も


鮎や氷を食べてみたいという、

 

庶民の願望が
菓子となったように、


「あやかりたいという願望から生まれた文化」は
多くの日本の文化に影響しています。
 
きっと皇室や朝廷でなくとも、

それぞれの地域のお殿様の歴史の中にも、

身近なあやかり文化は全国各地にあると思います。

 

そのようなモノや事、

 

土着性に触れられる点でも

茶の湯を嗜むというのは

面白いものです。

 

※ちなみに中国では鮎という字は

ナマズを指すらしいです。

 


 


●白洲正子と京都平野屋の鮎

 

京都に夏の訪れをつげる祇園祭。

 

この祭りを彩る京料理に欠かせないものに
鮎があります。

 

祇園祭前

値段が一番高いと言われれる鮎。

 

なかでも「世木の鮎」が

京都の鮎ブランドです。

 

しかし鮎は無傷で生きてなければ価値が無い!
と言われ、活鮎をめぐって

古来から様々な知恵と工夫が
生まれてきています。

 

 

京都の鮎といえば、


白州正子さんや多くの文人も
鮎の解禁を待ちわびたという

創業400年「京都平野屋」さんが有名です。

 

 

 

 

武者小路千家三代の画

一番左が八歳の頃の若宗匠 千宗屋さんの仏画

 

 

 

大川橋蔵さん、美空ひばりさん

 

 

もともと平野屋さんは
京都火伏の神として知られている愛宕神社の門前町、

嵯峨鳥居本にある鮎問屋として始まりました。

 

この世木の鮎は世木村、現在の日吉町で
6月1日から9月30日まで、夏のかせぎとして
漁が行われておりました。

 

投網で一網打尽が早そうですが、
傷がつきますから、ヒッカケ漁や友釣りなどが
主流のようです。

 

鮎を獲るアユトリさんから、

 

鮎を運ぶアユモチさんに

 

引き継いで、

平野屋女将 井上典子さん

 

中には炭を塗り込め暗くする工夫を

 

 

計50〜70匹を入れ計27kmを
7時間山道をアユモチ桶に鮎を入れて、
鮎が心地よい様に揺らしながら
鮎を運んだそうです。

 

平野屋鮎の生簀

 

貴重な鮎を運ぶのに

かなり熟練を要したようです。

 

途中2〜3Kmごとに新鮮な冷たい水を

鮎桶に補給しながら
慎重に慎重を期して運んだそうです。

 

そして一日置かれて、

 

鮎のストレスを取ってから

 

祇園祭で賑わう

 

祇園や先斗町の高級料理屋さんで

旬の鮎料理が振舞われたという事です。

 

平野屋鮎

 

茶店の菓子「志んこ」も有名。抹茶、白、ニッキ

 

 

茶の湯と同じように、京都に育まれた鮎文化。

 

茶席に登場する鮎を見かけたときには

ぜひこんな鮎の流れを思い出してみると

さらに楽しくなると思います。

 

 

沼尻真一









 


なぜお茶・抹茶・茶道は点てるというのか?なぜお茶は一服というのか?・茶道/沼尻真一

 

 

茶の湯には

美しい言葉や、難しい漢字が沢山あり、

何か書こうにも

 

漢字変換できない事ばかりで

いつも四苦八苦です。

 

まして携帯なんで

とんでもないものしか

出てきません〜

 

 

むかし

茶の稽古中に

 

先生から「薄茶いかがですか?」

 

と言われ

 

「あっ、

    

    もう一杯お願いします。」

 

と言ったら、

 

先生から

「一服ですよ。」

 

なんて指摘された事を思い出しました。

 

煎茶は淹れるのに、

 

抹茶は点てる?

 

抹茶はなぜ?

一服

二服と数えるのか?

 

あたり前なのに、

 

かる〜く疑問に思い


調べてみても


動作や漢字の意味ばかりがネットで溢れていて?


そこは誰でも知ってるので、


そこじゃないな〜と思い


 

昔を尋ねてみたんですが…。

 

 

                 十

 

やはり漢字やお茶が生まれた、

当時の中国から見ていきます。

 

遣唐使を派遣していた

唐の時代には喫茶の風習が広がっており

『旧唐書』には、茶は食物であり、

米や塩と異ならないと記されています。

 

そんな中、

 

お茶の世界では有名な茶書、

 

陸羽りくうさんの著した

「茶経」ちゃきょうにより、

餅茶へいちゃ(宋の時代には団茶)を

粉にして煮る方法、

後に「煎茶」といわれる方法や、

薬効について記されました。

 

宋の時代に下がると

皇帝から一般人まで、

茶はすでに生活に不可欠なものと

なっていたようです。

 

この時代には、

 

蔡襄さいじょうさんが1051年頃に

「茶録」ちゃろくという書物を著し、

団茶を粉にして、湯をかけて

撹拌して飲むという、

新しい方法を記しました。

「点茶」という方法です。

 

ん〜バリスタのようです。

 

喫茶が広がり、茶葉の品質が

向上されてきた為と考えられています。

 

つまり、

この頃のお茶は

 

煎茶法、点茶法など

地域により飲み方も様々だったようで、

 

 

 

 

中には、現在のように

葉茶を淹れる散茶という飲み方もあり、

 

 

 

この散茶の一種として、

葉茶を粉末にして湯を注ぐ、

現在の抹茶のようなもの

も飲まれていたようです。

 

また町に出れば茶坊・茶肆ちゃしと

呼ばれる茶店が多数あったようです。

 

 

店では職業・身分関係なく、

同じ席で茶を飲んでいたとの事。

 

もはやスタバです。

 

なので、

 

宋の修行僧達が主に薬として

茶を飲んでいた、というイメージが

ありましたが、

ちょっと違いましたね。


宋で飲まれていた茶のイメージは

皆さんはいかがでしょうか?


ただざっくり、

お稽古で、お茶を渡来ものとして崇め、

日本の今の茶道のイメージを

固定してしまうのでなく、


やはり、日本に伝わる前の

宋の国のイメージって大事だと

私は思います。

  

このように

お茶の産地である

宋ではすでに、

茶の品質階級はあったにせよ

 

茶が「薬」

 

という当時の日本のような

意識ではなく

既に生活の一部だったんですね。

 

さすが産地は違います。

 

だからその頃は、

 

んー苦い「もう一杯!」

 

で良かったかもしれません。

 

 

ちなみに「点茶」という語には

口の細長い湯瓶で、一点に湯を注ぐ

という意味もあるとの事。

 

また「点」という字には、

 

中国語で

火をつけるや、

滴るなどの意味も

あったので、お茶を点てる様子に

近い感じもしました。

 

また面白いのは、

 

修行僧の点呼の為に茶礼をするから

「点茶」という面白い説もありました。

 

修行中のお坊さんの

慌てた姿が浮かびます〜

 

 

つまり、

自分のかる〜い疑問点の

 

答えとしては、

 

「一服、二服」と薬のように呼ばれる

きっかけは、

 

・茶の薬効を説かれた、陸羽さん。

 

 

お茶を「点てる」と言うのは、

 

・点茶方法を説かれた、蔡襄さん。

 

でした。

 

スッキリしました。以上です。

 

 

 

日本にはどのように?

伝わったか?

 

 

PCが壊れて2年…

しかし、


やはり

日本へ〜が気になりますので、

 

 

今から945年前、

1072年弟子七人とともに入宋した

大雲寺 阿闍梨の成尋じょうじんさんの

「参天台五台山記」には、

 

各地の官営や寺院で「点茶」の

もてなしを受けたと記録されています。

 

 

その後、成尋さんは弟子のみを返して、

1081年にそのまま宋で入滅されています。

 

 

 

そして、その一世紀後

1191年に二度目の帰朝をした、

栄西ようさいさんにより日本に

喫茶法が伝えられたとされています。


一世紀、百年も遅くなりました。

 

栄西さんが喫茶法を記した

「喫茶養生記」には、

 

一、喫茶法には、「白湯、只沸水云也。

極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。

 

「(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二・三匙。

多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)」とあります。

 

ここでも、

 

「点てる」

という語が記されています。

 

また、あわせて

 

「之を服す」という語が

 

「喫茶養生記」には数多く記されています。

 

やはり、養生記ですから

お茶を「薬」として捉えられています。

 

中国語でも「服」には

薬や毒を飲むという意味がありました。

 

つまり、宋に赴いた

この二人の高僧の記録などから

 

日本では、

茶は「点てる」、

薬と同じ「一服、二服」と

徐々に広まっていったのではないでしょうか。

 

以上です。

 

 

やっぱり、

ダメです〜

 

たった

 

なぜ

茶を「点てる」というのか?

 

なぜ

「一服」というのか?

 

これだけの事なのに、

 

 

どうしても

省略できない部分があります。

 

 

百丈懐海さん(ひゃくじょうえかい)

749年〜814年は、唐時代の禅僧です。

禅宗の清規しんぎとは、
禅宗の僧の生活規則です。

この百丈懐海さんが
『百丈古清規』を初めて

制定したとされています。

 

この頃日本では、

804年に遣唐船団として

唐へ渡った最澄さん、空海さん、

805年には三十年以上在唐していた

永忠さんも帰国しました。

 

815年には永忠さんが

嵯峨天皇に煎茶を献じたと

「日本後記」には記録されています。

 

つまり、平安初期には団茶法としての

茶が一部の貴族や僧侶の間で飲まれ、

茶園が作られたとする記録もあります。

 

つまり、栄西さんより300年も❗早い

この時期の日本では、

 

永忠さん、最澄さん、空海さんなどは

寺院としての茶の捉え方、用い方。

 

貴族の方は、貴族としての茶の捉え方

用い方をしていたと

私には見えますので、

 

宗派は違えど、

寺院では「禅の清規」に基づき

「点茶」かもしれませんし、

 

誰もがお茶を薬として捉え、

「一服」だったかは、

私にはわかりませんでした。

 

また

また宋に戻ります。

 

宋の時代になると、


この『百丈古清規』は

衰退してしまい、

それを遺憾とした雲門宗の

宗賾そうたくさんが、

当時叢林古刹などを調べあげ、


現存する最古の清規『禅苑清規』

ぜんおんしんぎを

1103年(日本は平安時代)記されました。

 


栄西さんが

宋で学んだ頃の禅林ではすでに

この「禅苑清規」が

用いられていたと考えられており、

その中には現代の茶の湯の原型と

考えられている「茶礼」がありました。


「禅苑清規」の中では「点茶」という語が

使われています。



栄西さんの後も、

永平寺を開創した道元さん、

大徳寺を開創した宗峰妙超さんの師の

南浦紹明さんなど、

 

宋へ留学した僧が続き
「禅苑清規」が、日本の禅宗と

茶の湯の成立に大きな
影響を与えたと考えられています。

 

ちなみに栄西さんが開山された

京都建仁寺では、毎年4月20日

栄西禅師の降誕会に行われる

「四頭茶会」よつがしら茶会が

開かれています。



この四頭茶会は清規に基づいた

茶礼として広く知られており、

荘厳な雰囲気の中、

所作全てがとても参考になるものです。


お坊さんは全員左足から入室して来ますよ。

 

お茶をしていない方も、参加できますので

ぜひオススメです。

 

また日曜朝の座禅会は、

さらに素晴らしいものです。

 

 

そこで、


この四頭茶会を

「禅苑清規」に照らし合わせて見ましたが、


残念ながらそれがどの部分に近いのかは、

私には読解できませんでした。


日本に於ける禅宗も、臨済宗・曹洞宗・

黄檗宗と三派に分かれそれぞれに、

「独自の清規」を編み出されているため、

合致はしないですね。


この辺りは茶道の流派と似ていますね。


・「禅苑清規」−赴茶湯に

  茶湯の儀礼がありました。

 

 


なぜ抹茶は

「点てる」と言うのか?

 

なぜ抹茶は

「一服、ニ服」と数えるのか?

 

 

自分の初歩的な疑問から、

 

こんなん

 

利休さん前までの、

 

唐、宋の時代から、

そして日本までの茶の歴史を追わなくては

いけなくなるなんて、

思いもしませんでした。

 

学者の方なら、僅かな説明で

できるのかもしれませんが、

 

自分は宗教の中でのルート、

 

民衆の中に伝わり派生したルートなど、

 

それぞれのお茶の捉え方、

飲み方ルートが生まれ、

 

唐・宋そして日本でも

育まれて来たように見えて

こんな大量に入り乱れました。

 

いずれにしても

 

茶を「点てる」「一服」という言葉が

実はこのように千年以上の歴史を

背負ってるなんて、思いもしませんでした。

 

お茶の変遷を通じて

唐や宋の時代の繁栄した文化、

自分は美濃の焼きもの屋なんで、

あの唐や宋の素晴らしい陶磁器ができた

そんな時代背景を、

改めて知る事ができました。

 

喫茶文化が広まったからこそ、

洗練された陶磁器が生まれたと言っても、

過言ではありません。

 

また日本に伝わってきた宗教や文化、

(茶道、陶芸)も含めて、

日本独自の発展や創造性は

改めてぐっと感じるものがあります。



いまの日本では

すでに多くの茶樹が豊かに育ち、

毎日皆さんが飲まれている

美味しい煎茶や抹茶が沢山できて

これだけ身近になっても

 

 

茶の湯の世界では

 

いまだに

 

「茶を点て、一服」と

 

言う所に、何か畏敬の思いを感じます。

 

茶会では良く僧侶の方と同席させて頂く

事があります。

 

法嗣はっすという、師から仏の法と印可を

継承し、またその法を後の弟子に伝える人。

という語があるように、

 

お茶を服す時にも、もしかしたら

違う感覚があるかもしれません。

 

 

海路三千里

 

六日間以上かけての航行

 

学問を求め、命がけで大海原を渡った

僧侶の方々の勇敢さに頭がさがりますね。

 

 

 

茶道口に座り、

 

「一服 差し上げます」

 

挨拶が変わりそうです!

 

 

沼尻真一

 

 

●京都茶事ー前礼・後礼の本当の意義/茶の湯・茶道 沼尻真一

 

●日本的モダニズム/沼尻真一

 

●「無」なんてどこにもない/沼尻真一

 

●茨城県陶芸美術館にて茶会/沼尻真一